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日本人が知っておくべき日本・フィリピン関係史

我々が学ぶ世界史や日本近代史では、ヨーロッパ、アメリカ、中国はよく登場しますが、東南アジアはあまりよく学ばないし、馴染みがありません。
ところが東南アジア各国の歴史教科書では日本に関する記述はとても多く、特に近代の植民地化と独立闘争の中で日本が果たした役割は、良くも悪くも大きなものがあります。
実際、明治以降の日本と日本人は積極的に東南アジアに経済的、政治的側面から深く関与しています。

今回は近代以降の日本とフィリピンの関係史を見ていきます。


1. 日本の思惑とフィリピンの期待

開国以降、後発帝国主義の道を歩む日本は、日清戦争で台湾を獲得し朝鮮半島を影響下に置きました。
日本政府の戦略家には、次なる進出先として台湾の目と鼻の先にあるフィリピンが映っていても不自然はなかったでしょう。 
フィリピン革命が継続中で内紛状態にあったフィリピンは、介入のタイミングとしては絶好でした。ですが、当時の日本の国力では到底欧米列強にかなうはずもなく、表向きは中立の立場を貫きました。

米西戦争後の1898年にフィリピン・アメリカ戦争が勃発。
当時のフィリピン革命軍には日清戦争に勝利した北の新興国・日本に対する期待から、日本に援助を受けてアメリカと戦おうという動きが活発になりました。

日本軍もこれを受け、革命軍の日本に対する信頼感を損なわないようにと、積極的に関与。1899年7月19日に、陸軍参謀本部が使い古しの村田銃を調達させて、武器・弾薬・志士を乗せた船・布施丸が長崎港からフィリピンへ向けて出港しました。

ところが21日未明に暴風雨にあい布施丸は寧波沖で沈没。
革命軍との間で合意していた数十人の軍事指導者の派遣も、なんだかんだで暗礁に乗り上げ実現しませんでした。

その後日本は日露戦争に突入し、アメリカの介入で休戦に至ります。その際に交わされた桂-タフト協定は、アメリカが日本の韓国における指導的地位を認め、日本がフィリピンに対し野心のないことを表明する、というもの。

ここにおいて、日本の東南アジア戦略は見直しせざるを得なくなったのでした。

2.  初期日本人労働者

フィリピンを植民地としたアメリカは、大規模なインフラ整備をはじめますがフィリピン人労働者は貨幣賃金を嫌がりまとまった量の労働者が確保できなかったため、中国や日本から労働者を募集しました。

日本人労働者が携わった工事で有名なのが、1901年から着工した「ベンゲット道路」。
ルソン島北部の山岳地帯を通じて高原の町バギオへ通じる道路の工事は難航を極め、数多くの日本人労働者がこの難工事に携わったことから、戦前の国定教科書では困難な大プロジェクトを成し遂げた美談として掲載されました。

ところが実はこの「ベンゲット移民」の大部分は違法就労者で、当時の植民地政府も、日本政府も、労働者自身も契約移民が違法だと知った上でアメリカ本国にダマで行われていました。

それでも日本の数倍の賃金が支払われるとあって、5000人以上の日本人違法労働者がフィリピンに渡ったのでした。 

ベンゲット道路工事が終了すると、大部分の労働者はカネを受け取って日本に帰国。植民地政府も特に日本人労働者を評価していたわけではなく、

高いカネを要求するくせに、口やかましく、定着性もない

と思っていたようです。一方で、大工、木挽き、漁師など、技術が必要な分野では高い評価を得られていたので、そのような技術職の移民は必要に応じて雇用されました。
ですが、問題が起こるほど大きな数でもなかったため、特に当時フィリピン社会に与えたインパクトは少ないものでした。

3. 日本人売春婦「からゆきさん」

19世紀末から20世紀初頭にかけて、アジアの植民地化が進み大量のアジア人労働者が海を渡って欧米の植民地化での労働に携わりました。

先述のベンゲット移民もその一部ですが、そのような労働者とセットで、中国人や日本人の売春婦も海を渡りました

海外で稼ぐ日本人売春婦は「からゆき(唐行き)さん」と言われ、イギリス領植民地下の公娼制度の整備で急速に増加していきました。北はウラジオストクから南はシドニーまで、当時の東アジアの大都市ならけっこうどこでもいたようです。

以下は、1916年のからゆきさん人口分布。

  • シンガポール   546

  • マレー半島連邦州 1,057

  • マニラ      282

  • バンコク       26

  • 香港       156

  • インド        67

  • ビルマ      222

  • ボンベイ     102

  • シドニー       51

  • チチハル     321

  • ハルビン     794

  • ウラジオストク  750

フィリピンにからゆきさんが現れたのはベンゲット移民と同じ頃。

ベンゲット移民が引き上げた後も、アメリカ人からのニーズがあったため、彼女たちの存在は当局から黙認されました。1903年ごろには、マニラ市サンパロク区の一郭には大規模な日本人歓楽街が形成され、300〜400人ほどが存在しました。

当時の日本にとっては、海外で働く売春婦は手っ取り早い外貨獲得方法であり、福沢諭吉も1896年1月18日の「時事新報」で娼婦の出稼ぎは「経世の必要なる可し」と書き容認しています。

ところが後に日本が経済成長し東南アジア各国で資本進出すると、からゆきさんは「日本の恥」と見なされ、救済されることなく廃娼運動の高まりとともに姿を消していくことになります。
からゆきさんの存在は、忘れてはならない戦前日本のブラックな面の1つと言えます。

