見出し画像

敵兵から恐れられた「伝説のスナイパー」10人

戦争に行ったことはないので詳しくはわかりませんが、「いつ撃たれるか分からない」という緊張状態に常に置かれるのは、想像を絶するものに違いありません。

もしかしたら今この瞬間、狙撃兵に狙われていて、次の瞬間に頭を撃ち抜かれるかもしれない。

実際に歴史上の凄腕スナイパーはそのようにして音もなく近寄り、的確に敵兵の体を撃ち抜き続けた。味方からするとこんなに頼りになる存在はありませんが、敵からすると「悪魔」「死神」以外の何者でもないでしょう。

この記事では歴史上の伝説的なスナイパーを10人ご紹介します。

1. 張桃芳 (1931-2007)

張桃芳(ちょうとうほう)は中国・江蘇省出身で、中国人民志願軍の軍人だった人物です。

朝鮮戦争が勃発すると志願して朝鮮半島に渡り、第24軍団第214連隊の一員として上甘嶺に赴任。18日間の待機の末、ようやく前線に出て銃を11発放ちますがこれが全部外れてしまった。張は国連軍に見つかってあやうく殺されそうになったのを命からがら逃げ出したそうです。

張はその晩、なぜ弾が全部外れてしまったのかを分析してイメージトレーニングを重ね、翌日には1人に当てることができました。その2週間後には、9発のうち7発を当てるまで精度を上げました。ここまでくればもうコツを完璧につかんだらしく、その後32日間で214名の国連軍の兵士を射殺したとされています。

同年に中国政府より「二級狙撃英雄」、北朝鮮政府より「一級国旗勲章」を授与されています。

2. ビリー・シン (1886-1943)

ビリー・シンは中国系オーストラリア人の軍人。
もともと農園で害獣駆除のため狙撃の技術に長けていたシンは、第一次世界大戦でANZAC(オーストラリア・ニュージーランド軍団)に志願してトルコのガリポリに上陸しました。

当時ガリポリはオスマン帝国の司令官ムスタファ・ケマルの指揮のもと構築した陣地でオスマン兵が頑強に抵抗を続けており、英軍・ANZAC軍は苦戦を強いられていました。特に高地から正確に狙撃してくるオスマン兵に悩まされ、それに対抗すべくANZAC軍はライフルの使い方に長けた兵を集めてオスマン狙撃兵に対抗しました。

シンは1日9名ものオスマン兵を打ち倒すなど、直ちにエース・スナイパーとして名を上げ、オスマン兵からは「ガリポリの暗殺者」と恐れられたそうです。公式には150名の射殺記録となっていますが、現場の兵によると201名を殺害したとしています。あまりにも現実離れした数字なので、上官たちは数字を差し引いて150名を公式記録としました。

3. ジュバ (?-2014)

ジュバはイラク戦争後にアメリカを中心としたPKO軍に抵抗を続けた(とされる)イラク反乱軍のエース・スナイパー。

2005年11月にジュバを名乗る男がインターネットに動画を投稿。映像の冒頭で男はこう述べました。

オレの銃には9発の弾丸が入っている。ジョージ・W・ブッシュよ、お前へのプレゼントだ。オレはこれから9人のアメリカ人を殺す。これからお前たちが見るものは、オレがやったことだ。神は偉大なり、神は偉大なり

その後にアメリカ軍兵士が次々と狙撃される様子が流れました。その後もPKO軍を狙撃する映像は繰り返しインターネット上にアップされ、一部の過激的なアラブ人はジュバを熱狂的に応援しました。

動画の中でジュバはアメリカ人を27名殺したと主張していますが、イラクの反体制派のプロパガンダ映像であるため、そもそもジュバという人間が存在したのかは分かりません。彼は2013年か2014年に、ISIS(イスラム国)によって殺害されたとされています。

4. リュドミラ・パヴリチェンコ (1916-1976)

第二次世界大戦中、ソ連軍は多数の女性スナイパーを採用し前線に送り込みましたが、その中でも飛び抜けた活躍をしたのがリュドミラ・パヴリチェンコ。

10代の頃から非凡な射撃の才能を持っていたパヴリチェンコは、対ドイツ戦(ロシアでは大祖国戦争)が勃発すると狙撃部隊に志願。第25狙撃兵師団第54狙撃連隊に配属されます。

