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「アパルトヘイト」政策はなぜ生まれたのか

南アフリカの「アパルトヘイト」と聞くと、バスや公衆便所、水飲み場など公共の施設で白人と黒人が分けられているシンボリックな写真を思い浮かべます。
今の常識だとそんな差別が制度化されていたのが不思議なほどですが、なぜ1994年まで続いていたのか。

それは単に南アフリカの白人が他の国の白人より差別的だっただけではなく、南アフリカの特殊な社会状況・経済状況がそのような社会システムを作り出したためでした。

システムの中に差別が組み込まれていたため、国際社会から批判を受けつつも、長い間アパルトヘイトは機能し続け、ある意味南アフリカという国家を「支えてきた」のです。


1.  アパルトヘイトの真の目的

アパルトヘイトがいつから・なぜ始まったかは諸説ありますが、主流な説はM.レイシーが唱えた「労働力調達のための人種隔離説」です。

1950年代から黒人の人種隔離と政治からの締め出しのための各種法案が次々と連邦政府に提出・成立されていったのですが、アパルトヘイト政策の意図が明確に現れたのが、1959年に可決された「バントゥー自治促進法」。この法案の骨子は以下の2点。

  1. 黒人が選んだ白人議員が黒人を代表する制度を廃止したこと

  2. 黒人を8つの民族に分割し、専用地域に住まわせたこと

黒人が居住することを許された専用地域はやせて農業に適さず、鉱山開発もできない貧しい土地。その面積は全国土の13%に過ぎない。

その後1970年に「バントゥー・ホームランド市民権法」が成立。いくつかの黒人専用地域を10のホームランドに制定し、各ホームランドの独立が企画されました。つまりアパルトヘイト政策の目的は、「わずかな土地に国民の7割を占める黒人を追いやり、それぞれ独立させる」ことにありました。

この政策によって白人側はどんな利益を得たのか。
まずは「安価で豊富な労働力」

黒人の土地は貧しいため白人地域に「出稼ぎ」に行って稼がなければならない。しかも黒人は「外国人」であるため、自国の労働者と同じように保護する必要がない。

次に「国家予算の節約」

黒人居住地は独立国であり、それぞれ予算と財源を持って勝手にやっていればいいから、白人は黒人に対して余計な予算をかける必要がない。

それに黒人居住区は独立国なのだから、対外的に「アパルトヘイトなどという差別的法律は南アフリカには存在しない」と主張できる。

「白人が黒人労働者を安価に自由に使い倒す」ことを意図としてシステム化されたのが、アパルトヘイト政策だったのです。

2. アパルトヘイトの起源

南アフリカの経済発展は鉱山の開発と共にありました。

1860年代にはダイヤモンド鉱山の開発が始まり、その後トランスファールのヴィットヴァーテルスラントで世界最大の金鉱脈が発見され、1880年代後半から本格的に金鉱山の開発が始まりました。
しかし、南アフリカの金鉱山は固有の問題点がありました。それは「地下深くに存在し、しかも含有率が著しく低い」こと。

金を採掘するには地中深くを掘り下げねばならず、しかも含有率が低いので採算を取るためには大量に岩石を採掘・運搬・破砕しなければなりません。しかも金価格は国際的に固定されていたので、コストカットし利潤を上げるには、安価に大量の労働者を確保することが至上命題になってきます。
こうした鉱山の資本家の強い意向を踏まえ、1894年にケープ植民地首相セシル・ローズはグレン・グレイ法を制定しました。
グレン・グレイ法の骨子は以下の4つ。

  1. 黒人地域を一定地域に限定すること

  2. 黒人の伝統的な共同利用を廃止し、私的土地所有を導入すること 

  3. 諮問機関としての役割に限定し、アフリカ人の自治を導入する

  4. 年に3ヶ月以上賃金労働者として雇用されていたことを証明できない黒人には10シリングを課税する

これにより、黒人は限られた土地に居住し、その中で食えない者は外に職を探しに行かざるを得なくなります。白人と同等の投票権資格を奪った上で、地域内の自治をある程度認め、黒人の労働力確保を得る、というのがグレン・グレイ法の意図です。

後のアパルトヘイト政策の原点とも言える法律が、19世紀には既に成立していたわけです。
グレン・グレイ法はその名の通り、グレン・グレイという一地方のみの法律に過ぎませんでしたが、1910年に南アフリカ連邦がイギリスから独立すると、同じような意図の仕組みを連邦全土への適応を目指す法律が制定されました。それが、1913年の「土地法」です。

ただしこのタイミングでは、より黒人に対して厳しい政策が既に存在するオラニエ州や、黒人に投票権があるケープ州など、いくつかの州には適応が見送られ、「黒人労働力の調達システム」を全土に普及させることはできませんでした。

3. 貧困白人層問題

かつての国際通貨制度は「国際金本位体制」のもと為替相場が運用されていました。
各国の通貨の価値は金価格に基づいて設定され、金平価の比率によって各通貨の交換比率が決まっていました。第一次世界大戦前までは英ポンドが国際通貨としての地位にあり、どこでも交換が可能で安定した価値を持った英ポンドは国際金融取引の仲介の役割を果たしていました。