4. ダバオのマニラ麻産業

アメリカ植民地下でのフィリピンの稼ぎ頭は「マニラ麻」でした。

マニラ麻は古くから布の原料として使われていましたが、クリミア戦争後から船舶用索具としての優秀さが注目され、硬質繊維として世界中で飛ぶように売れました。
主な生産地は初めはルソン島南部ビコール地方でしたが、第一次大戦以降ミンダナオ島南東部のダバオに移っていきます。

ダバオでは初めはアメリカ人を中心として栽培が行われ、1万6410ヘクタールにまで拡大しますが、人不足がたたり生産が伸び悩んでいました。

1903年にダバオに渡った日本人労働者は、1907年に太田工業株式会社、1914年に古川拓殖株式会社を設立し、マニラ麻栽培に本格的に乗り出します。
第一次世界大戦後には日本資本がさらに進出。1921年にはダバオのマニラ麻耕作面積は3万4280ヘクタール、1930年には7万5070ヘクタールにまで拡大しました。この過程でダバオの原住民バゴボ人は日本人により土地を追いやられていきました。

伝統的な焼畑産業により食っていくことが困難になったバゴボ人は、先祖伝来の土地と伝統を守るために、侵略者である日本人を襲って殺害するようになります。その数は1918年から21年の間に100人を超えたそうです。

日本人の侵略に抵抗するバゴボ人もいれば、協力するバゴボ人もいました。

1921年に公有地法が改正され、日本人の土地所有が違法になると、日本人の資本家たちはバゴボ人に土地の所有権を受け渡し、それを名目上借りて経営を続行させます。
この際、日本人たちはバゴボ人の女性と結婚し、現地の社会と血縁的に繋がりを深めて新たな土地を確保し、経営を拡大させていきます。

一方のバゴボ人も、日本人との結婚は悪いことではなく、伝統的な生活は失ってしまいましたが、代わりにマニラ麻農園で得るお金は新たな生活の手段となっていったのです。

5. 日本人商人の寡占

戦前のフィリピンで活動した日本資本のもう1つは「雑貨商」です。

首都マニラを中心に徐々に広がり、最初は行商人、煎餅屋、かき氷屋など、小規模な小売業がほとんどでしたが、彼らはコツコツと小金を貯めて各地に雑貨店を開いていきます。

有名な人物が、田川商店の店主・田川森太郎

長崎県出身で、若い頃に日本を飛び出してフィリピンを放浪。酒場のボーイをしたり、船大工をしたり、フィリピン革命中は革命軍と日本人軍偵の通訳をしたりしています。

1894年にマニラに田川商店を開くと、現地フィリピン人向けの小売業に精を出す傍ら、移民取扱業や建築請負業、漁業会社設立など、様々な仕事に首を突っ込み、フィリピンでの日本人の活動を大きく広げました。

第一次世界大戦後に日本が好景気にわくと、日本とフィリピンの貿易額も増加。
輸出額は1910年の441万円から、20年には771万円に。
輸入額は1910年の79万円から、20年には1640万円に急増しています。

日本からは綿工業品や石炭・セメントを輸出し、フィリピンからはマニラ麻や木材を輸入していました。
これらのメイド・イン・ジャパン製品を取り扱ったのも、現地の日本人小売業者。当時の日本製品は品質がアメリカ製に見劣りしないほど上がっており、しかも安い

日本人商店は、フィリピンの消費者が手に取って品定めしやすいように店舗を設計するなど工夫し、一気に日本製品の拡大に貢献したのでした。

日本製の安価で高品質の衣服はフィリピン消費者の購買意欲を刺激し、クリスマスやカトリックの祝祭、新学期などに服を新調する文化を生みました。 

6. 日本軍侵攻 - 協力と抵抗 

1941年12月、太平洋戦争が勃発し、日本軍がフィリピンに上陸。
1942年1月12日にマニラ、4月にバターン半島が陥落し、5月にはアメリカ極東陸軍は降伏。司令官のマッカーサーはオーストラリアに逃亡しました。

革命軍を率いてアメリカに抵抗し、日本に亡命していたリカルテ将軍やベニグノ・ラモスのサクダル党を中心とした一派(マカピリ)は、積極的に日本軍に協力。

実際に、当初は日本軍を「解放軍」として迎える向きも多かったものの、日本軍政がかつてのアメリカ統治下の統治体制を温存し、無理な軍事兵糧の調達をし物資が不足したため、すぐに期待は失望へと変わり日本への抵抗運動が広がりました。

特にフィリピン共産党を中心に結成されたフクバラハップは、農村部に強い影響を持ちゲリラ戦で日本軍を散々苦しめます。
連合軍の巻き返しとともに、フィリピンの日本軍とマカピリはルソン島北部に追いつめられていき、日本兵30万人以上が戦死する無惨な戦いに。フィリピン人も多くがこの戦いに巻き込まれ、11万人近くが亡くなったそうです。

まとめ

日本がフィリピンに与えた影響の大きさが分かるかと思います。

政治レベルだと、北の大国としてアメリカの力を牽制する期待、最終的にやってきた圧政を敷く軍事体制。一般レベルだと、フィリピンの経済の一翼を担ったマニラ麻の資本家たち、そして安く高品質な品を卸した日本商店。太平洋戦争の日本占領軍は、我々が想像する以上に大きな傷をフィリピン社会に与えました。 

我々日本人は、そのことを覚えておく必要があると思います。

参考文献
「未完のフィリピン革命と植民地化」 早瀬晋三 山川出版

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