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昭和経済史①金本位制と昭和恐慌

2025年はアジア・太平洋戦争終戦80年で、昭和が終わって37年となります。

今回は昭和時代を経済という観点から振り返ってみようと思い、昭和初期から高度経済成長期までの昭和の経済史を解説していきます。今回は昭和元年から昭和5年、西暦で言うと1926年から1931年までです。


1.昭和初期の経済・社会

昭和元年は、1919年に終わった第一次世界大戦から7年たっていましたが、まだその余韻が残っていたことに加え、首都東京は1923年の関東大震災の復興途上にありました。

第一次世界大戦で戦時好況に沸いた日本は、終戦後一転して不景気となり、世界的にも不景気だったため経済全体は停滞モードでした。

当時の日本の最大の輸出品は製糸業で、大手では郡是製糸(現:グンゼ)や片倉製糸(現:片倉工業)がありましたが多くが中小の製糸会社でした。次に大きな産業は綿織物で、関西では鐘紡、東洋紡、大日本紡(現:ユニチカ)、東京では日清紡、富士紡などの大紡績会社があり、不況下でも堅実な経営を行っていました。

21世紀の現代は大企業の経営者が巨額の報酬を得る一方で、不安定な雇用で貧富の差がどんどん拡大している時代ですが、昭和初期もそれに近い時代でした。
アメリカでは石油王ロックフェラー、自動車王フォード、鉄鋼王カーネギーなど、大金持ちの資本家が政治経済を支配していたし、日本でも三井、三菱、住友、安田といった大財閥を筆頭に、都心にも地方にも有力な資本家がいて社会に君臨していました。
一方で労働者は給料が非常に低く、現代のように生活保護もないので、貯蓄もないばかりかその日食うにも困るような低所得者が多くいました。そのため階級対立が現実問題としてあり、共産主義・社会主義革命を成し遂げてソ連のようなプロレタリア独裁の国を目指す戦闘的な労働運動が身近にありました。

当時の人口の半分は農民です。現代の農業従事者には都会のホワイトカラーより稼いでいるような人も多いですが、当時の農民の経済状況は非常に不安定でした。戦争中は食糧が足りなくなるので農作物の価格が上がって好景気になり、高く売れるのでどんどん増産しますが、戦争が終わって需要がしぼみ価格が暴落すると、農家の経営は一気に苦しくなりました。政府の食糧増産計画で朝鮮や台湾の米も内地に入り始め、米の減産は工業製品のようにすぐにはできないので、価格競争と供給過剰で農家の収入はいっそう減っていったのがこの時代でした。

農業で食えなくなった人が流れ込んだのが東京や大阪といった大都会です。1923年9月1日に起こった関東大震災で東京と横浜は壊滅し、政府は5年計画で約6億円の復興計画を立てました。

東京・横浜では近代的な街づくりの計画がたてられ、都市交通や上下水道が整備されました。東京・横浜だけでなく、大阪、神戸、名古屋、博多、札幌といった地方都市でも近代的な街づくりが進みました。
こうした都会に不況になった農村から人が流れ込みました。このような人々は条件の悪いスラムに固まって住み、日雇いや物売りといったインフォーマルセクターで何とか食い繋ぐだけの日銭を得ていました。

一方で1920年代は産業の重工業化に向けた努力が企業の間で始まりました。第一次世界大戦までは日本は工業製品をほとんど輸入に頼っており、自前で生産することがほとんどできませんでした。当時の日本の技術力では、例えば、扇風機などの簡単な機械ですら作ることができませんでした。
そこで各企業は欧米の機械メーカーから技術の供与を受けました。例えば東芝はGE、三菱がウェスティングハウス、富士電機はジーメンスのように、株式の一部を譲渡する代わりに技術を導入することになり、これが成功して機械工業は軌道に乗っていくことになります。

またこの時代には水力発電所の建設と長距離高圧送電技術の確立により、都心でも大量の電気を利用することができるようになりました。電力化が進むと、これまで人力で行ってきた工場の手工業が一気に動力化・自動化していきます。主力産業であった製糸業や織物業はもちろん、軌道に乗り出した機械工業にもその恩恵がありました。

昭和初期は国際協調と軍縮が行われた時代でもあります。1921年にアメリカのハーディング大統領がワシントン会議をひらき、海軍の軍縮の提案をしました。
日本の軍部には英米協調派と対決派があり軍縮に反対の意見も根強くありましたが、結局日本政府はこれを受け入れ、英米の6割に主力艦の数を制限することになりました。陸軍も軍縮を行い、余剰資金で軍の近代化を計りました。当時は軍人の肩身が狭い時代であったそうです。

一方で永田鉄山や東条英機など陸軍の若手将校は、将来の戦争は場合によっては国民の生活や命をも巻き込む国家総力戦になるだろうからその準備をすべき、国家総動員体制を整備すべきだと主張しました。
少し前ですが1918年に軍需工業動員法という法律も作られていますし、1927年には資源調査や軍需動員のための資源局という役所が作られました。平和な雰囲気がある一方で、戦争の準備が進んでいたわけです。

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