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西ヨーロッパの原型「フランク王国」の正体

 カール大帝とフランク王国と言えば、高校の世界史でも大きく扱われるし、800年の「カールの戴冠」はセンター試験にも登場します。
メロヴィング朝のカール・マルテルがイスラム軍を打ち破った732年の「トゥール・ポワティエの戦い」や、前王のピピン3世が行った「ピピンの寄進」もめちゃくちゃ有名です。
これだけ後のヨーロッパに大きな影響を与えた事柄をが起こったフランク王国ですが、日本ではあまりこの時代は人気がないというか、あまり知名度がない気がします。

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後世に与えた影響の大きさもそうですが、西はブルターニュ・東はパンノニアまで制覇した軍事力、東方世界との関係の深さはかなり面白く、歴史好きは是非知っておいたほうが楽しいと思います。


1. カロリング朝の成立

カール大帝の系譜で有名な人物は、祖父カール・マルテル、父ピピン3世ですが、記録上最も古く遡れるピピン一族の者は、現在のベルギー周辺を納めていたフランク王国の分王国・アウストラシア分王国の宮廷で宮宰を務めたピピン1世(大ピピン)です。
大ピピンの娘ベッガは、有力貴族で司教のアルヌルフの息子アンセギゼルと結婚。生まれたのが中ピピンです。中ピピンは妻にプレクトルード一族の娘を迎え、カール・マルテルが生まれました。
このプレクトルード一族は、モーゼル川流域に広大な領土を有する一族で、この婚姻でピピン一族はアルヌルフ一門とプレクトルード一族が持つベルギーのマース川とモーゼル川流域(現在のベルギー東南部)のおよそ200キロの勢力圏を獲得し、河川流域の交易圏を獲得しました。
中ピピンはさらに、マーストリヒトに拠点を持つ門閥の娘アルパイダも側室としており、これにより東南ベルギーからマース川〜ライン川に沿う交易拠点を獲得したことも意味し、内陸地から川に沿ってイングランド、スカンディナビアにまで交易圏が広がっていきました。

背景には、アッバース朝の都サーマラーの発展を中心とした、西ユーラシア全体への経済恩恵がありました。
サーマラーはチグリス川沿いに建設された巨大都市で、その建設のために東は中国、西はヨーロッパまでその物資調達とそれに伴う経済効果が及んだのでした。
カロリング家が支配するベルギー東南部にもその経済効果は及び、その経済特需を捕まえて社会的上昇を成し遂げたカロリング家は、まさに時代の寵児でありました。

さて、カロリング家は婚姻による影響圏拡大でフランク王国最大の実力者に成り上がったわけですが、カール・マルテルはトゥール・ポワティエでイスラム軍を打ち破る活躍を見せますが、王位に就くことはなく一介の君侯として生涯を終えました。
しかし息子のピピン3世は、キルペリク2世の息子キルデリク3世を幽閉し、教皇ザカリアスの承認を得た上で、751年に国王に就任しました。名実ともに、王位簒奪です。
ピピン3世はその見返りに、ラヴェンナ地方を教皇に寄進しました。歴史上名高い「ピピンの寄進」です。教皇領はこうして始まり、現代にまで至るヴァチカン(教皇領)の歴史が始まります。

ピピン3世は王位についてから、地方の大豪族や西ゴート族、ロンゴバルト族などの地方勢力の駆逐と支配権の拡大に尽力し768年に死去。フランクの伝統に従い、王位は兄のカールと弟のカールマンに受け継がれ、領土も兄弟で二分されました。ところがこの兄弟は仲が悪く、諍いが絶えなかったといいます。
771年、突如カールマンが原因不明の死亡。その後カールはカールマンの重臣たちを従えて、フランク王国の単独の王に君臨しました。

