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古民家の囲炉裏再生から、新築の【囲炉裏暖炉】に至るまで・・・

アトリエに遊びに来ると誰もがに釘付けになる【囲炉裏暖炉】。薪と炎をいじり始めると、皆そこから動かなくなってしまう(笑)。そもそも山暮らしで囲炉裏を使い始めたのがきっかけなのですが、四国移住の思い出とともに【囲炉裏暖炉】その完成までのストーリーをたどります。


隠れていた囲炉裏を再生する

あれは東京で森林ボランティアに通い始めた頃だったろうか、かやぶき民家の保存に囲炉裏がいいのだということを初めて聞き知ったのは。囲炉裏から立ち昇る煙が木材やかや屋根を燻して保存性をよくするというのである。

「へーっナルホドなぁ」と思ったが、当時は東京都内のアパートで暮らしていた頃だったので、まさか僕が囲炉裏のある古民家で暮らすようになり、まして囲炉裏の本まで書くようになるとは、夢にも思わなかった。

様々な転機が積み重なるように起き、西多摩での森林ボランティアから日の出町への転居、そして群馬での山暮らしが始まった。築100年の堂々たる養蚕古民家であった。建設年代からすれば囲炉裏があるはずだが、前住者が改修をしてそれは隠されていた。

なにより薪ストーブが憧れだったので、まずは改修された台所の床を剥がして再び土間に戻し、そのコーナーに貰い物の鋳物カマドを暖炉がわりに設置し、一年目の冬はそれを大いに楽しんだ。

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しかし初年度は薪の準備がなかったので、周囲の山から棄てられた間伐材を集めたり、倒木を拾って乾かしたりとけっこう大変だった(薪ストーブをやっている人なら、この薪のストックがいかに大切で大変か解ってもらえるだろう)。

パートナーのyuiさんは高松の都会育ちで、主婦になってから森林ボランティアをきっかけに森に目覚めたというお嬢様タイプ。山や山暮らしに関する知識は皆無。が、薪火には大いに興味を示し、毎日の焚き火には嬉々として付き合ってくれた。やがて居間のコンパネの下に囲炉裏が隠れていることを知ると、彼女のほうから「囲炉裏、再生してやってみようよ」言い出したのである。

囲炉裏は裸火で危険だし、煙いし汚れるし、かなり大変なのでは? ・・・と僕すらも感じており、使い始めたはいいが言い出した彼女から「もうやめよう」とあきらめるかも・・・などと心配しながら再生したのだが、新しい灰の上に薪を組み、火を灯したその日から、僕もyuiさんも囲炉裏に感動し、その魅力にドップリはまってしまったのだ。

囲炉裏、それはあまりにも劇的な出会いであった。そして様々な発見の連続であった。囲炉裏といっても今様の趣味的な、炭を使う囲炉裏ではない。薪を焚いて炎を上がらせる本物の生活囲炉裏である。木灰と自在鉤のある炉がすぐれた調理場・調理器になることが驚きで、薪の使用量が激減し、山の枯れ枝でも庭木の伐採枝でも細い木が立派な戦力になることも魅力だった。

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囲炉裏を始めた2年目の冬以降、僕らは先に設置したカマドストーブをまったく使わなくなり撤去。それ以後、外での小型カマドでの焚き火、室内での囲炉裏、居間での火鉢・豆炭コタツ・・・というような、囲炉裏を中心に据えた薪火暮らしに完全シフトしていったのだ(結局、山暮らしの7年間はガスを入れずにすべて薪火だけで過ごした)。

2つ目の囲炉裏はゼロから作る

山暮らし5年目、同じ群馬のやや里地に近い古民家に転居した。最大の理由はその山村に高速インターネットがいつまでも繋がる見込みがないことだった(当時、イラストや文筆の仕事はオンラインでのやりとりが一般化し始めていた)。またyuiさんがネットで見つけてきた新地の古民家が、別の理由で魅力的だったこともある。

その家は離れに木造トラスの小さな織物工場があり、歩いて畑にも行け、前の山ではなかった竹林があり、庭には井戸もあった。井戸の電動ポンプは壊れたままだったので、手漕ぎのガチャポンを設置して使えるようにした。そしてまたしても、台所の床を剥がして元に戻したのだ(笑)。

僕らは街に近いそこで囲炉裏を見せた「ゆるカフェ」をやってみたかった。さっそく台所の土台や根太を切って囲炉裏がはまるようなスペースをつくり、庭に転がっていた石と河原から拾ってきた小石を組み合わせて基礎石を積み始めた。一部を土間にして井戸の庭に出れるように改装し、室内にゼロから囲炉裏を作り始めたのだ。

台所の天井をはがすと梁や桁は煤で真っ黒で、側壁に煙抜きの窓があった。囲炉裏の形跡は見当たらないが、カマドでの煮炊きはやっていたのだろう。ともあれ石を組み、粘土でその隙間を埋め、灰を入れた。

大変だったのは囲炉裏そのものよりも囲炉裏周りのスペースに板の間を作ることだった。前の暮らしで乾かしておいた杉の間伐材をクサビで半割りにし、ヨキやチョウナでハツり、粗鉋をかけ・・・という手道具だけで厚板を作り、ビス打ちで止め、そこをダボ栓で隠して作ったのだ。

