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旅路のレヴィ=ストロース 〜水曜どうでしょうの「野生の思考」

水曜どうでしょうは、やっぱり面白い。

 水曜どうでしょうを見ていると、どういうわけだかすげぇ落ち着く。ってのがここ2~3年くらいずっと感じていることで、どうやらあのリズミカルなボヤキとヒゲの高笑いには、ヒーリング効果があるらしい、なんて勝手に思っちゃってる。

 そんな具合だからもう、何度も何度も見ちゃうわけ。深夜バスに敵愾心をむければむけるほど、どうも安心感を感じちゃうし、まったくもってわけわからんのだが、ふたりの男がスーパーカブでひたすら旅するのを、ただただ後ろから写した映像なんてのも、なぜかずーっと見続けちゃう。そんでもってこれまた不思議なことに、彼らが文句を垂れれば垂れるほど、心のしこりはなくなってくってもんだよね。

 で、思った。水曜どうでしょうは、どうしてここまでひとの心を掴むのか。だってそうじゃない?たかだか地方の深夜番組なのに、どういうわけだか日本全国で愛されて、初回から30年弱経ったいまでは、最新作を日本全国の映画館で先行上映するだの、この番組をきっかけに名を轟かせた大泉洋という男が、いまや日本を代表するタレントのひとりになっちゃうだの、おかしなことばっかし起こるわけ。

 もちろんそりゃ、出演者の実力たるや、間違いなく第一級なんだよね。大泉洋はあれほどの文句を滔々と垂れるわ、鈴井貴之という男になると、初期は張り切っちゃってるのに、いつ頃からかまったく無理しないスタンスが心地よくなってくる。それに藤やんがとかく口出しをして、人一倍の笑い声を入れてくるわけ。おまけに安田顕は、onちゃんなんていうナゾ極まりないキャラクターに入れ込まれてボコボコにされるわ、必死の早飲みでしくじるわで、もうかれが出てくると面白くならないわけがない。そして、独特のアングルでそれらを収めるうれしーのカメラワーク。

 だけど、どうも出演者と制作陣の強烈な個性で語り切ろうとすると、水曜どうでしょうの魅力を語りきれない、そんな気がしちゃうんだな。どうでしょうはそんなもんじゃねぇ、って、そんな気がするわけ。このなんとも言えないモヤモヤ感、どうやらあたってたらしい。

研究者すら注目する、どうでしょうのカラクリ

 っていうのも、水曜どうでしょう。テレビ番組では異例だと思うよりほかないんだけど、社会学とかメディア論の研究者の先生方が、「どうでしょう論」で本を出しているんだよね。もはや、「研究対象」になっちゃってるってわけ。

 その代表作というべき本が、佐々木玲二さん(臨床心理学)による『結局、どうして面白いのか――「水曜どうでしょう」のしくみ』という本。

 佐々木さんが言うには、水曜どうでしょうにはメインの「物語」のほかに「メタ物語」が存在する。そんな「二重の物語」によって構成されているのが、水曜どうでしょうってことになる。「サイコロの旅」、「ヨーロッパ21ヵ国完全制覇」、「対決列島〜甘いもの国盗り物語〜」などなど…。どうでしょうの「物語」。
 同時に、もうひとつの物語が存在するって言うのが、佐々木さんの議論のキモ。「メタ物語」が存在する。これは、「『物語』を撮りに行っている男たちの物語」のこと。つまり、それぞれの企画を進める中で四苦八苦する4人の人間模様や関係を「メタ物語」と呼ぶワケ。

かと思えば、どうでしょうのファンコミュニティ、いわゆる「藩士」たちも研究対象になっちゃうんだな、コレが。社会心理学者の広田すみれさんによる、『5人目の旅人たち――「水曜どうでしょう」と藩士コミュニティの研究』という本。藩士へのインタビューを交えながら、D陣が番組掲示板などを用いてファンとの関係を深める戦略や、藩士が番組を見て「癒される」理由を探っていく。そんな研究書までもが出されてるんだからスゴイ。