ピピン3世の頃からフランク王国の対外遠征は続いていましたが、このフランクの軍事力を支えていたのが「フランク騎馬兵団」でした。
トゥール・ポワティエの戦いでイスラムの騎馬軍団の威力を嫌というほど思い知ったカール・マルテルは、組織的な軍馬と騎馬兵の育成と運用に乗り出しました。軍馬は現代で言うと航空機や戦車にあたるもので、軍馬の育成や訓練、装備品などを諸々揃えるととにかくカネがかかる。
カール・マルテルはその費用捻出のために、教会領を還俗して騎兵育成を希望する臣下に恩給地として配分し、その土地から上がるカネで騎馬軍団を育成できるようにしました。騎馬軍団に入るとメシが食えるというので軍団に入る者が増え、貴族たちは土地の名望家として地位がさらに向上する。すると貴族たちは自分自身で騎馬軍を運用するようになり、ますます軍事力は上がっていく。
こうしてフランク王国の軍事力は向上し、後に行われるカール大帝の大遠征の力の源となったのでした。

2. カールの大遠征

785年、パーダーボルンにおいてヴィドゥキントの服従を受けるカール大帝

カールはその生涯で合計で56回の軍事遠征を行っています。
768年にフランク王に就任して初めての遠征は、773年のランゴバルト王国(現北イタリア)の征服。これに勝利し北イタリアの地にフランク人の臣下を据えて統治に当たらせました。後の北イタリアの貴族や諸侯の多くは、当時のカール大帝の臣下の子孫に当たるそうです。

さて、カールは父ピピン3世の時代から征服事業が進んでいたザクセン地方(現・北西ドイツ)の征服に30年を費やして事業を完成させています。

ザクセン地方は中小の共同体の首長が割拠する地帯で、ザクセン人を糾合する強力なリーダーが現れてそれを倒したとしても、また次のリーダーが現れて抵抗をするといった具合で、頑なに恭順を拒否します。
カールは執拗に軍事遠征を行うと同時に、捕えたザクセン人を見せしめに何千人も殺害させたり、強制的に移住させたりして反乱は次第に収束していき、30年かけてフランクの支配下に組み込まれました。804年後のことと言われています。

カール大帝はヒスパニア(イベリア半島)にも遠征を敢行しています。カールの時代のヒスパニアは、ウマイヤ朝の一族のアブド・アッラフマーン1世が建てた後ウマイヤ朝がコルドバを都にイベリア半島の南を支配していました。
アッバース朝カリフはカールに使者を送り、アブド・アッラフマーン1世への軍事蜂起を行うよう呼びかけていました。
カールはこれに応え、フランクの支配地から空前の大軍を収集してピレネーを超えてイベリアへ攻め入りました。フランク軍はスペイン北東部の町サラゴサまで攻め入りますが、総督アル・フセインの徹底抗戦もあり、またザクセン人の反乱の報もあったため遠征途上でカールは撤退を決めました
その帰途、フランク遠征軍はピレネー山脈越えの途中で現地バスク人の襲撃を受け、殿軍を務めたブルターニュ伯ローランは討ち死にしました。この出来事は後に「ローランの歌」として叙事詩に歌われ有名になるのでした。

カール大帝の遠征で巨額の利益をもたらしたのは、アヴァールへの遠征でした。パンノニア平原(ハンガリー盆地)を支配していたモンゴル系遊牧民族アヴァール人は、たびたびイタリアに侵入し略奪を重ねていました。
カールはアヴァールの本拠地を叩くべく軍を起こし、791年にザクセンやフリーセンの兵を率い3方向からパンノニアに攻め入った。796年にも再遠征しますが、この両方共アヴァールは内部の連携不足からまともにかち合うこともなくあっさり敗北し、アヴァールの汗の宮殿を略奪し大量の金銀財宝を奪い取りました。
アヴァールはイタリアだけでなく東のビザンチンにも遠征を行い富を奪っており、それは膨大な量であったそうです。以降、アヴァールはフランクの「財宝庫」と化し、遠征しては財宝をぶんどっています。

