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イギリス貴族が紳士であるべき理由

ジョジョに限らず、一般的にイギリス貴族というものは、「紳士」であるべきというのが社会通念とされ、またそうでないと社会的に認められなく、「紳士であることがイギリス上流階級に属する絶対条件」とすら認識されました。

他の国・地域では貴族は、「陰湿でこまけぇことにウダウダ言ってきやがって、金にやかましく冷酷な連中」という認識も多いはずです。

なぜイギリスではそのように、貴族が「紳士」であることが求められるようになったのでしょうか。


1. イギリス貴族の地方支配の実体

産業革命が起きる前まで、イギリスでは地主貴族が社会的に圧倒的な力を持っていました。

貴族は最低でも数百エーカー(500エーカー=200ヘクタール)の土地を所有しており、そこから上がる収入は他の職業を圧倒する桁外れの資金額でした。彼らはその資金をもって都市部にも深く関わっており、農村と都市との両方に拠点を持っていました。

一口に貴族といっても、その収入の規模で大きく3つに分類されます。

まず、トップに君臨する貴族グループには「爵位貴族」と言われる者たちがいます。

数千エーカーから数万エーカーの土地を所有し、複数の州にまたがる広大な所領を保有しています。最低でも年に数千ポンドの収入を得ており、その資金を元に政界入りし閣僚になったり党の重役になったりなど、国政にも深く関与しました。

その下が、「準爵位」や「ナイト」と言われる者です。

爵位貴族ほどではないにしても年に千ポンド程度の収入を得ており、「サー」の称号を有するものが多くいました。彼らもまた国政にも登場しますが大抵は下院議員や治安判事を勤め、特に州の政治に強い影響力を持っていました。

貴族の最下部が「エスクワイア」と言われる者です。

年収は年に200ポンド〜千ポンドくらい。「サー」と名乗ることは許されず、影響力も限定的でせいぜい教区委員を勤める程度でした。

このように、上位貴族になればなるほど国や地域の政治に大きな影響力を持つことができ、それゆえ数々の特権を持つことが出来ました。それは例えば、民兵の指揮権・物価や賃金の統帥権・インフラ等の監督権など、人々の生活をとりまくあらゆる事柄を決める権利を有したのです。そのため、特に地方の民衆からしたら、地主貴族こそが自分たちの統治者であるという感覚だったでしょう。

農村の住民たちにとって、地主貴族が自分たちの統治者であることを直感的に理解するシンボルは、彼らが所有した「お屋敷(Country House)」でした。

周囲の農村から隔離するようにそびえる屋敷は、何代にも渡って増改築を繰り返し広大なものとなり、それを取り囲む数千エーカーの土地には樫やブナの木が植えられて噴水や花々に彩られ、豪華な英国庭園が出現しました。

このような広大な土地で贅沢な生活を営むことは、もちろん自らの威信を誇示するためのものでしたが同時に、地域住民への「ペイ・バック」でもありました。
お屋敷や庭園の建設や維持には莫大なカネがかかる。その建設・維持費用は、地元の大工や庭師、商人などに支払われる。農民にとっても、貴族は一大お得意先。例えば、地方のお屋敷に三ヶ月滞在するだけで千ポンドものカネを使ったキングストン公は、肉だけで300ポンドも使っていました。
そのため、貴族が都市に長い間滞在するとなると、地元は消費者がいなくなってしまって大変困るわけです。

もちろん、貴族が贅沢な暮らしを送るための奉公人も大量に必要になり、それは地元に雇用をもたらし、雇用機会の少ない農村社会では貴重な働き先だったのです。

2. 地主貴族と地元の関係

地主貴族と地域住民は言わば「Win-Win」な関係であったわけですが、実際に地主貴族が地域住民を統合するにあたって、その温情主義(バターナリズム)が極めて重要な意味を持っていました。

例えば、ある村人の畑が疫病にかかって穀物が全滅し、地代が払えなくなってしまった。法的には21日間の猶予の後に立ち退きを迫ることもできましたが、実際はそのようなことはなされず、免税の上に農場への資金援助をしてやる、といった対応を採りました。
このような「優しい支配」を多くの地主貴族がとっていたため、18世紀後半から起こった農業革命で、アーサー・ヤングらが提唱する「合理的な農場経営」を政府が推奨しても、多くの貴族はそれを採用せずに民衆の声に配慮し続けたため、経営の合理化は遅々として進まなかったそうです。それだけ、地主貴族は「良い地主」であるという地元の評判を大切にしました。

