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革と真鍮と命綱

このnoteは玉城ちはるとなおの共同執筆です。
今回はなおの執筆です。


革と真鍮と命綱


最近、私は就労支援事業所をお休みしています。
何故かというと、
とてもとても調子が悪いからです。

どう調子が悪いのかというと

朝起きれない
何も理由がないのに毎日泣く
とてもだるい
吐き気がある
朝からお酒を飲んでしまう
自傷する
自殺を考え実行しようとする

などなど、明らかな症状が出てきています。

毎日毎日、どうしてもだるくて、お薬もあまり効きません。
ひたすら死にたくて、ベッドから動けない。
座っていても横になっていても辛くて、うんうん呻いています。
どこも悪くないのに、吐き気が止まりません。
休んでいると、頭の中で自分への罵倒が始まってしまいます。
とにかく逃げ場がなくて、考える先は「死」しかない。
でも死ぬのが怖くて仕方がない。
包丁を取り出してみて腕に当ててみたりしました。
携帯電話の充電器を縛って輪の中に首を入れてみたりしました。
でもやっぱり怖い。
気づいたときに親がどうなるのか、考えただけで怖くて仕方がないのです。
やっぱり死ねない、でも死にたさが止まるわけじゃない。
死にたさも頭の中の罵倒も、自分でコントロールはできません。
自分のことをひどい言葉で罵ってきます。
そしていつしかその言葉たちは過去に出会った人たちの影になって、私に覆いかぶさってきます。
その重さに耐えられない。
耐えられないから自傷したりお酒で紛らわしたりします。
お酒を飲んでいる間は少し安定して、動画を楽しんだりすることもできました。
けれどすぐにそんな誤魔化しは霧散して、また罵倒が始まります。
頭の中の罵倒への憤りなのか、罵倒する自分そのものの憤りなのか、
わからないけれど、噴出する憤りをどうにかするために、
何年も使っている切れにくい鋏で、私は私の腕を殴りつけました。
何度か殴っているうちにすっとしてきて、やっと眠れます。
自分で自分がわからなくなっていき、呼吸をするのも苦しくなります。

そんなとき、私はちはるさんに連絡します。
「ちはるさんに申し訳ないです」
「なんでほめてくれるんですか?」
「死にたさがとまらなくて」
取り留めなく、長々と、ぐだぐだと、くだをまくようにラインを送ってしまいます。
ちはるさんはそんなラインにも真摯に向き合ってくれます。
「どうしたの? 調子悪い?」
「時間かかってもやってくれるし丁寧だから、断然いいんだよ」
「こういう不安があるんじゃないかな」
とてもまっすぐに、時に笑わせてくれながら、私と話をしてくれます。
もう何年も、何度も何度も同じようなことばかり繰り返す私にも、ちはるさんは向き合ってくれます。

「おはよう」
「そっかぁ」
「死ぬのが怖いって思ってくれてよかった」

何度も何度も。

「旦那から雪の写真が送られてきてさ、私なら冬眠するレベル笑」
「途切れ途切れになるけど連絡できるようにするね」
「何も焦らなくて良いし、自分を責めるものもないんよ」

何度も何度も。

「うんわかるよ、つらいよね」
「朝しんどくて、挙句寒いし、私でも行きたくない」
「送り迎えしたくなくて、保育園休ませたいって気持ちと毎日戦ってる笑笑」

何度も何度も。

「病院はどうだったかな?」
「無理に回復しなきゃってならなくても大丈夫よ」
「自分を責めない、ってちはるさんに言われたから、私は私を責められないのですって、頭の中の声に言い返してやってね」

そんな風に、私に声をかけ続けてくれます。
その声は、私にとっては大事な命綱になります。
人と話していると、話をしている間は、自然と頭の中の罵倒は消えます。
おそらく、相手への返事を考えないといけないからだと思います。
ちはるさんと話をしているうちに、自然と心は楽になっていきます。