フランク王国の支配下に入らなかった地域もあり、その一つがデーン人の支配地域、現在のデンマーク周辺です。
デーン人は北方バルト海交易を牛耳っていた民族で、バグダード発の交易ルートのうち、ラドガ湖(現サンクトペテルブルグ周辺)経由の北東ルートから大きな利益を得ていました。
デーン人はフランクの拡大による自分たちの支配権の喪失を恐れ、ザクセン人を支援していましたが、ザクセンがフランクに飲み込まれると、直接デーンとフランクの王権が対峙する構図が出来ました。
804年、カールはデーン人の交易地の一つでバルト海南岸の町レーリクを接収し、オボドリト人に分け与え、デーン人の排除を狙いました。
これに対し808年、デーン王ゴドフリートはレーリクに軍事侵攻しオボドリト人を排除し、北エルベ地方を制圧しました。
810年カールは大規模な遠征軍を送りますが、ゴドフリードの暗殺による死と後継者ヘミングの就任で和平が結ばれ、エルベ以北はデーンの土地とみなされ、レーリクはオボドリト人に与えられることになりました。

3. ビザンチン帝国・アッバース朝との関係

このようにカールは遠征に継ぐ遠征で、現在「西ヨーロッパ」と言われる大部分を支配下に治めました。
強大化するフランク王国はローマ教皇と強固な同盟を結び、それは東の大国・ビザンツ帝国との関係を危うくするものでありました。
というのも建前上、ビザンツ帝国はかつてのローマ帝国の後継者であり、西はブリタニアから東はメソポタミアまで広がるローマ帝国の領土を支配する「権利を有する」とされていました。
もしローマ教皇がフランク王国と結ぶのであれば、ローマ帝国の母であるイタリア半島が奪われることになる。
その前からローマとコンスタンティノープルの司教の関係はギクシャクしており、教義や儀式の違いで修復がもはや不能なほど分裂は進んでいたのですが、東西協会の統一は「神の意志」であるとされたため、幾度も修復の試みはなされていました。
787年、ビザンツの女帝エイレーネーは、前皇帝が行った「偶像破壊運動」を終わらせ、787年に第二回ニケーア公会議を開催。その決議はローマ教皇庁とカールに届けれたのですが、この時フランク王国は「カールの事前の確認が無く決議を行った」事に対し猛反発しました。
当時はまだフランク王国は東西教会の教義に対して物申す権利など無かったはずですが、ローマ教皇庁の強力な後ろ盾としてフランクは自信を深めていったわけです。

東方の大国・アッバース朝とは、父ピピン3世の時代から外交関係があり、外交使節の往復が何度か行われました。
カールがアッバース朝のカリフに求めたことは、東方に居住するキリスト教徒が西方のキリスト教徒と祈祷兄弟盟約を結ぶことや、エルサレルムの修道院長の西方の旅行の承認などの実務的な話が主だったそうです。
 カールはシリア、エジプト、エルサレム、カルタゴなど、東方やアフリカの協会に多くの喜捨をおこなったらしく、カールが「西方のキリスト者の代表」としての自信を持っていことを裏付けています。

4. フランク王国の政治・経済

フランク王国の社会は「祈る人」「戦う人」「働く人」 の3つの身分から成る、と言われました。すなはち、「聖職者」「貴族・戦士」「農民・漁民・商工業者」です。
「働く人」の中でもローマ末期から見られた「独立農民」が多数を占めていました。地域や時代によっては行動を制限された農民はいましたが、大多数は土地に縛られない自由な身分の農民でありました。
ローマ帝国という強大な権力が崩壊した後、農民は様々な圧力から解放され自由な存在になり、自由な農業活動で生計を立てる独立農民となりました。自由であると同時に社会的な制御がなかったため著しく生産性が低く、また気候が寒冷であったことも低い農業生産の一員でありました。
しかし7世紀半ばから気候が温暖化し、小麦の栽培に適した気候になると、特にフランク王権の集中したライン川やパリ盆地で大所領による集団農業が見られるようになっていきます。農民たちは土地に従属し、後の荘園制度の走りのような仕組みが現れてきました。

