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黒い像


「大聖堂は見てきましたか」
黒縁メガネをかけたウェイターが綺麗な英語で聞いた。

店の中にはほかに3組の客がいるだけで、メキシコシティの飲食店はどこもそうだけれど店員のほうがずっと多い。午後遅い、もやっとした重さのある空気を天井の換気扇がだるそうにかきまわしている。

「今日の朝、見てきました。隣の、神殿の遺跡といっしょに。なんというのでしたっけ、テンプル・マヨール」

「テンプロ・マヨール」
ウェイターはわたしの発音を直してから、整った白い歯をみせて笑った。

「聖堂はどうでしたか」
「うーん、そうだな、とても大きくて。巨大すぎて。…要塞のようだった。熱心に祈っている人がたくさんいたけれど、わたしの知っている教会とは違いすぎて、なんといっていいのか、まだ消化できないな」

分厚いグラスに入ったエスプレッソ入りの冷たいチョコレートをかき回しながら、わたしはほの暗くて壮麗で威圧的な大聖堂の中に差し込んでいた午後の光の束と重いパイプオルガンの響きを思った。

「黒いキリスト像は見ましたか」
このウェイターは一向にテーブルのそばを去る気配がない。普段なら迷惑に感じるところだったけれど、あの聖堂のことを誰かに話せるのは少し嬉しいような気がした。

「ええ。毒を塗られて色が変わったっていうあの伝説はちょっと信じられないけど。黒檀でできているのかしら?とても迫力のある像だった」

「あのキリスト像に、もう一つ伝説があるのを知っていますか」

メガネの奥で深い茶色の目がきらめいた。そしてウェイターは長い話をしてくれたのだった。

17世紀はじめのこと、マルコという少年があの大聖堂で働いていた。とても利発なインディオの青年で、よく働くので助祭たちにも目をかけられ、小さな時から神の教えを熱心に聞き、よく祈り、聖句もたくさん覚え、簡単な読み書きさえ覚えた。助祭たちは彼の利発さと信仰の深さに感銘を受け、中にはスペインの学校にやって学ばせてはどうかと考えるものさえあった。もちろん、容易にそんなことが実現する時代ではなかった。

マルコが18歳になったある朝、突然、彼の両手のひらのまんなかに黒い豆の粒のようなものがあらわれた。それはどんどん大きくなり、人の目玉くらいの大きさになると、熟れ過ぎた果物のように柔らかくなって潰れ、真ん中にまるで釘で穿たれたような穴を残した。そしてその穴から、どくどくと黒いタールのような液体が流れでてきたのだ。

マルコは驚き悲しみ、これを止めてくれるように神にひたすら祈った。痛みもなく、血の気がなくなるわけでもないのだが、手のひらから流れる黒い液体は止まらなかった。何を触っても黒く汚してしまうので、もう聖堂での仕事はできなくなってしまったが、助祭たちは気の毒がって、聖堂の隅にこっそりとやって来てはろうそくを立ててわきめもふらずに朝晩祈る彼をそっとしておいてやった。

しかしその話が信者の間に広まると、少年の手のひらの傷は聖痕だと言い出すものがでてきた。まもなく、手のひらから流れでた黒い液体に触れると病がなおるとか、長命が約束されるとか言い触らすものがあらわれ、マルコが母と住んでいた町外れの粗末な小屋の前には捧げ物を持ってマルコをひと目見ようと並ぶ人びとの列ができた。

司祭はこの騒ぎを聞きつけ、マルコを異教のまじないで人びとをたぶらかす呪術師だと考えた。泣き叫ぶ老いた母の前でマルコは兵士たちに引き立てられていき、尋問にかけられた。爪をはがれ、手足の骨をすべて折られる拷問にかけられたマルコは、自分が呪術師であると自白した。マルコは汚れた沼地で火炙りにされることになった。憔悴し、神に赦しを乞いながらもマルコの手のひらからはまだ黒い液体が流れつづけていた。

その昼、マルコの衣服に火がついた頃に、聖堂の中に異変があった。マルコがいつも祈っていた聖壇のキリスト像が、少しずつ黒くなっていったのだ。マルコの体が黒焦げになった午後6時には、キリスト像も頭の先からつま先まで、夜の闇のように真っ黒になっていた。助祭たちはこれを司祭に知らせるのを恐れたが、知らせないわけにはいかなかった。司祭はひと目見るなり、この像はまじないで毒されたのだから人の目に触れさせてはいけないと、地下聖堂の奥の秘密の小部屋に隠してしまった。

司祭はそれからまもなくチフスを患って死に、聖像のこともマルコのことも人びとの記憶から消え去った。後の世代の司祭たちは、人の目に触れさせることを禁じられた「毒の君」という名を持つ黒いキリスト像を訝しみ、いつしか別の伝説を作り上げた。


語り終わるとウェイターはわたしの目を覗き込むようにして笑った。
「ひどい話」
「ひどい話でしょう」
「本当の話だと思う?」
「この国には、とても本当とは思えないような話がたくさんあります。そのうちのいくつかに比べたら、ありそうな話かもしれないですね」

チュロスを山盛りにした皿を抱えたウェイトレスに呼ばれて、ウェイターは行ってしまった。


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