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「記憶」でなく「記録」を残す

日本デザインコミッティーに所属するメンバーたちによるデザインの足跡。原画やスケッチ、言葉、モックや模型など、さまざまなインスピレーションが「記録」という形で展示されている「マル秘展」について書こうと思う。 会場ディレクターはTakramのデザイン田川欣哉氏。

鑑賞者のまなざし

“こんなふうに見たらおもしろいよ” という6つの提案から見てみよう。デザインに興味を持たせる手法であり好感がもてた。

①分野ごとの方法の違いを見る
②デザイナーごとの方法の違いを見る
③筆記用具や道具を見る
④デザインの質の変化を見る
⑤デザイナーの考え方を知る
⑥原画を観察してスケッチしてみる


原点と活力

ヘッダーの写真は、鈴木康広氏「りんごのけん玉」。同氏の研究室を写した映像「原画が生まれるところ」も見逃せない。ツバメノートをめくり余白に書き込んだという時間軸のないスケッチは、淡々とした記録であり清々しく、アイディアに色を入れないという無機質さには、デザインの原点を感じた。

下の手帳は、松永真氏の展示から。グラフィックに落とし込む前のコンセプトの「お出汁」的なものが、このような手帳から生まれているのかもしれない。僭越ながら、同じような手帳メモを25年ほど前イタリア在住時代につけていたが、途切れてしまった。「記録」とは活力であり、継続ありき。


忘却する人間の機能を網羅してくれるIT。アナログ量に比べたら比較にならないほどのデータ量が貯められるのだろうが、この展のデザイナーたちの原画や記録スケッチ、メモなどは、量以上に、集中したエネルギーを感じた。書き込み、考え込み、時には淡々と、あるいは削いだものを集中して貯めているからだろうか。


簡単ではないことを知る

「なんでも、だれでもはじめられる」時代かもしれない。「さらりとできる」人がいるのかもしれない。アイディアは、純粋な気持ちのなかにポンと生まれるのかもしれないけれど、「そう簡単にはいかない」と知ることも、悪くないのではないかなと思っている。それは「あきらめる」思考ではない。

うつわをつくることも、料理することも、材料と道具、ネットで見たマニュアル(レシピ)があれば簡単にできる時代かもしれない。絵を描くのも、写真を撮るのも、本を書くことも。

しかし、簡単に出てきても「もどる」のは難しい。仕事としてのものづくりは、プロセスの表現として「もどる」ことも「うむ」ことと同じくらい必要となることが多い。その場合に「記録」が必要となる。少なくとも私の場合。

写真:小泉誠氏こいずみ道具店


実直なパワー

パーソナルにコンピュータが使えなかった時代、パステルやペンを使いレンダリングを、カラスぐちを使ってレタリングを、ロットリングで図面を引いて「記録」を残した。工芸デザインを学ぶ上で必須であった手描きの「レンダリング」。実はたいそう苦手であったが、その作業は、昔も今も「情報を整形して表示する」という意味であり、その大切さがわかったのはうつわづくりを仕事にしてからだった。

「情報を表示」することが、どんなに大切なことか、どんなに必要なことか、そしてまたどんなに魅了的なことかがわかる展覧会。紙から跳ね返る「線」や「言葉」や「オブジェクト」に、こんなにもパワーがあるのかということをあらためて思い知らされた。

アイディアやその実現には、多くの「軌跡」があることをあらためて思い知る刺激的な展覧会だった。そして、明示的情報である「記録」には、実直なパワーがあると再認識した。


最後に、谷川俊太郎が書いた「記憶と記録」(2013年朝日新聞)という詩を書き留めておく。

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる
記憶は浮気者
記録は律儀者


「㊙展 めったに見られないデザイナー達の原画」
21_21 DESIGN SIGHTでは2019年11月22日〜

ディレクター:田川欣哉(Takram)
グラフィックデザイン:佐藤 卓
会場グラフィック:藤巻洋紀(TSDO)
会場構成:中原崇志
テキスト:土田貴宏
映像:ドローイングアンドマニュアル

日本デザインコミッティーメンバー →


あとがきコッチョリーノ 

▶︎窯の電気制御装置を変えたため、焼成プログラムをゼロから組み立てる状況に泣かされています。20年つけてきた窯炊きノートが何十冊もあるのでデータをおさらいしているのですが、立派なデザイナーたちとは大違いで正確な数値がなくギブアップです。▶︎律儀に日付とプログラム番号、スタートと終了予想時刻を記録したものですが、荒んだ心をなぐさめてくれるのは、無造作に記された「もうまにあわない」的な作業工程や天気、思いついたデザインや言葉だったりして、谷川俊太郎のいう記憶という浮気者っぷりに救われたりしています。▶︎先日お見舞いに行った際、余命を告げられた親族は、主治医に「思うことノートに遺してください」と言われていました。しかし親族は「記憶は心にあればいいし、記録はむしろ片づけたい」と。▶︎当記事のタイトルについて、書き終わった後もわたしはまだ悩みつづけています。


おまけは25年ほど前につけていたイタリア在住時代の生活費の記録を兼ねた絵日記。リラの時代です。


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