1941年8月からオデッサ防衛戦に従軍し、次いでセヴァーストーポリ要塞防御戦でも活躍。公式記録で309名のドイツ軍兵士を殺害したとされています。
パヴリチェンコが得意とした狙撃は、枯れ草を身にまとい隠れて一旦敵をやり過ごし、その後背後から狙撃するという危険で高度なテクニックが必要なものでした。セヴァストーポリ要塞陥落後も転戦を続けますが、その頃になると彼女の存在は英雄の域にまで達しており、ソ連首脳部の命令で前線勤務が解かれ、女子狙撃部隊の講師となりました。

5. フランシス・ペガァマガボウ (1892-1952)

フランシス・ペガァマガボウはカナダ先住民族オブジワ族の男で、第一次世界大戦が勃発すると、部族の地位向上のためにカナダ軍に志願しました。

ペガァマガボウの部隊は1915年4月、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用した第二次イーブル会戦に参戦し、10数名のドイツ人を殺害。ペガァマガボウは暗闇の中、星の光だけを頼りにドイツ兵を確実に仕留めていきました。

その後、ソンムの戦い、パッシェンデールの戦いと大規模な会戦を歴戦し、カナダ人部隊の兵の大部分が死傷する中で、ペガァマガボウは最後まで従軍し活躍。記録では378名のドイツ兵を殺害したとされています。

帰国後は、改善されないオブジワ族の地位向上のために居留地の自治を求め、かつて命をかけて守った祖国カナダと対決。1943年にカナダ先住民族政府の議長となり、先住民の地位向上に尽くしました。

6. ヴァシリ・ザイツェフ (1915-1991)

 ヴァシリ・ザイツェフはスターリングラード攻防戦で活躍したソ連のスナイパー。

2001年に公開されたハリウッド映画「Enemy at the Gates(邦題:スターリングラード)」では主人公として描かれています。

第二次世界大戦勃発時は海軍にいましたが、もともと山の中で狩猟をして育ったため狙撃の腕は抜群だったため、1942年9月から狙撃部隊に所属することになりました。1942年6月から始まったスターリングラード攻防戦は、開始から3ヶ月もするとドイツとソ連双方が膨大な人員と物資を投入した消耗戦に発展。ザイツェフは泥沼の市街戦の中でドイツ兵を次々と狙撃していき、わずか1ヶ月ちょっとで225名のドイツ兵を殺害

映画ではザイツェフを排除しようとしたナチスが送り込んだケーニッヒ少佐との狙撃対決が描かれていますが、実際のところスターリングラードの戦い従軍したケーニッヒ大佐という人物はドイツ側の記録になく、ザイツェフの英雄ストーリーを作り上げるためのソ連の創作だった可能性が高いとのことです。

7. マティアス・ヘッツェナウアー (1924-2004)

ドイツ軍のスナイパーとして最多のソ連兵を殺害したのが、マティアス・ヘッツェナウアー。

1943年の19歳までアルプスでトレーニングを受け、その後第3山岳師団に配属されて東部戦線に従軍。愛銃はカラビーナー98クルツに6倍スコープを付けたものと、ゲヴェーア43に4倍スコープを付けたもの。この2丁の銃でヘッツェナウアーは345名のソ連兵を殺害。これは第二次世界大戦中のドイツ軍の最多記録です。その功績が評価され、一級十字章や騎士十字章などを授与されますが、1945年5月にソ連の捕虜となり捕虜収容所で終戦を迎えました。

8. トーマス・プランケット (?-1851)

トーマス・プランケットは1804年から始まった半島戦争(スペイン独立戦争)にイギリス軍の一員として従軍したアイルランド人。

半島戦争では、イベリア半島を占領するフランス軍に対してスペインとポルトガルが蜂起。それを支援するためにイギリス軍が上陸しますが、ナポレオン本人が指揮する20万の部隊が到着すると、イギリス軍は後退を余儀なくされました。

