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ワクワクリベンジ読書のすすめ~『知的生産の技術』梅棹忠夫著~

1969年に出版され、今日なお多くの方々から読まれている著書である。時代は大きく変わり新しいツールが登場しても、「知的な」生活を支える技術の考え方は変わらない、と感じた。
ましてや昨年末に、「知的で素敵なシニアライフ」をコンセプトとした著書(『人生100年を楽しむために ワクワクリベンジ読書のすすめ』)を出版した自分にとって大変勉強になった著書である。
 
特に学んだひとつに「発見」がある。
著者は毎日の生活や経験の中で、おもしろいと思った現象や自分の着想を手帳(発見の手帳)に記入していた。新たな事実の発見には何らかの感動がある。その感動を大切にし、「発見の手帳」に記述していたとのこと。
その後、著者は使い勝手を考えた末、「カード」に変更。専門店に注文してオリジナルカードを作ってもらい、それに記入するようにした。どうもそれが今日の「京大式カード」になったようだ。
手帳からカードへ。今日ではスマホへということになるのだろうか。
発見は感動を生む。そしてそれを記録する中から、新しい可能性が創造される。
そうしたアプローチこそ、知的な生活には不可欠であると考える。
これはさっそく取り入れてみたいと思う。
 
また「日記」についての記載も実に興味深い。
自分も毎日日記をつけているが、特に深く考えることなく、その日付のページにつらつらと文字を並べているにすぎない。
著者の日記に対する考え方は勉強になる。
「日記というものは、時間を異にした『自分』という『他人』との文通である」
「(日記は)自分自身に向かって提出する毎日の経験報告なのだとかんがえればよい」
別に文学作品を書くのではない。だからといってイージーに書いていいわけではない。
明日の自分、翌年の自分への伝達を基本的な考え方とするのであれば、ただ漫然と記載するのではなく、わかりやすくはっきりと書くことが求められる。
 
ちなみに昨年6月に書いた自分の日記を読み返してみた。
何のことやらわからない記述がなんと多いことか。恥ずかしい話、正しい日本語になっていないところも。一体その時何が起こって、自分はそのことに対してどのように感じていたのだろうか。
はっきり言って昨年のいまごろの「自分」は意味不明。
これでは知的で素敵なシニアライフは夢のまた夢か。
ここは再構築が必要だ。

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