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彷徨える亡霊

6月の終わり、煮えるような暑さの中で、セミの幼虫たちも焼かれてしまったのだと勘違いしていた。ところが1週間ほど経ってみると、至るところの街路樹から「わしゃわしゃ」とセミの鳴く声が聞こえてくる。
セミが鳴きだして、夏が本番になったことを理解した。

7月11日、月曜特有の気だるい空気の充満したバスを降り、スッと見上げると曇り空。じめじめとした空気の中で、職場への路地を歩いた。汗が額を伝って流れていく。
死んだような気持ちが、水面を墨汁に垂らした時のように広がっていった。

患って5年になる。夜、枕にタオルを巻いて寝る癖が治らない。タオルを巻いてないと、涙でシーツを何度も変えなければならなくなる。
胸の締め付けられるような痛み。頭痛と腹痛。耐える事に慣れて、痛みがある事も当たり前になる。
それでも夜を過ごすことが一番つらい。
「死んでしまうのではないか」
何度も繰り返す希死念慮の波に負けて、最近は「死にたい」よりも「死の恐怖」を感じるようになった。
季節を感じる時、次の季節は来ないだろうと感じた。
夜が来るとき、朝は来ないだろうと思った。
最近だってそうだ。何度も何度も、朝起きると神に感謝する。
神が、生かしてくれている。そう感じずにはいられない。

将来を考えるとき、持病も勘定に入れなければならない。
「あとどれだけ生きれるのか」「残りの命はどれだけか」
先の見えない社会情勢や、自分の見えない着地点、様々なしがらみ。考えるとき、何もかも捨ててしまいたい絶望を同居させる。

玉虫という男は、もう死んでいるのかもしれない。
自分はもう死んでいて、抜け殻のような身体を動かしているだけに過ぎないのかもしれない。
そんな気持ちになる。
自分は脚を地につけずに空を浮遊していて、止まり木を探している。靄のかかった世界の中を、根を張る場所を探して飛び回る。底のないトンネルの中で、着地点を探して滑落し続けている。

暗い世界の中で、私は明るく気丈であろうとする。多くの人が、私のことを気にかけ、時に掬い上げようとしていることを知っている。私が趣味のゲームをするとき、何故か周りで一緒に遊んでくれる人が大勢いることを知っている。私が楽しそうにしているとき、一緒に笑ってくれる人がいることを知っている。

フワッとした空気が通り過ぎるのを感じ、私は現実に戻される。
4tトラックが交差点を走り、歩行者信号が青に変わった。
私は特有の、足音を立てない歩き方で、スッと一歩を踏み出した。
セミの声に混じって、近くの保育園から子供たちの声が響いてくる。

夏の暑さを感じるとき、私は心に熱を感じる。

インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。