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健康じゃない日は突然に

とあるweb記事で、ある持病に関する社会の不寛容について目にする機会がありまして。

その持病は顧客(生徒・保護者)もさることながら、身内にも該当者がいまして、事情や対象はその数だけあるというのが自身の周囲における状況です。

そういう立ち位置にあることもあって、自身はできるかぎり理解を示したり、できうる対処についてあらかじめ聴いておいたり、実際に対処にあたったことも世間よりは少しばかり多いのかもしれません。ただ、それゆえにこの持病に限らず世間は「病気持ちに辛く当たるのが当たり前」になっているような気がしてなりません。

世間が言う「健康」って何なのでしょう。

これに自分を当てはめたら自分など不健康の塊みたいなもので、とてもじゃないけど生きていけません。現状でこの体たらくなのですから、さらに加齢が進んだり、日頃の留意のはるか先から自由落下してくるとばっちりを受け流せなかったり、受けとめきれなかったら、世間からは抹殺されるに等しい、文字通りの必死のせめぎ合いの中で生きている状況にあります。

おそらく世間とやらはそんなこと知ったこっちゃないでしょうし、そうなったらそうなったでバッサリ切り捨ててしまう。世間だけじゃない。行政だって福祉だっていずれかはそうなるでしょう。稼げなくなったらどこかの施設でかくまう。何かしらの病気という名のレッテルをべったり貼り付けて医療施設か養護施設に送りこむ。そうやって社会から見えない、聞こえない、感じなくてもいい“アナザーソサエティー”に封じ込めてしまえば、世間ではめでたしめでたしでカタが付く。それでいて多様性が大事だの障がい者に配慮しようだの御託ばかりを声高に陳列しておけば、どこかいいことをしているように感じていて、それを見ている多数も「ですよねー」と迎合している。それがどうやら世間ってやつらしい。

そんな世間なら、自分は多数派でなくていい。
少数派でいいから、不健康の塊でいいから、そういった立場の人に寄り添う姿勢を見せたときに隔絶されない、そんな人に同じなるならなりたい。

そんな感覚を、その投稿で感じました。

明日通過するであろう台風。これとてこれがきっかけで世間から振りほどかれてしまう人は皆無ではない可能性だってある。
どちらにせよ、一事が万事。命あってこそ。どうぞみなさま、ご安全に。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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