ライフル連隊に所属していたプランケットが一躍その名を高めたのは1809年1月に起こったカカベロスの戦い。単発式のベイカー銃を600ヤード(548メートル)離れたところにいた、フランス軍准将オーギュスト・コルベールに的中させ殺害。そして2発目でコルベールの副官を殺害しました。この2発の狙撃でフランス軍は混乱し撤退。カカベロスの戦いはイギリス軍の勝利に終わりました。

プランケットの卓越したパフォーマンスは、彼が使っていたベイカー銃の性能の良さを証明したことにもなり、19世紀半ばでも愛用されていたそうです。

9. クリス・カイル (1974-2013)

クリス・カイルは2003年から始まったイラク戦争にネイビー・シールズの一員として従軍し、特に激戦となった戦地を歴戦した狙撃手。

イラク政府軍やアルカイダ系武装組織との戦いで目覚ましい成果を上げ、公式記録160名(非公式255名)を殺害しました

アメリカ軍では絶大な信頼をされ「最高の狙撃手」と呼ばれる一方で、敵のイラク軍や武装組織からは「ラマーデーィーの悪魔」と恐れられた存在でした。カイルは除隊後、民間軍事会社に勤める傍ら、公演や執筆活動を精力的に行い、回顧録「American Sniper(邦題:ネイビー・シールズ最強の狙撃手)」はベストセラーになりました。 

2013年、カイルはPTSDを患う元海兵隊員エディー・レイ・ルースに射殺されてしまいました。2014年に回顧録を元にした映画「アメリカン・スナイパー」が公開されています。 

10. シモ・ヘイへ (1905-2002)

シモ・ヘイへはソ連がフィンランドに侵入し、最終的にフィンランドがそれを駆逐した冬戦争で活躍した「伝説のスナイパー」。日本でも人気があるのでご存知の方も多いはずです。 

元々シモ・ヘイへは20歳で軍に入隊する前は、現在のフィンランドとロシアの国境近くの町で猟師をしており、生活をしながら銃の腕を磨いていました。1939年にソ連がフィンランドに侵入し冬戦争が勃発。ヘイへは第6中隊でコッラー川周辺の防衛戦で、-40度という過酷な環境の中で「なるべく一人でも多くのソ連兵を殺害する」任務に当たりました。

100日間の戦闘の中でヘイへは合計で505名のソ連兵を殺害(1日5人というペース)し、これは世界最多記録としてカウントされています。

しかも愛用の小銃モシン・ナガンに彼はスコープを利用せず、すべて目視での狙撃でした。ヘイへは極寒の森に溶け込むために真っ白な戦闘スーツを着用していたため、「白い死神」とソ連兵に恐れられたそうです。

まとめ

こうやって伝説のスナイパーのすごい逸話を読むぶんにはいいですが、実際にそんな連中を相手にしなければならないとしたら、絶望感半端ないですよね。わざわざ、殺されに行けと言われているようなもんです。

助かるためには、自分自身も殺しの技術を磨くか、あるいは物量に任せてどんな手段を使ってでも倒すか、の2択です。普通後者でしょうね。

相手の技術が高度であればコチラは対抗できなくなるから、まったく別の手段で対抗するしかなくなる。それが無人爆撃だったり、無差別自動車テロだったりするのですが、どんどん関係ない人の被害が拡大していくようにも思えます。

参考文献

"25 Most Hardcore Snipers In History" LIST25

"志願軍「狙神」張桃芳,一個讓美軍聞風喪膽的華夏英雄" i Fuun.com

Billy Sing - Wikipedia, the free encyclopedia

"We Had American Sniper Chris Kyle. The Enemy Had Juba the Baghdad Sniper." History News Network

Juba (sniper) - Wikipedia, the free encyclopedia

Герой Советского Союза Павличенко Людмила Михайловна :: Герои страны

Matthäus Hetzenauer - Wikipedia, the free encyclopedia

"「最強の狙撃手」ら2人を射撃場で射殺、元兵士逮捕 米" CNN.co.jp

Simo Häyhä - Wikipedia, the free encyclopedia

有料マガジン公開しました!

はてなブログで公開していたブログの傑作選をnoteでマガジンにしました。
1記事あたり10円でお安くなっています。ぜひお求めくださいませ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?