見出し画像

ベトナムの英雄たちの救国の歴史

ベトナムは勤勉で高い教育水準の国民が約1億人おり、中間層が著しく台頭しています。
ベトナム共産党一党独裁の社会主義国ではありますが、硬直したイデオロギー主義は採らずに市場主義を容認し製造業・サービス業・クリエイティブ業も発展を続けています。
 現在は平和で安定的な国ですが、歴史上ベトナムは様々な外敵と戦い続けた血なまぐさい歴史を持ちます。
歴代の中国王朝、モンゴル、チャンパー、ラオ。近代に入るとフランス、タイ。反日武装闘争、対フランス独立戦争、そしてアメリカとの総力戦。

 その歴史の中で、ベトナムは様々な愛国者・殉国者・烈男烈女を排出してきました。今回ご紹介する「ベトナム救国の英雄」たちは、廟が作られ祈祷の対象になったり、町の通りの名前になっていたりと、ベトナムでは日々の生活の中に溶け込んでいます。
今回はベトナムの英雄たちを通じて、ベトナムの抵抗の歩みを追っていく回です。


1. ハイ・バー・チュン(微姉妹)

ハイバー・チュンの像

古来から中国南部からベトナム北部にかけては百越と呼ばれる地域で、現在のベトナムにつながる歴史は半中国化した南方諸民族の自立運動からスタートします。
秦の始皇帝が紀元前221年中国を統一し、越の国があった南方地域は任囂(ナムガウ)と趙佗(チョウ・タ)という漢人が統治を行いました。ところが始皇帝の死後全土が混乱し始めると趙佗は中央政府に反逆し、統治している地域を「南越(ナムベト)王国」として独立させ自ら王位に就いてしまいました。
中国では紀元前202年に漢が成立しますが、漢でもカリスマ的な趙佗が率い結束力の高い南越を簡単に攻略できませんでした。趙佗の死後に徐々に軍事攻略が進んでいき、紀元前111年に97年で南越は滅びました。以降、ベトナムは1000年間に渡る中国の支配の時代が始まります

それまでベトナムでは伝統的な村落共同体において自治制度を維持しており、その上に覆いかぶさるように王国が存在しました。ところが漢の支配下に入った後、全ての人民・土地は皇帝の所有物となり、その行政執行官として中央政府から派遣された官僚によって統治されるようになりました。
漢人の官僚は遠く離れた赴任地で、中央に戻った後に活用する「出世の資本金」とすべく私腹をなるべく肥やそうと暴利を貪った。高い人頭税と土地税に加え、南方産の珍しい産物の拠出が義務付けられ、さらに運河や道路の建設に駆り出された。
ベトナム人は横暴な漢の官僚に対する反抗を募らせ、大規模な反乱が紀元40年に発生しました。それがハイ・バー・チュンの乱です。

ハイ・バー・チュンとは「2人のチュン夫人」という意味。姉妹はメリン県の地方の豪族の娘で、姉のチュン・チャクはソンタイ県の豪族ティ・サックの妻でした。ところが交趾太守・蘇定(ト・デン)は政治をほしいままにしてティ・サックを殺してしまったため、怒ったチュン・チャクは妹のチュン・ニと共に兵を挙げました

姉妹の反乱に呼応して65の地域の豪族が一斉に蜂起して兵を進め、驚いた蘇定は広東に逃亡。反乱軍は全土を制圧しチュン・チャクを「微王」として王に任じて独立を宣言しました。

当時のベトナムは母系社会で豪族たちは女性が多く、漢がやってきたことでこれまで自分たちが支配していた税金を奪われたことで落ちぶれていました。そこでチュン姉妹を中心に漢を追い出すことで、これまでの既得権益の奪い返しを試みたわけです。

漢の光武帝は反乱を鎮圧すべく、馬援将軍に2万人の兵を率いさせ中国南部に攻め入った。42年4月に雨季が到来し両軍がにらみ合いを続け、悪疫と猛暑が続く中で、ベトナム側の戦意が落ち始め、離反者が相次いだ。あせったチュン姉妹は決戦を決意し、漢の大軍に挑むも大敗を喫し、とうとう42年の末に捕まって首を切られてしまいました。