 他にも、ローカル放送の歴史や地域創生の研究なんかでも、どうでしょうが「成功例」として必ず上がってくる(樋口喜昭『日本ローカル放送史』、増淵敏之『ローカルコンテンツと地域再生』)。どうもどうでしょうさんには、ほかのテレビ番組とは違った魅力があるらしい。

レヴィ=ストロース、西洋哲学を食い破る。

 ところで話は全く変わっちゃうんだけども。この世の中、「中央」に支配的な考え方とかルールみたいなのが生まれると、そこに乗っかってれば安心だとか、そいつらの考えることがアタリマエだよね、みたいな発想にいつの間にやらなっちゃいがちだよね。ホント困った話なんだけどさ。

 哲学とか思想のムズカシイ話ばっかしてる人たちでも、そういうことがトキタマ起こってしまうらしい。たとえば、人間は時代を経るごとにシンポしていって、だんだん知能がシンカしていくみたいな。ダーウィンのシンカ論を人間社会にも過剰に適応しちゃうと、どうもこういう困った思考に陥っちゃう。結果、ブンメーが進展した西洋社会は大昔の未開社会よりも、そしてアジアやアフリカのオクれた人々よりもシンポしてるよね、みたいなことがアタリマエになっちゃう。
 冗談じゃなく、こういうことがマジメに考えられてたらしい。西洋哲学では、「未開人」(先住民族)はシンポしていく歴史を持たない「野蛮」な人々だって。そういう考え方が一般的だったし、いまでもそんな発想に親和性を持っちゃう人がいたりするのかもしれない。

 そんな哲学に疑問を投げかけたひとりの人。それがクロード・レヴィ=ストロースという文化人類学者だったってワケ。レヴィ=ストロースのスゴイところって、文化人類学という領域から哲学だとか西洋社会でアタリマエの「思考法」そのものを批判した、ってところ。

 彼が西洋哲学を根本から打ち破ったのが、1962年に出版した『野生の思考』。この本、西洋近代の思考法と「未開社会」の思考法=「野生の思考」を対比的に捉えていくんだけど、最終的には「未開人」の思考法と西洋社会の思考法はとある共通点を持っている、って話をするんだよね。つまり、彼に言わせれば、「未開人」も「西洋人」も、あらゆる人類はその「思考法」の面では、まったくもって同じだ、という結論になる。

 じゃあ何が一緒なんだ、って話に当然なるワケだけど、かれは「観察した世界を分類して、把握する傾向」を人類普遍性の思考法として暴き出したんだよね。その意味じゃ、ニュートンがオカルト的な錬金術にハマっていたことも、木からリンゴが落ちた瞬間に閃いた万有引力の法則も、思考法としてはいっしょってことになる。

 そのことを示すために、かれは西洋近代の科学的思考を「栽培思考」と、先住民族の神話的・呪術的思考を「野生の思考」と分類するんだよね(レヴィ=ストロース『野生の思考』)。

科学的思考=「栽培思考」ではまず、「概念」が思考に先立つ、とかれはいう。つまり、なんらかの設計図をアタマの中に作り上げて、世の中を把握したり、あるいは人間的な製作活動を行うんだよね。例えば、「遠心力」がどこまで正しいかを証明するために実験用具をグルングルン回したり、サグラダ・ファミリアを設計図通り作るのに苦心してたり。

 一方、呪術的思考=「野生の思考」では、「記号」に沿って世の中を理解し、なんらかの製作に励むんだよね。ここで言う「記号」というのは、何かを意味づけるために、なんらかの表象が恣意的に与えられる、ってことを意味する。簡単な例を挙げると、星占いで星座という「記号」にわれわれの未来を託したり、玄関出る時に右足から出たら大当たりしたから、パチンコ行く時には必ず右から出る、みたいな願掛けしてみたり。決してそこに「科学的」な因果関係がなくても、感覚的な「関係性」を見つけ出し、あるいは作り出して世界を把握する、ってのが「野生の思考」ってところかな。

 思考法の面で「未開人」も「西洋人」も変わらないとなると、レヴィ=ストロース以前に考えられてた、遅れた先住民族よりも西洋社会はシンポしてる、っていう考え方は根本から崩されたことになる。レヴィ=ストロースは、西洋中心的な哲学の思考法に対して、辺境の先住民族の視点から衝撃を与えたってワケだね。

