見出し画像

息子が卵白アレルギーを克服した話

息子の卵白アレルギーが発覚したのは生後八ヶ月の頃の事。私が過労で入院している時、義母と夫が卵うどんを食べさせた直後に蕁麻疹が出て、即病院に連行してアレルギー検査を行ったそうだ。検査の結果は、息子は卵白とオボムコイドのクラスが2で、しっかり陽性の判定だった。

息子が卵白アレルギーと知って、夫と二人であわわと慌てた。そして困った。市販品の食品には割りかし何でも卵が入っている気がするし、外食がそう簡単にできなさそうだ。特にお菓子なんて、卵を使っているものが多い。卵が食べられない不自由に、息子が可哀想に思えてならなかった。そして、この小さな不自由を両親として受け入れる事がストレスだった。でも仕方ない。アレルギー体質で生まれてしまったのは、誰のせいでもないのだから。

医者からは小さい子供は卵アレルギーが出やすく、小学校に上がる頃には多くの人が治ってしまうこともあるから気楽にするよう言われた。また、毎日少量ずつ卵を食べさせることで耐性をつけさせ、アレルギーを克服できる可能性がある事も教わった。気長に卵を少しずつ食べさせ、気がついたら治っているくらいの心構えでいれば良いと思った。いつかきっと治れば良いなと。

そんな悠長に考えていたら、保育園が許してくれなかった。「うちの子、卵白アレルギーだったみたいです〜」と困った笑顔で保育園に報告したら卵摂取表なるものを渡された。毎日卵を食べさせ、食べさせたグラムと食べさせる前後の子供の様子の記録をつけ、さらにその記録を保育園に月に一回提出することを求められたのだ。毎日欠かさず卵を食べさせ続けろというプレッシャーである。

もう一年近く前のことなので、何グラムから始めたかは覚えていない。多分1gとか、ほんの少量から始めたはずだ。うちの子は症状が出ても軽い蕁麻疹くらいだったので、症状が出た時用の薬をお守りにして進めていった。

毎日グラム単位で卵を与え続けることは、なかなか根気のいる作業だった。我が家の卵係は夫が率先して担ってくれて、私はほとんど何もしなかった。夫がせっせと焼いた卵焼きを息子に食べさせるのが私の仕事だった。

夫は、うすーく焼いた卵焼きを超絶細かい錦糸卵にして、さらにそれを微塵切りした卵パウダーに近いものを毎日作っていた。錦糸卵は冷凍できるというのに、息子が食べ切れない分は夫がせっせと食べて、毎日新鮮な卵パウダーを生産していた。卵パウダーは野菜ポタージュに混ぜて、毎日息子に与えていた。野菜ポタージュも夫が三日に一度作っており、私は随分楽をさせてもらったと感謝している。

ただ、毎日となると流石に疲れるので、週に1日とか2日サボることはあった。夫が今日はダメだ、疲れた、卵焼きを作れないと、何かに負けたように私に謝ることがあったけれども、私は休んだって誰も叱らないぜ!と励ましたり、ごく稀には私自身が卵焼きを作ったりもした。

卵が10g、20gと増えていくと、野菜ポタージュに混ぜていた卵も存在感が強くなり、卵感あふれる別の料理になっていった。もう野菜ポタージュに混ぜるのも限界になっていた。卵焼き単品で食べさせる段階がやってきたのだ。これまで何も混ぜ物もしないで、単純な卵焼きを作ってきたが、卵焼き単品で食べさせるとなると味付けが必要になる。卵焼きの調理の手間が増える事に、卵焼き職人の夫は恐怖した。

そして夫は業務スーパーで「厚焼玉子」なる商品を見つけて、卵焼き職人を引退する事になった。これで、もう毎日卵を焼かなくて良い。

この卵焼きは息子もお気に入りで、パクパクと食べてくれる優れものだった。20g以上の段階ではこの「厚焼玉子」が大いに活躍してくれ、目標の40gを食べられるようになり、ついに息子は卵白アレルギーを克服した。血液検査の結果、卵白はクラス0になり陰性、オボムコイドはクラス1で偽陽性になり、医者から卵除去食の解除が許可された。約一年の卵チャレンジであった。


読んで頂き、ありがとうございます。とても嬉しいです。頂いたサポートは、note内での他クリエイターのサポートや定期購読などに使わせて頂きます。