初のベトナムの独立闘争はわずか3年で崩壊したものの、現在でもチュン姉妹は民族の英雄として尊敬を集めています。

2. ゴ・クエン(呉健)

Photo by Bùi Thụy Đào Nguyên

618年に中国に唐が成立すると、中国の周辺部に中国の文明的恩恵を受けつつ独自に発達した勢力が勃興するようになってきます。
北東には高句麗の末裔が築いた渤海王国。北には匈奴から始まった遊牧王国の後継者・契丹、突厥。西には山岳民族であるチベット民族が組織化して出来た吐蕃。そして南では、現在の雲南省に南詔王国が成立しました。

唐は南詔国を排除しないと南の支配が危ういと考え幾度も武力侵入を試みますが、都度南詔も応戦し、逆に南詔軍が交州に侵攻するなど、一進一退の攻防を続けていました。

863年、人望の厚い都護使の王式が転勤すると、南詔は5万の軍を率いて交州に押し寄せ、前湖南観察使の蔡襲や部下の将軍たちを含む15万人が討ち死にし、交州が南詔に占領されてしまいました。
864年、それに対し唐は将軍・高駢(カオビン)を指揮官として南詔を攻撃し、3万余を殺し交州を取り返しました。高駢は教養が高く兵士の信頼も厚く、善政を敷いたのでベトナム人にも人気があった人物でした。しかし南詔の侵攻のように唐の支配が緩み始めると、ベトナム人の中でも独立の意識が芽生えるようになってきます。

唐の滅亡寸前の906年、交州では地方の一領主に過ぎないクック・トゥア・ズゥ(曲承裕)が勝手に節度使を名乗り始めますが、唐はもはやそれを討伐する余裕すらなく、そのまま認める状態に陥りました。
クック・トゥア・ズゥの死後、中国南部に地方権力による「南漢国」が建国されますが、孫のクック・トゥア・ミィ(曲承美)はそれを無視し、中央を支配し唐の後継者である後梁に節度使の認可を申し出た。これに怒った南漢は兵を起こし交州に攻め入り、クック・トゥア・ミィを捕えてしまいました。

交州は南漢の支配下に入りましたが、デルタ南部の愛州(現タインホア)には支配が及ばず、クックの部下だったズオン・ディエン・ゲ(揚延芸)将軍が支配していました。
愛州では中国との接触は低く、ベトナム的な秩序を重視する風土が残っていました。
931年、ズオンは約3000人の兵を率いて南漢軍を遅い大羅城を攻め落としたため、ズオンを節度使として認めざるを得なくなりました。ところがズオンは対中関係を重視する部下のキュウ・コン・ティエンに殺害されてしまった。

この裏切りに憤ったズオンの娘婿の武将ゴ・クエン(呉権)は反中国勢力を結集してキュウ・コウ・ティエンの排除に立った。キュウ・コウ・ティエンは南漢に救援を頼み1万人近い兵がデルタをさかのぼってゴ・クエンのベトナム防衛軍を攻撃しようとしました。
938年、ゴ・クエンはキュウ・コウ・ティエンを襲って殺し、バクダン(白藤)江を遡てくる南漢軍を待ち受けました。
ゴ・クエンはあらかじめ、バクダン江の水面下に先端を鉄で覆った杭を大量に差し込んでいた。バクダン江に押し寄せた南漢軍は、小舟に乗ったゴ・クエン軍を追いかけます。ところが潮がひき始め、南漢軍の船は鉄杭にぶつかって動けなくなってしまった。そこにゴ・クエン軍が襲いかかり、南漢軍総大将弘操は殺害され、兵士の大半は水死し、残った兵士は散り散りになって敗走しました。
この戦いで南漢軍を打ち破ったゴ・クエンは939年、都をコロアに定め自ら王と称し独立を宣言しました。
ゴ・クエンの死後は内乱の時代に突入しますが、それを統一したディン・ボ・リン(丁部領)は国号を大瞿越(ダイコヴィェト)と都をホアルウに起き、約1000年ぶりに中国からの完全な独立を達成しました

3. レ・ホアン(黎桓)

