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たいへんよくがんばりました

実家で就労支援に通い始め日々が流れていく中で、
私の中に変化が起こりました。

ある日バイオリズムの変調から睡眠もうまく取れず、
早朝、また自殺を考えていました。
こんなことはもう20年以上毎月のことですので大した問題ではありません。
しかしそこで、自殺をためらう自分がいたのです。
実家に帰ってきたことで、飛び降りて人や車にぶつかったりすることもないですし
事故物件になるからどう、などということも考えなくて良いのです。
かわいそうなのは親ですが、言ってしまえば問題はそれだけです。
自殺の方法としても、きっとこれなら耐えさえすれば確実だろうという方法がありました。
なのに、とってもためらうのです。

もしかしたら、私は死にたくないのではないか?

普通は、ふつうのことなのかもしれませんが、私はこの時大変狼狽しました。
なんで? なんで? と頭の中がごちゃごちゃになりました。
いろいろと自殺を正当化するようなことを考えると、泣いてしまうのです。
なんで泣くのかわかりませんでした。
いつもは、自殺を正当化するようなことを考えている方が安心するからです。
いつだって、今日だって死ねる、どう死のうと考える方が楽だったのです。

私にとって、自分がもしかしたら死にたくなくなったのかもしれない、というのは、青天の霹靂です。
毎日死にたいと思うのが普通でしたから、逆に、自分にどう対応して良いのかわからなくなりました。

このあと、落ち着いてからちはるさんにLINEでこのことを伝えると、
ちはるさんは
「今年1番の贈り物です」と言ってくれました。


その後はいつも通りに死にたくなることばかりでしたが、
死にたさの種類に変化がありました。
以前は私自身が強く死にたいと思っていました。
言い換えれば、自殺を実行したいと思っていました。
けれど今は、私自身の考えには関係なく襲い来る、ぼんやりとした「死にたい」が強くなったのです。
思えば以前からそういうことはありました。
「もう死のうか」というようなものとはちがう、なんとなくの「死にたい」。
むしろ最初はそうだったかもしれません。
もう忘れてしまいましたが。
その「死にたい」は、影か何かのように急に私に覆いかぶさるのです。
何をしていても。
映画を見ていても、本を読んでいても、
生で音楽を聴いているときでさえ、ふっと私に寄り添います。
なんとなくのことですので、以前はそんなに気にはならなかったのですが、
最近はその重さを不快に感じるようになりました。
何かを楽しんでいると同時に死にたくなるので、正直邪魔です。
なら死にたいなんて考えなければ良いのかもしれないのですが、
考えてしまう、というよりも、自分の意志に関係なく覆いかぶさってくるものなのです。

しかし私は思います。
何故、そんなに、死にたいと思ってはいけないのでしょうか。
死にたさは、殺意です。
殺意は抱いてはいけないものでしょうか。
殺したいほど憎い人がいても実際に殺しはしない。
ただ心の中でだけ思っている。
それと同じことなのです。
パニック物の映画なんかをたまに観ていると思います。
何故、みんなが生きたいと思っていることが大前提なのか。
死にたいと思っている人は存在しないみたいです。
死にたいと思う人は、存在してはいけないのでしょうか?

私は中学生時代に自分の存在理由や存在意義、生きる意味がわからなくなり、問い続け、
高校時代にそんなものは要らないのだと結論付けてそれらをすべて捨てました。
以降、生きる意味も存在する理由も私にはありません。
無くたって生きていけるからです。
無い、無い、と探しあぐねて迷って困って悩んで辛くなるより、
端から無いものにした方が楽だと思いました。
ですから私には生きている理由がありません。
しかし、だからこそ思うのは、
死にたくたって生きてはいけるということです。
生きているだけで良いのであれば死にたかろうが何だろうが心臓が動いてさえいれば良いのですから、
自分が何を考えているかなど関係ありません。
毎日毎日死にたいのに生きる質まで考えていたら本当に生きていけません。
――生きていけないので私は自殺(未遂)を決行するわけなのですが、それはそれとして。
死にたいと思うことは、ここまで日常になるとそう大したものではなくなります。
しかし、強烈な死にたさはラブストーリーよりも突然にやってくるのでとても困ります。
いきなりぶわっと体中を「死にたい」が埋め尽くして、
そこに向かわざるを得なくなります。
そういうとき、私はお薬を飲んで寝ます。
お酒を飲んでいるときが多いということもありますが、
感情が大きく揺れ動いて疲れているのですぐ眠れるからです。
起きたらすっきりしていることが多いので、とにかく回避するために寝ます。
死にたくないから回避するのではなく
まわりが死んではいけないと言うから回避します。
私の、死にたいという感情は、他人からしたら間違っているからです。

何故間違っているのでしょう。
理由はわからないけれど間違っていることはわかっているから、
自分はなんて駄目な人間なんだろうと思います。
しかしやはり死にたさは、私自身の考えでも、そうでないとしても、否応なしに襲い来る。
どうしたらいいのですか?
どうしたら間違っている状態から抜け出せるのですか?
でもだれも答えは知りません。知らないから教えてくれません。
ただ、そんなことは考えないでほしいと、皆言います。
どうしてでしょう?
考えているだけなのに?
考えていたって生きてます。
どれだけ辛くたって生きてます。
腕を切りながらでも、薬を飲みながらでも、
生きているのです。
その事実を、どうして誰もわかってくれないのでしょう。
だから私は死にたさや自殺を正当化するのです。
そうでなければ、本当に生きていけないからです。


こんなにも死にたいのにめちゃくちゃ頑張って生きてるので、
正直、もっと私は褒め称えられても良いのではないか? と思います。
死にたさが爆発しそうになると、
ちはるさんに「死にたいのに頑張って生きてるのでほめてください」とねだることも多々あります。
そしてちはるさんはすぐに「えらい!」とほめてくれます。
私にはそれがとてもありがたいです。

だから、

すごく死にたいのに生きている方、
もしこれを読んでいらっしゃいましたら
私は言いたい。

あなたはとてもえらいです。すごいです。
いま世界中で一番頑張っているのはあなたです。
死にたさを我慢しているだけで、あなたはもう十分我慢しています。
だから他のことまで我慢する必要はないのです。
自分なんてそんなに頑張ってないとお思いでしょうか。
死にたいのに生きている。
それにどれだけの体力と気力が必要でしょうか。
死にたい気持ちと戦って、自殺をしないようにしている。
誰かにかける迷惑や悲しみを考えているのでしょう。
自分の死への恐怖とも戦っているかもしれません。
それはとてもとても頑張りが必要なことです。
死にたい気持ちからは逃げられない。
だからあなたは逃げてさえいない。
他のことからすべて逃げたってかまわない。
だって生きることから逃げていないのだから。
あなたは十分すぎるほど頑張っている。
死にたいのに生きている。
これは「ただそれだけのこと」なんかじゃない。
「それほどのこと」を、あなたはひとりでおこなっているのです。
死ぬなと言いながら、死にたいのに生きた先の保証なんか誰もしてくれない。
なのにあなたは生きている。
すごいことです。本当に。
死にたいと思いながら、生きていたって良いのです。
たいへん、とっても、すばらしくよくがんばりました。


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