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選択肢が多いことを、「青春」と呼ぼう

薬のんだよ。「寝る前に一筆」を習慣化したい玉虫です。
学生時代に青春を感じたことが無かったので、青春とはなんだったのか考えることにした。
私の実家は曽祖父の代からずっと変わっておらず、そして小学校中学校高校は、父の代まで同じ防府高校(もしくは防府中学校)であった。地元の名士の家柄であり、高齢の人は名字を言うだけで「あぁ〇〇先生とこの」と言われることが多かった。
それで私も同じ高校への入学を目指すのは自然な流れであり、生まれた瞬間から防府高校という普通科進学校を受験することを義務付けられたようなものであった。
中学までは勉強はするするできて、高校も普通に入学することができた。しかし高校に入ると、勉強があまりしたくなくなり、落ちこぼれるようになった。勉強が難しいと思い、嫌になっていった。
父は理系に進むことを勧め、先生も理系を勧めたので、理系に進んだ。ここでも私自身の気持ちは優先しなかった。なぜなら私の得意とする科目は社会科、それも日本史であったが、日本史をいくら極めても教師か学芸員しか選択肢がなく、食いっぱぐれると思われたからだ。これは今でも正しいと思っている。しかし、結果的に自分の好きなことよりも他者の判断を優先する形になった。
私は数学が死ぬほど苦手で、数3なんて殆どできなかったよ。結局大学は、国立は全部落ちて、私立の岡山理科大学に進んだ。ここでも、将来的に仕事が選びやすいようにと、情報系を選択している。文系だったら、日本史を極めることができたかもしれない(日本史だけなら全国でもトップクラスの成績だった)。
そういう、理系から情報系という、まあある意味自分ではあまり好きではないジャンルを攻めて行くことは大変な苦痛を生み出した。私の下宿は岡山理科大学の東側に位置し、山の上にそびえ立つ学舎を望むことができた。私は2年生の頃から、大学を見るたびに吐き気を催し、山に登る気力もなくなり、ついには自殺未遂を起こすに至った。
結局、5年目が終わったときに、大学を中退した。

大学を中退したとき、ある意味解き放たれたような…そんな感じがしたよ。大学をやめたい、父にそう告げたとき、父は何も言わなかった。生きててくれれば良い、そんな思いを感じた。親の愛である。
それからの私は、自分のことを自分で選ぶようになった。部屋を自分だけで選んだ。ペットが一緒に住める部屋を。それから仕事も自分で探す。ハローワークに通い、障害者向けの求人を漁る。最初の仕事はホテル清掃だった。合わずにすぐやめた。またハローワークに通う。その後、就労移行支援を経て、一般企業に就職した。

自分で選べることが、どれだけ幸せなことであるか。

少年が青年になるとき、多くの悩みを抱えるのだろう。親との折り合いが悪ければ喧嘩し、反抗するだろう。自分のやりたいことと、出来ることに折り合いをつけ、自分に見合った事を一生懸命取り組むだろう。自分だけの道を、様々な可能性のなかからチョイスし、チャレンジする。それを繰り返して大人の責任を学び、青年になっていくのだろう。
だから、道を選ぶこと、その行き先の数が多いことを「青春」と呼ぶのだ。

私は今年は27になった。少し遅いが、青春を謳歌している。
たのしい。
生きるってこんなに楽しいことだったのか。

明日に歩く道を選び、明後日通る道が分からないことが、どれだけ幸せなことか。
私は日々、それに感謝して生きている。



インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。