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善し悪しや真贋を見極めるには

それが本物なのか、偽物なのか。
それがよいものなのか、まずいものなのか。
同じ選ぶなら、もちろん前者を選びたい。
そうなるためには、どうすればよいか。

これはあくまでも個人的所感ではあるのですが、自分なりには答えはとうの昔に出ていまして。
「いいものを『いいもの』として受け取るには、『そうじゃないもの』を知らないと受け取れない」
というところ。

例えば金の斧が目の前にあったとします。見た目は確かに金の斧。だけどそれが文字通りの純金なのか、部分的なのか。はたまた単なる鍍金ものなのか。
知識があれば「材質によって密度が全然違うから、大きさが同じなら重いやつが純金に決まってる」とはなるのですが、それは比較できるものがそこにあれば、のハナシ。目の前の金の斧それ1つしかなければ比較する対象物はないことになる。となれば売り手には聞かないという前提で使えるのは唯一、「経験」でしかありません。つまり、「これぐらいの大きさのものであれば、これぐらいの重さであるはずだ」という自分が実際に体感したことがある感覚がそれを判断するその場面での唯一の基準ということになります。

これは視覚や聴覚はもとより、嗅覚や味覚もそれが言えると考えていて、「いい香り」「いやな匂い」「美味しい」「口に合わない」は個人差はもちろんあるけれども、その人自身の中には当然、その人なりの善し悪しがそこに形成されているわけだから、少なくとも自身が抱くその“感想”は揺るぎないもののはず。それをよりよいレベルで感じ取れるようにするには、「そうでないもの」をまったく知らなかったら「よいもの」のよさすらとんとわからないでしょうよ、というほどの話なのです。

もちろん、「よいもの」の感覚は年齢の積み重ねとともに変化もしますし、鈍くなるものも、鋭くなるものもあります。だけど「よいもの」ばかりを高いレベルで受け取り続けていても、その閾値は結局大きくはなくて味わえる感動も小さいような気がするんですよね。

つまるところ、日常の感覚と非日常の感動。
この違いにメリハリがつくのであれば、両者の隔たりはそれなりにあったほうがよい。
日常が普通だから、非日常が特別なものになる。
いつも使いが庶民的であればあるほど、特別な嗜みから得られるものは大きい。
ホンモノやニセモノというレッテルじゃなくて、特別なものとそうじゃないものという、マルバツ二律背反じゃなくてもいいじゃない?そんなお話でした。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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