ティン・ボ・リンは政権を安定させるために、各地域の有力な豪族から皇后を5人迎い入れましたが、そのことが原因で宮廷内の勢力争いが混迷を極めるようになってしまいます。
ティン・ボ・リンは長男リエンを差し置いて、次男のハン・ランを皇太子とし、三男のディン・トゥエを衛王としました。これに不満を持ったリエンはハン・ランを殺害。さらに延臣ド・ティックが宴が終わり眠っているディン・ボ・リンとリエンを殺害。ド・ティック自身も3日後に殺害されました。

結局王の座についたのは、六歳になったばかりの三男ディン・トゥエ。摂政には十道将軍レ・ホアン(黎桓)が就き、副王と称し権力を集中させました。レ・ホアンは皇后とも親密な関係になっていったため、これを知った宮中の太守たちはレ・ホアンに王位簒奪の嫌疑ありとして兵を起こしますが、全てレ・ホアンに鎮圧されてしまう。
混乱する丁朝ベトナムの情報を知った宋は、再びベトナムを支配すべく981年に大軍勢を2つに分けて侵攻してきた。
現在の中国・ベトナム国境であるランソンに侵攻してきた宋軍は、レ・ホアン自らが指揮するベトナム軍と衝突。レ・ホアンはわざと退却し、その後降伏するかに見せかけて宋軍の陣地を急襲。宋軍は散り散りになって退却しました。
バクダン江から侵攻してきた宋軍を迎え撃ったのは、レ・ホアンの腹心ファム・キュウ・リュオン。ファムも宋軍に降伏するかに見せかけ、宋が警戒を解いた隙に総大将・侯仁宝を捕えて殺害。大将の死に宋軍は混乱し退却しました。

この勝利の後、レ・ホアンは直ちに宋に使節を送りベトナム領有を要請し、宋はしぶしぶレ・ホアンを安南都護・静海軍節度使に任じました。
これにより丁朝は廃され、レ・ホアンを始祖とする前黎朝ベトナムが始まりました

4. リ・トン・キエト(李常傑)

レ・ホアンは第三子を後継者に指定して死にますが、宮廷争いで異母弟の第五子のレ・ロン・ズィンが王位を継ぎました。ところがレ・ロン・ズィンは「ベトナム史上最も悪逆な王」と言われるほど残虐で、処刑を好み罪人が殺される様子を見て楽しむような男だった。レ・ロン・ズィンが1009年に死ぬと、再び王家の後継者争いが勃発するのを恐れた宮中の近衛隊長リ・コン・ウアン(李公蘊)が幼帝を殺害。自ら皇帝に就き、李朝ベトナムを開きました。
リ・コン・ウアンは首都のホアルウが狭くなったので、昔の大羅城に首都を戻し、新首都の名前をタンロン(昇龍)と名付けた。このタンロンは現在のベトナムの首都ハノイです。

三代目のリ・タイン・トンの時代に国号を大越(ダイヴェト)に改め、以降の歴代王朝もこの名を名乗るようになります。

四代目リ・ニャン・トンが王位を継いだ時、彼はまだ7歳でした。当時の宋王朝を宰相を務めていた人物は王安石で、彼はベトナムへの軍事侵攻と占領を神宗に進言しました。

当時中国南部にはヌン族の首領ヌン・チ・カオが、現在のカオバン付近に大歴国を建国し勢力を拡大しており、王安石はベトナムがヌン族を支援していると考えていました。実際にベトナムは大歴国と友好関係を築いており、金などの希少な鉱物資源の供給を優先的に受けていました。
王安石はベトナムを占領することでヌン族の勢力を弱め南部の安定を図ろうとしたわけです。
1074年、宋はベトナムに侵攻するための大規模な兵を起こし始めた。これに対し、李朝はまだ四代皇帝が10歳と幼かったため、将軍のリ・トン・キエトに全軍を任せ、宋軍と戦う体制を整えました。
リ・トン・キエトは機先を制し1075年に中国南部に10万余の大軍で侵攻。「悪政に苦しむ民衆を解放にしに来た」とプラカードを掲げて宣伝し、宋兵8000を殺し多数を捕虜にし帰国しました。
これに対し宋は南部のチャンパと真臘(クメール)に援軍を要請し、南北からベトナムを挟み撃ちにしようとしました。北から侵攻した宋は首都タンロンの対岸にまで迫り、紅河を渡ろうとしますが、レ・トン・キエト率いる水軍の迎撃を受けてとうとう渡河することが出来ませんでした。戦闘は長く続いたため、リ・トン・キエトは詩を作って全軍に布告しました。この詩はベトナム人の抵抗の姿勢を示すとして現在でも非常に人気がある詩です。

