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在宅看取りの経験〜私の尊敬する父へ〜

療養目的で実家に帰ってきました。朝から母と昔の話をして気持ちがスッキリ。自慢はできない母親だけど、話を聞く力はピカイチだ。そんな母とも振り返った、義父の在宅緩和ケアを思い出したい。


義父が家で過ごせたのは約1ヶ月だった。慣れない環境で初めての看取り。仕事もしながらだったから、もう思い出せないくらい大変だった。家中に暗い雰囲気が漂っていた。明るかった義父は言葉を失い、表情を失っていった。残された時間をどうか穏やかに過ごしてもらうことを第一に考えて動いた。

幼少期から父親がいなかった私にとって、父親という存在は初めてだった。親を看取る夫の気持ちにどれだけ寄り添ってあげることができたのか不明だ。ある日の夜中、義父の様子を見に行ったままなかなか帰ってこない。不思議に思った私は、一階へ降りていった。

私たち夫婦は2階の部屋で寝ていた。義両親が1階の和室で寝ていた。そっと階段を降り、襖の前に立つと、

夫「何でそんなこというんよ!!」

と、泣いていた。慌てて部屋に入り、事情を尋ねると、

義父「わしはまだ生きとるんか?すまん。仏さんになっとると思ったのに、、、」

義父は自分がまだ生きていることを謝った。家族に迷惑しかかけていないことを謝った。

私「大丈夫です。みんな一緒に居ます。大丈夫。」

と、義両親と夫の手を取り、握りしめた。私にはそれしか言うこともすることもできなかった。

自室に戻り布団に入ってからも夫は泣いていた。それから約1週間後、義父は家族みんなに見守られながら亡くなった。

最後の夜は私が一晩中付き添った。その前日まで身の置き所がなく落ち着かない様子だったが、その夜は穏やかだった。目は開いていたが意識はほとんどなくなっていた。手を握り、いろんな話をした。返事はなかったが、聞いてくれていると思った。

翌朝、夫と身体の向きを変えようと動かした時に血圧が下がった。最期の時が近いことは、経験上わかった。すぐに義姉や甥、姪を呼ぶことができた。息をひきとる瞬間、

私「ありがとうございました。安心してください。お母さんとRさんは私が守りますから。」

心から出たセリフだった。後々、自分が言ったこの言葉に苦しむこともある。同居生活にストレスを感じたり、義母のことを悪く言ってしまう時、自分が義父との約束をはたせてないなと思う。そんな自分が嫌になる時もある。

だけど、自分へのお守りでもあるのだ。義父が生きていたらと思ったことは何回もある。子どもがいない私たち夫婦と義母との生活は、にぎやかではない。無言のまま食事をする日のほうが多い。だけど、義母と夫を私が守る。この家のために私は必要なのだと思うことで、私はこの家にどうどうと居れるのだ。

義父の死後約3年がたとうとしている。まだきっと夫の心は癒えていない。夫婦喧嘩の原因は不妊治療のことと同居のことがほとんどだ。話し合いがこじれると、仏壇の前にいくのは、夫だけではない。

私「どうにかしてくださいよ、息子さん。何でもうちょっと居てくれなかったんですか。」

と、位牌に向かって悪態をつく。夫は何を思って仏壇の前に座っているのだろうか。人は死んでも、心の中では生きていると言う人がいる。私はそうは思わない。死んだらいくらこちらが話しかけても返事はない。心の中でも返事はない。想像した返事はもはや義父のものでなく、私自身の考えなのだ。寂しいが仕方ない。

義父との短すぎるけど濃密な時間は、確実に私の心に焼き付き、また成長させてもらった。どこかで生きている遺伝子上の父よりも、私には父であった。今でも尊敬する父である。




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