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囲炉裏の枠は前の山暮らしで出た倒木のクヌギ丸太をチェーンソーで厚板に削り出し、ほぞ組みで作ったのだが、これまた大変で木組みの難しさを嫌というほど味あわされた。竹林があるのは前の暮らしにはない魅力のひとつで、イレギュラーな梁のかたちから自在鉤を下ろすのにこの伐り出した竹が役立った。

こうして囲炉裏部屋もでき、評判を呼んで次々と来客が訪れるようになった矢先、東日本大震災に遭遇した。

高松の街暮らしの日々で計画を練る

僕らの居た桐生市も震度5強の揺れがきた。幸い家は無事だったが、群馬の山間部一帯にも放射能が流れ、薪にも蓄積して木灰が汚染されることになった。このまま囲炉裏と薪火のカフェを構築していくのは物理的にも精神的にも無理が見え、ゆるカフェ計画はあえなく雲散霧消した。

僕らは移住を決意し、その年の6月にyuiさんの実家のある香川県高松市に転居し、街中にある電機店のご実家に居候することになった。鉄骨4階建のビルの一室をお借りしながら、創作途中だった本を仕上げ、次なる住居計画を練った。

僕は茨城の水戸で生まれ、高校時代まで過ごし、大学は福島県郡山市の郊外で4年間、その後上京。サラリーマンを2年3ヶ月。そこからフリーになり様々なアルバイトをしながらイラスト修業を始めた。東京にはつごう23年暮らし、群馬の山暮らしが7年。ずっと関東〜東北圏にいたわけで、関西圏で暮らすのは初めてのことだった。

が、四国には特別な縁を感じていた。僕の人生を変えた林業の本・・・それをもたらした福井の鋸谷(おがや)さんとは高知県の大川村で出会ったのだし、高校の修学旅行で小豆島と金刀比羅宮を訪れた初めての四国以来、2度目のその旅はダイナミックで忘れがたいものであった(当時のスケッチブックをweb公開している)。

その後、雑誌に連載した四万十式作業道の取材で四国を頻繁に訪れ、そのおかげでyuiさんのご両親とも親交が深まった。また、愛媛の住友林業のフォレスターズハウスには、僕の林業イラストが採用され展示されている。

関西圏の住まいは、京都や熊野が近いのも魅力だった。yuiさんも僕も京都が大好きで、僕らは高松のうどんとカフェの暮らしに飽きると京都に遊び(勉強)に出かけた。とくに木造古民家の町家と中庭やカマドの関係は興味深かった。京都は庭や茶室などの建築や調度品も群を抜いてすばらしい。

「山村の暮らしを極度に洗練させていくと京都になる」

とブログに書いたことがあるが、京都の深みは囲炉裏暮らしに通じるものがあるのだ。"住宅建築の神様"と評された吉村順三が設計した「俵屋/新館」、今はなき「ホテルフジタ京都」。そして「京都国際ホテル」は、値段的に僕らでも泊まれる宿であり、2014年の年末に閉館になるまで度々使った。

次なる目標は国産材でアトリエを新築することだった。それは林業本を書くことで人生を変えた僕の当然の帰結であった。そのイメージを京都でふくらませていったのだ。幸運にも山暮らしの技術をイラスト化した3冊の大型本が売れて印税が入り、その年の積算で銀行から住宅ローンが組めるようになり、にわかに工務店も現れて計画は一気に加速した。

ダメ元で設計した「囲炉裏暖炉」が通る

瀬戸内の海が見え、遠くあの思い出の直島まで見える高台にその土地はあった。yuiさんの祖父が購入していまは放置(隣の保育園が一部を駐車場として使用)されているその場所を借地し、僕らは家を建てることにした。

眺めのいい2階にリビング・ダイニングを据え、仕事場もここ。だから2階に薪火が欲しい。囲炉裏は無理だとしても(煙や灰がPC環境によくない)薪ストーブではなく裸火が見たかった。すると選択肢は「暖炉」一択ということになる。

あらゆる薪火をこなしてきた僕にも暖炉はまったく経験がなく、実際に燃えているところも見たことがなかった。工務店は薪ストーブすら経験がない。ネットで検索し、本を買い、実際に見にいくなどして研究し、素材は石と鉄で石は地元の鷲の山石を、鉄は高松のアイアン作家に頼むことにして自ら図面を描き始めた。

ところが、形としてはごく普通の暖炉なのだが、高松市の条例で引っかかり認可が下りないと工務店から電話がきた。話を聞くと側壁の石の厚みが足りないというのだった。規定では現状設計の倍の厚みが必要になる。それではプロポーションも重量も過剰になり、変えようがなかった。工務店の社長と消防署まで談判に行くことになったのだが、係官は「きまりですから」とかたくなに説得をはねのけた。