ちはるさんだけではありませんでした。
友人は私の「たすけて」に全力で向き合って、自分が対応できないときの解決策を考えてくれました。
別の友人はツイッターでつぶやく私を見て心配し、「よかったら話さない?」と声をかけてくれました。
デイケアに連絡すると、「私で良ければ聴きますよ」と言ってくれるスタッフの方が対応してくれます。
更に、受診した方が良いと判断して診察の予約も入れてくれました。
たくさんの命綱が、私にはあります。

私の良いところは、その命綱の存在を認識し、精一杯それを掴もうとする、
つまり、周りに助けを求めるところだと思います。
助けは、自分の心の中だけで求めているのでは誰も気付いてくれません。
「たすけて」と、きちんと発声しなければ、誰も助けてはくれません。
だけど、きちんと発声すれば、誰かが気づいて助けてくれるのです。
勿論、その助けは一時的なものかもしれません。解決はしないかもしれません。
それでも、ただ話しているだけでも、
頭の中の罵倒が消えます。覆いかぶさる影が消えます。
そして知らない間に、解決に一歩近づいたりします。

そんな大切な命綱がたくさんある私は、とてもとても幸せ者なのだと感じます。
とても恵まれていると思います。
そんなに恵まれているのに、どうして何度も同じことを繰り返すのか。と、
私はまた私に問いますが、
それはひとまず置いておきましょう。
だって私は、ちはるさんに、自分を責めてはいけないと言われているので。


最近、私は簿記の勉強を始めました。
早速、序盤も序盤、貸借対照表でつまずいております。
問題集も買って練習をしなければ、と思っているところです。
こんな序盤つまずいていて、受験なんていつになることやら。
こんなんじゃ受かるわけない。
また私は私に言いますが、
でも良いのです。
ちょっとやってみようと思っただけです。
絶対受かる! という気持ちでテキストを買ったわけではない。
休みの間やることがなくて困るとき、気が紛れたら良いと思っただけです。
だから、受からなくても良いのです。
勉強することが大事なのです。

それから、私は、
大変お洒落でかっこいい革の手帳に、大変お洒落でかっこいい真鍮の万年筆を持っています。
その大変お洒落でかっこいい革の手帳に、大変お洒落でかっこいい真鍮の万年筆を使って、
大変汚い字で、毎日、良かったことを3つと、感謝することを1つ書いています。
良かったことを3つ書くことは「スリーグッドシングス」と呼び、
感謝することを1つ書くことは、「感謝日記」と呼ぶそうです。
これをすると自己肯定感が上がるのだとか云々、色々と読みましたが
個人的にはそういうことはどうでもよくて、
ただ、大変お洒落でかっこいい革の手帳と大変お洒落でかっこいい真鍮の万年筆を使いたいというだけなのですが
でも、これをすると、確かに少し気持ちは上向くので、きっと良いことなのだと思います。
私のスリーグッドシングスはいつも
「シャワーに入った」
「死ななかった」
「よく休んだ」
とか、どうでもいいことばかりなのですが、それで良いのです。
だって私は大変お洒落でかっこいい革の手帳と、大変お洒落でかっこいい真鍮の万年筆を使いたいというだけなので。
別に何も生まれなくても良いのです。

そんな私の今日のスリーグッドシングスは
「よく寝た」
「日記を書いた」
「この記事を書いた」
の3つになりそうです。
感謝日記は「掃除機をかけなかったのに認めてくれた母ありがとう」。
今日もこれをノートに書いて、余白が埋まると満足する。
完全に自己満足です。
でも自己満足できることも大切なのかなと思います。


明日は元気になれるかな。
いつも元気でいられたらいいのに。
そういった願いは尽きませんが、
ちはるさんと話したり、勉強したり、手帳を書いたりしながら、
マイペースに、ゆっくりと、私の「日常」を取り戻していけたら良いと思います。

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