南國山河南帝居(この南の国の山河は南の帝王が支配するところ)
截然定分在天書(はっきりと定め分かつと天書にも書かれている)
如何逆虜來侵犯(どうして蛮人がこの地を犯すことができよう)
汝等行看取敗虚(お前たちが敗北の憂き目にあうことは必定だ)

宋軍は首都近辺から撤退あしますが、国境地帯の五県を奪った。そのためレ・トン・キエトは宋に象を贈って和平を乞い、占領した地域を返還するように求めた。宋は結局これを認め、1076年和議が成立しました。

5. チャン・フン・ダオ(陳興道)

Photo by  Xiaoao

李朝ベトナムは216年続きますが、末期には中央政権の力は衰え地方には地場勢力が割拠し、国民は困窮し飢餓が多発するようになりました。
李朝最後の王リ・フエ・トンの娘の女帝昭皇のとき、王宮の臣チャン・トゥ・ド(陳守度)は甥のチャン・カインを昭皇と結婚させて王に就けて実権を握りました。その上でリ・フエ・トンの一族をことごとく殺害し、陳朝ベトナムを開きました。

モンゴルは帝国は第五代汗フビライの時代に本格的に中国経営に乗り出し、未だ南部で抵抗を続ける南宋を取り囲むべく東南アジアに進出し始めました。
1253年に大理王国を滅ぼし、1277年バーモ(上ビルマ)、1282年クメール帝国、1283年ペグー王国(下ビルマ)、1287年パガン朝と、怒涛のように周辺各国を飲み込んでいきました。
1257年、陳朝初代チャン・タイ・トンの時代に元の将軍ウーリャンハタイが大軍を引き連れてベトナムに侵攻。首都タンロンはすぐに陥落し、チャン・タイ・トンは逃げ延びましたが首都一帯は荒廃。元軍は有利に戦いを進めていましたが、暑さに加え住民が食料を隠してしまったため食料調達ができず、厭戦気分が高まっていたため雲南に撤退することにしました。
ここでベトナムの将軍チャン・フン・ダオは撤退するモンゴル軍の背を狙って散々に打ち負かし、手痛い打撃を与えました。陳朝は南宋と連合しようとしましたが、元の使者が朝貢を求めたため、それを断りきれず三年の一度の朝貢を約束されました。 

その後の1278年、元は南宋を征服し、ベトナムの直接統治を目指して再侵攻の構えを見せ始めました。
第三代王チャン・ニャン・トンはチャン・フン・ダオを全軍の指揮官に任命し元軍の侵入に備えました。1285年1月、元軍はウマルを総大将にベトナムに再度侵入。ベトナム軍は各地で苦戦を強いられ、首都タイロンは再び陥落。住民は虐殺され、将軍チャン・ビン・チョンも斬首されてしまいました。
チャン・ニャン・トンは南方のタインホアに都を移して抵抗を続けるも、昭国王チャン・イック・タックなど有力者の離反者が相次いぎました。さらに元軍は海上からチャンパに迂回し、南北からベトナムを挟撃する作戦に打って出ます。
チャン・フン・ダオは正面から戦うと勝ち目がないと考え、ベトナム軍を山岳地帯に避難させてゲリラ戦を展開しました。
住民は食料を隠してしまったため元軍は再び食料の調達に苦しみ、ベトナム軍のゲリラ戦術にも苦しめられることに。次第にベトナム軍は勢いを取り戻し、元軍を紅河デルタ地帯まで撤退させ、さらに水軍を打ち破り首都を奪回。5万人以上の元軍を捕虜にし勝利を掴み取ったのでした。