※COTEN RADIOのレヴィ=ストロース回がめちゃくちゃわかりやすいです。

日曜大工は、設計図要らず

 もうちょっとだけレヴィ=ストロースの話をしよう。かれは「野生の思考」を示すとき、先住民族の活動様式を、ブリコラージュ(器用仕事)という言葉で表現するんだよね。この言葉、人類学者の中沢新一さんに言わせれば、ニュアンスとしては「日曜大工」に近いらしい(中沢新一『100分de名著 レヴィ=ストロース 野生の思考』)。

 ブリコラージュとはどういう活動か。ひとことで言えば、「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」(レヴィ=ストロース『野生の思考』22頁)こと。かれはブリコルール(器用人)の営みを、こう説明する。

彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容項目は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりした時の残り物で維持されているのである。したがってブリコルールの使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。

(同上、23頁)。

 さっきも触れたように、近代以降、特に建築なんかは設計図通りに道具と材料をかき集めてきて製作に励む、ってのが一般的になっちゃったよね。もちろん、精巧に作ることができるんだけど、ともすればなんだか味気ない。

 一方、ブリコルールたちは、そういうものづくりはしないんだな。彼ら彼女らは、「もちあわせ」の道具と材料の範囲で、作れるものを作る。中沢さんの例を拝借すると、ある家庭でお母さんが言う。「今日は買い物行くのメンドクサイし、余り物で料理しよっか」。彼女が冷蔵庫を開けると、そこにはジャガイモ、にんじん、玉ねぎ、牛肉がある。「お、そしたら肉じゃがでも作ろうか」。少し具材にもの足りなさを感じたとき、ふと冷凍庫をみると、冷凍の枝豆もある。「あ、これも入れてみると美味しいかも」。彼女こそ、現代に生きるブリコルールってわけ。

 そう、別にブリコラージュは、先住民族に限られた活動でもなんでもない。むしろ、現代人も何気なくおこなっている活動そのものだ。計画に囚われず、自分の持ち合わせの情報や手段で、なにかの行動を続ける。それこそが、ブリコルールの生き様だ。だけれども、目的志向と計画性、あるいは「設計図どおり」生きることに拘束されがちな現代人にとって、ブリコラージュは失われかけているのかもしれない。

4人のブリコルールたち

 南米を中心に先住民族との交流を重ねた文化人類学者、レヴィ=ストロースは、意外にも「旅」が嫌いだったらしい。『悲しき熱帯』という著作は、この言葉からはじまる。「私は旅や冒険家が嫌いだ」(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』I、4頁)。

 同じように、旅ばっかりしているのに文句を垂れ続ける男たちがいる。かれらは計画通りに旅をすることがないどころか、計画というものをほとんど立てない。目的地はあれど移動ばかりを繰り返し、場合によっては移動そのものが目的だったりする。海外に行こうが、大体の場合日本でもできるような小競り合いを繰り返しては、笑いが飛び交う。

――「どうでしょう班」は、紛れもなく全員がブリコルールだ。

 テレビのバラエティ番組で一般的なスタイルといえば、設計図(台本)通りに進んでいくスタイルだよね。企画段階で「見せ場」は明確に決まっているし、盛り上がりを作るために、進行はおおよそ決まっている。30分番組であれば、30分でストーリーが完結するように設計されてる。だからこそ、たまに起こる「予想外」も面白かったりする。

 だけど、どうでしょうはそういう「栽培思考」じゃないんだな。かれらは「野生の思考」で番組を作り出す。

そもそも「水曜どうでしょう」という番組は、目指す方向性ってのがあんまり見えてこない。同じ水曜日でも「ダウンタウン」の方は説を検証するって話だし、旅番組であればその土地土地のおいしい食べ物だとか絶景を紹介するってのが相場。