社会の上位層を君臨したのは「貴族・戦士」層です。
フランク王権は支配地域を数百の「伯領」に分割し、王の臣下を伯として送り込み地方統治に当たらせました。
伯は王権の意向を住民に伝えると同時に、裁判・軍事・税収・警察など、地方行政運用を代行しました。現在の地方自治体と同じような機能を有しており、大きな権限を持っていたことが分かります。伯の中には後に地方行政で活躍して大きな権限を持ち、周辺の伯を統合して独立したり、あるいは王権を乗っ取ってしまう者すら現れてきます
これら王の臣下である伯は地方の貴族層として社会の最上位に君臨すると同時に、王国の中で自分たちの一族を「出世」させようと努力しました。
有力貴族は国王一族と縁組することでカロリング家の血統に加入して王国のエグゼクティブ層に入っていたし、中小の貴族層は征服戦争や統治活動、ヴァイキングからの防衛などで名を上げて、勢力圏を拡大しなんとかエグゼクティブ層に近づこうとしました。
ローマ時代の貴族は行政官であり、高い教養を身につけているのが特徴でしたが、フランク王国の貴族はイコール戦士であり、腕っ節が強かったり統率力がある奴が偉いとされました。カール大帝はほぼ毎年のように対外戦争をおこなったため、貴族の戦士化に拍車がかかることになりました。

ローマ時代の富の中心はイタリア半島でしたが、フランク王国の時代の経済の中心は中東のアッバース朝であり、バグダッドに集積された膨大なマネーが周辺部に流れこみました。この周辺部に流れたマネーを武力でぶん取ろうとしたのがカール大帝であり、対外遠征でフランク王国の経済は成り立っていました
実際に、フランク王国の主要な輸出品の筆頭は「奴隷」と「武器」でありました。奴隷は軍事遠征で捕えた人々、主にスラブ人をフランクまで連行し、選別した上で地中海で船に乗せ、イスラム圏に運ばれて売買されました。
武器は主にフランクの軍事遠征用に国内向けに盛んに生産されましたが、一部はイスラム圏にも輸出されました。

このようにフランク王国の基盤は一にも二にも軍事力であったのですが、「祈る人」である司祭も例外ではありませんでした。
カール・マルテルは、騎馬軍団を組織する費用を賄うために修道院を還俗化することで財産を国家に取り込むことに成功しました。 つまり、王や伯の息のかかった者を修道院に送り込んで司教や修道院長に就任させ、教会財産を吐き出させたわけです。これにより、戦うことしか知らない連中が司教や修道院長になり、祈りよりも軍事訓練に明け暮れ、王の召集がかかると勇んで戦場に赴く聖職者が多数出現しました。
とはいえ、これら「祈る人」は戦争ばっかりやっていたわけではなく、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動の重要な担い手でもありました。

6. カロリング・ルネサンス

カロリング・ルネサンスを代表する学者の一人アルクイン(写真中央)

 東方でのイスラムの拡大は、シリアやエジプトなどの東方キリスト教の知識人や聖職者をヨーロッパに亡命させました。
亡命知識人はフランク王国内の修道院に逃れてきたのですが、その時ヨーロッパにはすでに失われていた多数の写本を携えてやってきました。自然と、これまで活力を失っていたキリスト教の研究が活発化することになります。

加えて、カール大帝によるザクセン人など「未開部族」の制圧は、未だにキリスト教を受け入れていなかった人々へ新たな教化の機会をもたらしました。「キリストの正しい教えを拡大する」ために、修道院では写本が大量に複製され、それによって修道士を学習させ、未開地への宣教に当たらせました。
素早く大量に写本を複製するために書体の改良が行われ、習熟に時間がかかり難易度の高かったラテン文字は、読みやすく学びやすい「カロリング小文字」に改良されて、文芸・学術の普及に大いに貢献しました。
このように外部環境の変化に伴い文芸・知的活動が盛んになったという要因もありましたが、カール大帝自身が知識人や文化人を保護し、「哲人王」であろうとした側面も大きなものがあります。