元は1287年12月、三度目のベトナム遠征を決行しました。この時は前二回が食料調達に苦労した経験を活かし、艦船500隻に食料を詰め込み、約30万人の大軍で国境を超えました。
陸路の大軍は瞬く間に首都を陥れ、チャン・ニャン・トンは三度首都を脱出し南方に逃れました。

海岸沿いで元軍の艦船を見張っていたベトナムのチャン・カイン・ズ(陳慶余)将軍は、水軍を率いる元軍のウマル将軍が通過した後、それに続く食料輸送船団を襲って300隻を焼く大戦果を挙げました。
早々に食料がなくなってしまったことに動揺したウマル将軍は撤退を開始しました。これを見たチャン・フン・ダオは、ゴ・クエンの作戦を再び実行しました。つまり、バクダン江の川底に杭を打ち付け、元軍の水軍をおびき寄せて転覆させる作戦です。

4月3日、満潮になったのを見計らいバクダン江を下る元の水軍にベトナム軍が襲いかかり、すぐに退却して元軍を杭の箇所に元軍をおびき寄せました。そして潮が引くと元の船は杭にさえぎられ動けなくなった。ベトナム軍は一気に元軍に襲いかかり、艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍はウマル将軍を含む大量の将軍・士官が捕虜となりました。
陸路を撤退するトアホアン将軍も、国境山岳地帯で待ち伏せていたファン・グー・ラオ将軍指揮下のベトナム軍によって打ち負かされ、多くの兵が死亡。

その後陳朝は元に直ちに使者を送って、朝貢を申し出、捕虜を丁重に送り返した。フビライは四度目のベトナム遠征を望んでいたようですが、その死によって中止となりました。

チャン・フン・ダオは1300年に地震によって亡くなってしまいましたが、生前第4代英宗は「もし元が再び侵入してきたらどうすればよいか」と訪ねていました。その時のチャン・フン・ダオの回答は、その後のフランスやアメリカとの戦いにも大いに生かされた教訓でありました。

北方の敵は数をたのんでいるのです。これに対抗するには、しぶとく、また一気に敵を攻撃することです。これはわれらの能力によります。(中略)敵が辛抱強く、まるでカイコが桑の葉をゆっくりと食べるように、手順をじっくりとすすめてきたら、また略奪もせずに、勝利も急ぎでもぎとろうとしなければ、われらはもっともすぐれた将軍を選び、将棋を戦うようにもっとも効果的な戦術を駆使して戦うべきでしょう。軍隊は親子のようにこころを一つに一致団結しなければなりません。民衆はこころやさしく接しなければなりません。民衆の力を育まなくてはいけません。山奥の道をうがち、永続的な基地を建設するようにです。

6. レ・ロイ(黎利)

Photo by Nguyễn Thanh Quang

陳朝は175年続きますが、やはり末期になると暗愚な王が出てきて宮廷は乱れ、地方では武装勢力が割拠し、民衆は飢餓に苦しむようになりました。

宮廷官僚のレ・クィ・リ(黎季犛)は出世欲の塊のような男で、一部の官僚の支持を得て王位を簒奪しようと考えました。宮廷はレ・クィ・リ派と反対派に分かれて政争に明け暮れましたが、レ・クィ・リは機先を制してトアン・トン(順宗)を殺し、反対派300余人を殺害し、1400年にホ・クィ・リ(胡季犛)と名乗り国号をダイグゥ(大虞)とし、息子のホ・ハン・トゥオンを王位に就けて胡朝を成立させました

ホ・クィ・リから陳朝が途絶えた報告を受けた明は、「陳朝の回復」を大義名分に軍事介入をしてきました。
明は1406年3月、陳朝の正統跡継ぎと称するチャン・ティエン・ビンと共に約80万の大軍を送り込みます。ホ・クィ・リは迎え撃ったが各地で敗退を重ね、翌年3月水軍同士の激突で胡朝軍は決定的な敗北をし、ホ・クィ・リとホ・ハン・トゥアンは明軍に捕らえられ南京に送られ処刑されました。

その後胡朝の旧臣たちは明軍に善戦しますが、次第に追い詰められていき、1413年にチュン・クァン帝はラオで明軍に捕まり、北京に連れていかれ処刑されました。ここに胡朝は滅び、ベトナムは明の支配下に入ってしまいました。