こんなこともあろうかと僕はダメ元で新たな図面を忍ばせて行ったのだ。それは側面の石を取り去ってしまい、規定の厚みの一枚石だけを背面に立ち上げた、いわゆる「三面開口形」と呼ばれる暖炉だった。新たなアイデアとして灰で満たされた囲炉裏の炉を6角形でドッキングさせるという「暖炉+囲炉裏」といった形である。これで、理屈的には規定をクリアーしているのだ。

「一応お預かりしておきます」

と係員は渋い顔でその図面を引き取ったのだし、期待は全然していなかったのだが後日「あの図面、通っちゃいました!」と社長のひょうきんな声(大学時の後輩である)が届いたのだ。驚いた。

その施工と、実際に運転してみて

すでに設置イメージまで固まっていたので落ち込んでいたのだが、大逆転。暗雲消え去って突然虹が立ち現れたような思いだった。とはいえ、これで本当に煙が抜けるのか? ちゃんと暖はとれるか? 2階に設置するわけだけど重量は大丈夫か? 杉のフローリングが加熱で炭化火災を起こさないだろうか? など不安の要素はいろいろあった。

しかし変更を重ねている時間などない。石屋さんやアイアン作家に分担された仕事は図面通りどんどん進んでいき、僕が伝えた図面と寸分の狂いもなく精緻な構造体は組み上がり、あとは下部の囲炉裏枠部分を自分たちで作るだけになった。

そのころyuiさんは病院にいた。工事が後半に差し掛かったところで突然倒れてしまったのだ。即入院・手術だった。手先が器用でクラフトが得意な彼女にはDIYでけっこう助けられていたのだが、一人でやるしかなかった。6角形の炉の大きさはダンボールで模型を作り、寸法を修正しながら側壁のタモ材を工場に発注し、インパクトドライバーを購入してスリムビスで組み上げた。

アトリエが完成したらすぐに一般の見学会をやる約束だったので、工務店の社長は早く点火してその具合を知りたがり、まだ内壁の粘土も乾かぬうちに点火の儀式となった。病院のベッドにいるyuiさんにはその一部始終を動画で中継した。結果は見事にうまく行ったのだ。人工的なファンなどないのに煙はダクトに吸い込まれていき、部屋にはほとんど煙が漏れることがなかった。

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囲炉裏の導き

見学会期中の僕の誕生日にyuiさんは退院し、それからガンが悪化するまでの1年半を、彼女はこのアトリエで囲炉裏暖炉とともに過ごした。思えば囲炉裏の始まりから高松への移住、この土地へのいざない、そして工務店との出会いから囲炉裏暖炉に至るまで、彼女の導きに貫かれていた。

古民家で囲炉裏を始めたとき忘れられないことがあるのだが、頭がふわっとして恍惚な境地に落ちた。まるで囲炉裏の精霊がちかくて祝福しているかのような気持ちになったのだ。そのとき、囲炉裏が僕の人生において何か重要な意味を持つ、と直感したのであった。そんなときも彼女はかたわらでケロリとしていた。

設計計画の段階で地元の名のある建築家の作品や事務所を回ることもあった。しかし家づくりを建築家に一通り任せてしまうことを彼女はひどく嫌って、

「ノブさん(僕のこと)、あなたが自分でやらなきゃダメだよ!」

と言うのだった。大学の後輩の工務店が名乗りを上げたときも、彼らが細かい注文を意に沿ってやってくれるか、納得いく作品ができるか僕は不安だったが、yuiさんはむしろこちらからの注文の自由が効く・・・とばかりに喜んでいたものだ。

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もし、有名設計家に任せていたとしたら「囲炉裏暖炉」が生まれることは決してなかっただろう。また木造至上主義のグループに任せたとしたら、木材を人工乾燥でプレカットという選択肢はなく、天然乾燥で真壁ということになり、囲炉裏暖炉と小窓が映える大壁の白い壁の空間はなかった。そして予算と工期の関係から平屋建てになっていたかもしれない。

こうして「囲炉裏暖炉のある家」が生まれた。そのいきさつを本にまとめることになり、そのプロモーション動画を作ってほしいという出版社からの依頼でYouTube動画を手作りしたわけである。2月に本と動画ができ、3月には出版記念として2回目の見学会『「囲炉裏暖炉の家」見学会&イラスト原画展』(僕のイラスト原画展も同時開催)を行なった。

見学会は新聞でも紹介され、ラジオインタビューの依頼も来た。yuiさんはその夏をなんとか乗り切ったのだが、秋の囲炉裏暖炉の炎を見ることなく息を引き取った。

亡くなって丸四年が過ぎたこの秋、僕はようやくクローゼットの衣類を【断捨離】することができた。囲炉裏暖炉の位置と対極にある一階の廊下には、僕の生い立ちから彼女との出会いまでを綴った『新・間伐縁起絵巻』が飾られている(原画展をきっかけに再展示)。それもまたyuiさんに触発されて生まれた作品であり、東京在住時代に描き上げた絵巻なので囲炉裏との縁よりも古い。

と、なんだか囲炉裏のことを書いてyuiさんの追憶になってしまったが、追憶ついでにその絵巻とyuiさんの歌声が収録されたYouTubeもあるので探してみてくださいw。

アトリエと囲炉裏暖炉を造ってくれた工務店【アンシング・ホーム】のブログ。




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