王国の首都アーヘンの宮廷には多数の文人が居住し、詩文を作り王に聞かせたり、聖書の研究を行いその成果を王に発表したり、王を中心とした文芸サークルが存在しました。
フランクの王は文芸活動を保護することで、自分自身が古代ギリシア・ローマから受け継がれた文化の担い手であり後継者であると認識するに至りました。
 このような自負は、カール大帝の「西ローマ帝国皇帝戴冠」という大事件とも密接に結びついています。

7. 西ローマ帝国皇帝戴冠 

「カールの帝冠」

 800年12月25日、ローマの聖ペテロ大聖堂で教皇レオ3世がカールに冠を載せ、「西ローマ皇帝」を任ずる儀式が行われたことは高校の教科書にも登場します。
至高の存在である教皇が、不在であった皇帝の位をカールに授けたという構図に見えなくはありませんが、実際はそうではなかったようです。
実は教皇レオ3世は「不道徳・不品行」などの疑いで告発されており、裁判を執り行うためにカールはローマに赴きました。裁判ではレオ3世の「容疑」を裏付ける決定的な証言は出てこず、23日に聖書に手を置いて自らの潔白を宣誓したことで、レオ3世の嫌疑は晴れました。
その2日後のクリスマスのミサで、教皇レオ3世はカールに黄金の冠を載せ「ローマ皇帝」に戴冠されました。これは両者が綿密な打ち合わせをした上で行った事柄ではなくどちらかというと偶発的な出来事で、教皇レオ3世側にその意思があったと考えられています。

もはやかつての西ローマ皇帝と同質のものではないにせよ、しかるべき権威によって「西ローマ皇帝」と任ぜられた事実は重たいものがあり、東ローマ帝国との軋轢が増すことは明白だったし、古来からの文化伝統を自らの責任によって受け継ぎ発展させる義務をも負うことになります。
しかしカールはフランク王国をキリスト教帝国として位置付け、自らその伝統の保護者たることを受け入れたわけです。相当な決意だったに違いありません。

カールの西ローマ皇帝就任を受け、東西教会の統一を目指すビザンツ女帝エイレーネーは自らとカールとの結婚を打診しました。両皇帝の結婚により、統一ローマ帝国を構築しようと試みたわけです。
カールはこれを受け入れるつもりでしたが、802年10月に財務長官ニケフォロスが宮廷クーデターを起こしてエイレーネーを排したため、東西ローマ統一は泡と消えることとなりました。
皇帝となったニケフォロスは、カールの皇帝の称号を認めることを拒否。あくまで東ローマの権威こそがローマ帝国唯一の皇帝権力であるという立場を崩そうとしませんでした。
こうしてフランク王国とビザンツ帝国の外交関係は悪化していき、806年についに軍事衝突するに至ります。この戦いでは決着はつかずに812年に和平が締結されました。

 もし東西ローマの統合が実現していたら、後の世界にどのような影響があったでしょうか。歴史にIFはないと言われますが、東のアッバース朝に対抗する巨大な権力が西に誕生することで、現在とは全く異なる歴史の歩みを見せていたかもしれません。

まとめ

かつてヘレニズム時代に統一されていた地中海〜ペルシア〜インドの領域を再統合したイスラム帝国は、バラバラになっていた先端地域を統合して一つの経済圏にすることで、莫大なヒト・モノ・カネの流通を可能にさせました。

イスラム帝国には世界中から大量の富が集まり、また多額のマネーが周辺各地にバラまかれました。
東はインド、中央アジア、東南アジア、中国。
北は黒海を経てロシア、バルト海。 
西は北アフリカや地中海、イベリア半島を経てフランク王国。
現在の西ヨーロッパの形を作ったフランク王国は、イスラム帝国がもたらす巨大な富を取り込むことで巨大化し帝国を形づくりました。
カール大帝亡き後、後継者争いが勃発しフランク王国は3つに分裂。その3つの後継国が、現在のフランス、ドイツ、イタリアであると言われています。
これらの国がその後の世界に与えた影響の大きさを考えると、「西ヨーロッパ」という枠組みを作ったフランク王国とカール大帝の業績の偉大さが凄まじいものであることがわかりますね。

参考文献

「世界史リブレット<人> カール大帝」 佐藤彰一 山川出版社

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