明は占領下に置いたベトナムで徹底した同化政策を敷き、明の行政制度を導入し、衣服や宗教など風俗も明のものを適応させ、税を重くし人々を賦役や軍役に強要した。中央からやってきた官僚は、私腹を肥やすべく権力をかさにきて民衆から富を巻き上げまくりました。かつて漢がやったことと全く同じですね。

明の横暴に対し、タインホアの一領主に過ぎなかったレ・ロイ(黎利)は1416年、明朝打倒を掲げて兵を起こしました。レ・ロイは1000名の同志を集め自ら「ビンディン(平定)王」と名乗り戦いを始めた。最初の5年間は兵も武器も乏しく、山を拠点にしたゲリラ戦を展開しました。レ・ロイは明軍を襲っては山に逃げるやり方で打撃を与えましたが、1422年には食料も絶たれ疲労はひどく、やむなく明と講和に応じました。

しかし1424年に明の永楽帝が死去したとの報を聞き、レ・ロイは再び兵を興して明軍の本拠ゲアン城に向かいました。「レ・ロイ再び立つ」の知らせに各地の豪族も続々と馳せ参じ、明軍は一気に劣勢に立たされました。1426年から紅河デルタでの決戦が始まり、ベトナム軍は各地で明軍を打ち破りました。

完全に守勢になった明軍はゲアン城に篭って防戦するも、1427年1月についにゲアン城が陥落。あせった明は15万にも及ぶ援軍をよこしますが、レ・ロイはここでも得意のゲリラ戦を展開し、わざと退却するふりをして前後で挟み撃ちにするなど、散々に明軍を打ち破りました。
戦況は完全にレ・ロイに有利となり、とうとう明は和議を申し入れ、ベトナムの領有を放棄。1428年にレ・ロイは帝位に就き、黎朝を築きました。

7. グエン・フエ(阮恵)

Photo by Tonbi ko

レ・ロイから始まった後期黎朝は国政に熱心な王朝で、国内諸制度が形作られ国家としての組織が作られ、ベトナムの黄金期が築かれます。
しかし16世紀前半になるとやはり暗愚な国王が出現し、官僚は私腹を肥やすことに熱心になり、人々は武力で抵抗するようになり、各地に盗賊が溢れるようになります。

1527年、混乱する宮廷でどさくさの中、莫登庸(マック・ズン・タン)という軍人が権力をほしいままにし、ついに国王も殺し自ら帝王になってしまいました。
黎朝の旧臣グエン・キムはラオに逃げ、黎朝の跡継ぎとしてレ・チャン・トンを立て、反マックの軍勢を興すもマックが遣わせたスパイによって毒殺されてしまう。レ・チャン・トンは軍司令官にチン・キエム(鄭検)を任命するも、グエン・キムの息子グエン・ホアン(阮淦)が武功をたてて公に任じられており、チン・キエムとグエン・ホアンの対立が顕在化した。

そんな中、グエン・ホアンは「マック軍を討伐に赴く」と称して中部フエに赴き、そこで中部ベトナムを支配し事実上独立していしまいました。このグエン・ホアンの一族が広南阮氏で、後にチャンパーを討伐しベトナム南部にまでその領域を広げていきます

チン・キエムの死後、跡を継いだ息子のチン・トゥンはマック氏との戦いを継続し、ついに1529年にタンロン城を陥落させてマック氏を追い出し、黎朝を復活させることに成功しました。王位簒奪者マック氏は都合65年継続し、その後17世紀後半まで北部カオバン地方で反抗を続けますが、後に討伐され滅んでいきます

再興なった黎朝の有力者となったチン氏は、中部のグエン・フック・グエン(阮福源)に対し租税の納入を求めたがこれを無視されたため、チン氏とグエン氏の戦いが勃発。ベトナムは現在のドンホイを境に南北に分断されたのでした。