ところが第一次世界大戦中に金兌換性が一時的に停止されると、ポンドが大幅に下落し金価格が上昇。軍事物資の決済手段としてイギリス国内から金が大量にアメリカに渡り、イギリスは金準備を大幅に減らして戦後を迎えました。
その後の金本位体制復帰にあたり、イギリスは戦前の旧平価での金本位制に復帰しました。これは当時の英ポンドを10%ほど過大評価したもの。

本来はイギリスは当時の英ポンドの価値に合わせて金平価を下げるべきだったのですが、大英帝国のプライドのため以前の水準をキープすることにしました。そうなると国際収支の均衡を保つため国内物価を10%ほど下げざるを得ず、イギリスの国内経済は強力なデフレ圧力がかかることになりました。

イギリス経済圏の南アフリカもこの余波を受け、金鉱山も将来的な収益の減少が確定的な状況になってしまいました。

鉱山の資本家たちは、安定的な収益を確保するために労働者の賃金引き下げに着手。白人労働者に確保されていた半熟練労働部門(ドリルの研磨作業、クレーンの操作など)に賃金の安価な黒人労働者を導入し、賃金の高い白人熟練労働者をレイオフしようとしました。

白人労働者はこれに反発し直ちにストに突入。そこに共産党や民兵組織も加わり、武装闘争の様相を呈してきました。政府は戒厳令を敷き爆撃機や大砲まで動員して反乱を鎮圧。これにより150〜220人が死亡し、5000人が逮捕されます。

白人労働者の賃金引き下げやレイオフは予定通り実施され、大量の貧困白人層が発生。彼らは都市に流れ込み、彼らの状況改善が緊急の課題として認識されるようになりました。

4. 黒人労働者の都市への流入対策

これまであの手この手で安価な黒人労働者を雇い入れていた鉱山資本家でしたが、1920年代末になると周辺各国からの黒人労働者数の供給が激減し、また国内の黒人も過酷な鉱山労働を嫌って都市に流れ込み、工場での労働を行うようになってきました。
1928年には新たに鉱山開発が行われ、再び鉱山産業が事業拡大をしようとしていた矢先、安価で大量の労働者の確保は至上命題でした。

都市に流れた貧困白人層と黒人が手を結ぶと、ラントの反乱どころではない大規模な混乱が起こってしまう。

都市に流れ込むケープ地方の黒人を鉱山産業に留め置く必要が生じたのですが、これの邪魔になったのはケープ地方の黒人が持っていた「選挙権」。地元の政治家は有権者である黒人層の意向を汲むため、過酷な鉱山での労働へ黒人を分配するのは反対します。
そこで「黒人から選挙権を剥奪することで、有無を言わさず鉱山産業に人員を割り当てる」ことが目論まれました。

1934年に発足した統一党は、全国的に安定的な労働供給を行うためのシステムの構築を急いだ。矢継ぎ早に成立させた各種法案で、黒人は選挙権を剥奪され、居住地域は制限され貧しい土地に追いやられることになりました。

このことで、資本家は「出稼ぎ黒人労働者」を安価で大量に雇うことできるようになり、財源が確保されたため貧困白人層のための社会保障も充実させることができ、分割統治を行わせたため黒人労働者同士の団結と組織化も防ぐことができるようになったのでした。

5. 白人貧困層の人種差別意識

統一党による各種のアパルトヘイト政策を実行に移させた「世論の後押し」もありました。
特に1920年代から深刻になった白人貧困層の問題にいち早く取り組んだのは、オランダ改革派教会。教会は貧困にあえぐ白人たちに対し、土地の確保や雇用の確保といった問題に取り組んでいき、白人たちは教会で日曜の礼拝を始め様々な文化活動に参加してくようになります。

その中で説かれた選民思想は、南アフリカの白人が「自分たちはイギリスから独立したアフリカーナー」であるという団結を促しましたが、その排他的思想は競争相手である黒人への差別につながりました

排他思想を持った白人貧困層は、政府に対し自分たちに有利な職業制限の立法化を求め、政府や資本家は貧困白人と黒人の団結を防ぐためにアパルトヘイト政策の実行を急ぎます。

こうして、政府・資本家・労働者が一体となってアパルトヘイト政策はシステム化されていき、差別が制度となって組み込まれていったのでした。

まとめ

南アフリカ経済を支えた鉱山業は大量の労働力を必要とするもので、利益確保のためには安価で大量な労働者の供給を常に受ける必要がありました。

ところがデフレの圧力や、労働力の確保が困難になるなどの状況が発生した時に、自分たち白人の利益の確保のために、弱い立場にある黒人を搾取するための制度をシステム的に作り上げました。

差別がシステムに組み込まれているために安易に解体することはできず、各種の法案が廃止された現在でもその後遺症は残っており、2007年9月の失業率は白人は3.5%に対して黒人は20.5%。貧困ライン以下で暮らす人の90%以上が黒人という状態です。

JICA 貧困プロファイル 南アフリカ共和国 2012年度版 P60よりキャプチャ

南アフリカは、BRICSのSにも加えられるほど有望な新興国と言われていますが、解決しない深い人種差別と格差の問題は、この国のアキレス腱であり続けることでしょう。
差別が仕組み化されていくことの恐ろしさと、そしてそれがどこの社会にも起きかねない危険性について、我々は認識を持つべきではないでしょうか。

参考文献

シリーズ世界史への問い9 世界の構造化 岩波書店

第8章 アパルトヘイトの成立 松野妙子

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