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「書くこと」の鍛え方

5月に入り,2024年も4分の1が過ぎました。

このゴールデンウィークは,どのようにお過ごしでしょうか?

ブログでは,連休中におすすめの時間の使い方について書いています。

さて,今回は「書くこと」について考えてみます。

あなたの生活の中に,「書くこと」は,どれだけありますか?

例えば,仕事やプライベートでのメール,学習時のノート,SNSへの書き込みや,手紙,日記に,何かの申し込み書など。

よくよく考えてみると,私たちが何かを書くとき,自分の立場も目的も書き方も違えば,それを読む対象となる人たちも異なります。

これまで私は,SNSや書籍を書いてきました。書くために考えたり,頭の中を整理し,言葉を紡ぎ出す時間も作業も好きであることを実感しています。

ところが,社会人学生となって以来,学術論文を読んだり,実際に書く立場となったことで,「書くこと」が難しく感じてしまうようになりました。

それもそのはずで,私感や憶測は一切,求められない学術論文ですから,書くことへの自由度は制限されるからです。

一方で,先行研究を読み尽くして背景や問題点などの論拠を示し,書き方の作法があり,科学的なデータの記述が必須などという学術論文であっても,世の中の動きや読み手への配慮に関しては,SNSや書籍の執筆をする際と同様に大切であることも事実です。

「書くこと」に自由度があるという発想は,書式的なものであって,これまで感じていた「書くこと」の自由度には,常に読み手への配慮が前提として含まれていたことに気づけました。

それって自由ではない!?という捉え方もできるのですが,自由が存在するのは,自分以外の人々で溢れる社会の中です。ですから,書くという発信(書いちゃっている)をしている時点で,ある意味ではすでに自由になっているような気もします。

読み手への配慮をうまく入れられる書き手になるには,読み手となる人たちの生活や,その人たちの日常の息づかいまでもを想像するくらいに,他者へのアンテナを広げ,深めることが第一歩だと思います。

そうすれば,おのずと読み手への感謝心が膨らみ,自分がどのように役に立てるかを考えるアイディアが絞り込まれるからです。

私自身は,まだまだ未熟なのですが,少しずつでも,そうした配慮が文面や構成に映し出せるような,書き手になれたらと憧れています。

こうしてnoteを読んでくださる方々のおかげで,書くことを鍛えさせてもらい,学ばせていただけたら嬉しいです。



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