 一方のどうでしょうさんはといえば、旅には出るんだけれどもほとんどの場合、メジャーな観光地には行かない。サイコロの旅なんかは、駅前で展開する。原付シリーズに至っては、ふたりがスーパーカブを運転する様子を車窓から写し続けるだけ。企画ごとにテーマはあれど、決してそのゴールへと直線的に進んでいく、なんてことはない。
 海外に行ったかと思えば、別に旅行計画なんかほっとんどないわけ。『地球の歩き方』を買ってるかと思えば読んでなかったり、その場その場で地図を見返してルート選択をしては間違える。その日の宿なんか決まってるわけがない。だから、ドイツの道端で野宿なんかを平気でしちゃう。ホテルを見つけた時にはかれらは、ホテルマンに聞くわけだ。
“Do you have any rooms for tonight?”

 彼らの道具と手法は、「もちあわせ」のパッチワークだ。嬉野さんは旅路をあのハンディカメラで収め続けるし、彼自身どうでしょう以前にプロのカメラマンだったわけではない。本人が言うには、趣味でカメラを続けていたからカメラワークがなんとなくわかるんだとか。
 それから、番組構成も計画に囚われないところがいいよね。そもそも一つの企画を何週かけて放送するかなんて、藤村くんのアタマの中にはない。オーストラリア縦断は4回で完結するのに、アフリカ編はなんと13回。そのときどき撮ってきた「もちあわせ」の映像の範囲内で、かれらなりの編集が加えられた結果、番組が作られる。
 そんな編集のスタイルもまた、ブリコラージュに貫かれている。もっともわかりやすいのは、「シェフ大泉 夏野菜スペシャル」の名シーン、「パイ食わねぇか」。

 このシーンで印象的なのは、淡々と過ぎゆく車窓に飛び交う、大泉洋のボヤキ(怒り?)とかれの言葉を珍妙な字体で表したテロップだ。注目すべき点は、怒り狂う大泉洋にカメラを向けるでもなく、車窓が映し続けられているところ。この斬新な構図こそ、かれらの「もちあわせ」の手法だった。嬉野さんの言葉から、そのことが窺える。

 1回目の「北海道212市町村カントリーサインの旅」は、夜中の22時からロケを始めましてね。夜通し車で移動しながらカメラを回していましたが、朝の7時過ぎだったと思います。美瑛辺りで睡魔に襲われて、私はカメラを回しながら、なんと撮影中に寝てしまったんですね。
 ロケを終えて、藤村さんが編集しているブースを覗いたら、車のフロントガラス越しに見えている前進風景がいつまでも映っていて、その画面にタレントの声が聞こえるのです。タレントの顔はまったく映らず、移動する風景に声だけが乗って聞こえてくるのです。テレビ的には異常な絵です。
 それなのに、見ているとなぜか会話を面白く聞けるのです。面白かったのです。いや、もしかするとタレントの顔や表情が見えないほうが、聞いている方は会話に入り込みやすいのかもしれない。(…)
 そのとき思いました。話しているタレントの顔は一切撮らないで、風景と会話の声だけを撮るという方法はアリなんだなと。だってこんな映像見たこともないけれど、見ていて楽しかったのです。

(藤村忠寿・嬉野雅道『仕事論』、142-143頁)。

 実際、怒りに身を任せ「パイ食わねぇか」のストーリーを紡ぎ出す大泉洋の姿を見るよりも、車窓を見ているほうが、想像力が働く。かれの空想のストーリーを、ヴィヴィッドに感じられる気すらしちゃう。かれらのブリコラージュによって作り出された独特の映像は、なんだかぼく達に安心感のある笑いを提供してくれる。

 水曜どうでしょうは、東京のキー局で伝説的なテレビ番組が多々作られる中で、地方局としては異例のヒットを記録し、いまなおその人気を獲得し続けている。きっとそれは、ぼく達ひとりひとりが持っている「野生の思考」に働きかけてくるからだろう。

 旅を嫌いながらも世界中を旅して、「栽培思考」の傲慢を暴き出したレヴィ=ストロース。キー局の設計主義的な番組制作とは一線を画すことで、ローカル局ながら大きなインパクトを残した「水曜どうでしょう」。旅路に身を委ねつづけるかれらは、間違いなくブリコルールなのだ。


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