地主貴族は、地域社会に対して慈善活動を行ったり、娯楽を提供する役割も期待されました。例えば、クリスマスに村の貧民にお金を配ったり、冬の時期に無料で穀物を配ったりした他、地元の祭りに資金援助をしたり、自費で楽団を提供してダンスを楽しませたりもしました。
地元の産業振興に最も熱心だったのも地主貴族で、新しい農法や品種改良用の家畜を入手して実践させたり、旅行中に知った最新の鉱工業の技術を地元に伝えたりしました。
また、道路・運河・排水施設などの建設や改良も主導し、資金を援助するだけでなく運営にも参加しました。このようなインフラ整備は議会の承認が必要になるため、地主貴族は政界入りして影響力を高め、地元への優遇を取り付けようと奔走したわけです。

このように、地主貴族は地域に根ざして住民と深い関わりを持っていました。そのため、地主貴族の家のイベントも地域住民の一大関心事になり、半ば公的な意味を持つようにすらなりました。
例えば、地主貴族の家の出産・結婚などの慶事イベント。このようなおめでたい席には、近隣住民が招かれて食事がふるまわれ、地域社会の結束が図られました。
1番大きなイベントが「跡取り息子の成人の祝い」で、例えば18世紀末に行われた第五代ラトランド公の成人の祝いには、地域住民1万人近くが集まって会食したとされています。
イギリスではクリケットが人気スポーツですが、これも元々は地主貴族が愛好したスポーツ。貴族同士でチームを組んで楽しむほか、地元住民の中で才能のある者をスカウトしてきて、チームに入れて戦力強化に励んでいました。競馬やボクシングといったイギリスのスポーツ文化も、地主貴族が後援してできたものでした。

3. 貴族は気前がいいのが当然

このように地主貴族と地域住民は、 あたかも「1つの大きな家族」のような世界を構築していました。
貴族はスポーツやイベントなどで地域住民と気さくに交流し、ともに楽しむ。ただしその関係は、地主貴族を頂点とし、下にジェントリ、奉公人、借地人、職人、労働者へと下降していく絶対的な序列関係によって定められたものでした。

民衆は地主貴族に恩恵を与えられることで、彼らの支配体制を積極的に支援する。
地主貴族は恩恵を与えることで住民の支持を得て、自分の「小王国」の秩序を守る。

このような関係が成り立っていたため、地主貴族は地域の中で自らの評判や人気を特に気にしており、費用は高くついても「高い身分に伴う義務(Noblesse Oblige)」を果たさなくてはいけない、という意識が強くありました。

「ジェントルマン」は「ジェネラス(generous)」、つまり「気前のいい」という言葉から来ており、その語源通り「貴族は気前のいい紳士でなくてはいけなかった」わけです。

逆に言うと、地域住民は恩恵が施さるのは当然のことと考えており、期待していたサービスを受けられないと不満が残り、場合によっては地主貴族への恭順は拒否され、最悪の場合人が去っていって所領が荒廃し、落ちぶれてしまうことにも繋がりました。

特に借地人は重要で、一度その土地のことをよく理解する優秀な借地人が去ってしまうと、次に優良な借地人を見つけることは極めて困難でした。そのため、地主貴族は気前よく地域にサービスを提供することで人心をつなぎ止め、自らの地位と生活の質を維持していく必要があったのでした。

まとめ

昔の地主と農民の関係は、何か一方的に農民が収奪されてきたみたいな言われ方することありますけど決してそんなことはなく、 イギリスの事例のように住民たちの支持を得ないと没落するから、人気取りに汲々としていたこともあったんですね。
現代の会社組織にも当てはまるかもしれません。
 ブラック企業みたいに、従業員を脅して安く雇用しひたすら収奪する会社もありますが、大抵は従業員の不評を買わないように、社長以下経営陣は日々頭を悩ませていることと思います。
あんまりサービスが悪いと辞められちゃうし、かといってサービスが過ぎると経営にも影響が出てきてしまう。なるべくお金をかけずに従業員満足度を上げたいところです。
そんな悩みをお持ちの経営者の方々は、是非イギリス貴族に学んで「紳士」たるべく振る舞ってみてはいかがでしょうか。一緒にスポーツで汗を流したり、出産や結婚などの慶事には金一封出してあげたり、たまにはパーっと現金をバラまいてみたり。紳士な経営者が増えると、日本の雇用や労働問題もいくばくかは解消すると思います。

参考文献

シリーズ世界史への問い5 規範と統合 岩波書店

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