広南グエン氏は富裕層による土地の買収拡大を制限しようとするも、地主や官僚たちに妨害され農村危機は進行し、土地の私有化が進んで公田がなくなりコメの配分ができなくり、飢餓が発生するようになり民衆の不満は高まっていました。
1771年、中部タイソン郡でグエン・ヴァン・ニャック(阮文岳)、グエン・ヴァン・フエ(阮文恵)、グエン・ヴァン・ルゥ(阮文侶)の三兄弟が、打倒広南グエン氏の兵を挙げた。通称「タイソンの蜂起」です。彼らは広南グエン氏に対し、西山グエン氏と言われます。

タイソン三兄弟は「我々は貧しい農民の味方だ」と立場を明確にしたため、中部山岳地帯の少数民族を始め、様々な勢力が支援をして西山グエン氏の勢力は次第に大きくなっていきました。
2年後にはクィニヨン城を占拠し、北上してクァンガイ、クァンナムの広南グエン勢力を追い払い、とうとう首都フエを占拠。広南グエン氏は南部に逃亡しました。
タイソン勢力は南部に逃げた広南グエン氏のグエン・フック・アインを追って南部に侵攻し、旧チャンパ王国の都ドバンを占拠。グエン・フック・アインはシャムに逃亡しました。

フエン・フック・アインは逃亡先のシャムで、フランス人宣教師アドラン司教に助けを求め、またシャム国王から水兵2万人の援助を受けました。
こうして1784年、広南グエン・シャム連合軍と西山グエン軍はメコンデルタで衝突。「ラックガム・ソアイムットの戦い」です。
タイソン軍を率いるグエン・フエは、椰子が生い茂るラックガム・ソアイムットに待ち伏せ部隊を待機させ、別働隊にメコン川を下るシャム船団を奇襲させました。タイソン軍はわざと退却するふりをして、川を下る。追撃するシャム船。突然一発の大砲が鳴り響いた。すると逃げていたタイソン船隊はシャム船に突然襲いかかります。あわてるシャム船団に、さらに上流からはラックガム・ソアイムットで待ち伏せしていた別のタイソン軍が攻撃を浴びせ、また川岸の砲撃部隊が砲弾を浴びせました。
この戦いでシャム軍は大敗を喫し、カンボジアに退却。グエン・フック・アインも逃走しました。

グエン・フエは軍を北に転じ、チン氏勢力を破って黎朝の守護を声明しました。
黎朝のレ・ヒエン・トンはグエン・フエを召し抱えますが、すぐに死んでしまい孫のレ・チュウ・トンが跡を継ぎますが、タイソンはタンロンを黎朝に任せて軍を引き上げ、1787年4月にグエン・ヴァン・ニャックは自ら皇帝を名乗りクィニョンに都を置きました。孤立したレ・チュウ・トンは清に助けを求めました。
1788年10月、清軍20万の軍勢がベトナムに侵攻。これに対し、グエン・フエは10万の兵力を集め北に進撃しました。
タイソン軍は三方からタンロンを包囲し、周辺の清軍の陣地を破壊し、100頭の象兵は清軍を蹴散らしました。なんとわずか3ヶ月足らずでタイソン軍は清軍を打ち破り、清軍総司令官・孫士毅はあわてふためいて北に逃走。大将の逃走を知った清軍も恐慌状態になりながら逃亡していきました。

レ・チュウ・トンも清国に亡命し、1793年に北京で客死。ここに置いて黎朝は滅ぶことになります。

まとめ

 ここまで見てくると、ある程度ベトナムの歴史のパターンというものが見えてくると思います。
王朝末期になると暗愚な王が出現し国が乱れる。宮廷の臣下の中で支持を得た者が無力な王を廃して王位簒奪をして乗っ取り、新たな王朝を興す。混乱に乗じた外国勢力の侵入を、ドタバタはするが結局追い出してしまう。
そうして政権は安定するも、何代かすると国が乱れて同じことを繰り返す。
このような伝統的な循環は、今回初めて登場したフランスなどの欧米勢力の出現により、次第に大きく変わっていくことになります。


参考文献

「物語 ヴェトナムの歴史- 一億人国家のダイナミズム」 小倉貞夫 中央公論社

有料マガジン公開しました!

はてなブログで公開していたブログの傑作選をnoteでマガジンにしました。
1記事あたり10円でお安くなっています。ぜひお求めくださいませ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?