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いつかひまわりのあたし達 -aiko「ひまわりになったら」についての読解・解釈・考察と巨大な感情-(後編)

本記事は拙aikoファンサイト「愛子抄」に掲載された歌詞研究の転載です。
http://aikosyo.choumusubi.com/
長いので、前編と中編と後編に分けて転載します。
やっとラストの後編。歌詞読みを終えて、「ひまわりになったら」稿を書くにおいて色々考えたことなどを展開しつつ着地点を目指します。まあここが考察とか解釈とかの部分になるはず。
前編に基本的なことを、中編で本編である歌詞読解を行っておりますので、目を通しておいてくださればと思います。

これこそaikoたる作品

以上、歌詞読みはここで終了となる(中編を参照)
ここからはこの「ひまわりになったら」の歌詞を読んで、あるいは「ひまわりになったら」稿を書くにおいて色々考えたことをとりとめもなく書きながら、一応の着地を目指したい。
――この曲が好き過ぎる、と言うか「ひまわりになったら」への感情が巨大すぎて、どこかゴールを設定しないと迷走したままハチャメチャに書き散らしてしまいそうなので、こういう書き方をさせていただきたい。

今回「ひまわりになったら」について書く、と言うことで改めて歌詞と向き合ってみて、まあわかっていたことではあるが正直さらにしんどくなってしまった。
もう前の二人には戻れない切なさ。重く抱える「あの子」の不在。虚しさとため息。寂しくて悲しくて、夜を越えて逢いに来て欲しいくらいに「あの子」を欲している、けれども、あたしはあの子のひまわりであろうとする……。つらい、しんどい。aikoさん、鬼か~~~!?

しかしそんな曲を全体的に明るくカラッとした爽やかな感じで歌い上げるのはまさしくTHE・aikoと言うよりない。
わりと冗談ではなく、この曲こそaiko作品の原点とも言える可能性は十分にあるのではないだろうか。やはり「ひまわりになったら」を制するものはaikoを制するし、「ひまわりになったら」にはaikoの全てが詰まっている、と言う私の発言もあながち間違いではあるまい。
原点にして頂点なのだ。文句なしに!

……それはまあ私が興奮し過ぎてるのもあるので聞き流してくれて結構なのだけれども、この曲でインディーズデビューのきっかけを掴んだのも納得だし、賞を受賞したことも納得だ。インディーズ時代の曲としてお蔵入りにしたままでなく、きちんとメジャーで出し直してくれたことで、昔のaikoを知らない人、これからaikoを知る人などなど、カップリング曲ではあるものの、サブスクリプション解禁のお陰もあって、沢山の人に幅広く聴いてもらえるようになって本当に良かったと思う。……出来ればそろそろ他の曲もお願い出来ませんかねえ(インディーズ楽曲セルフカバー最後となるDo you think about me?からもう十年である)

前向きな別れ

Cメロのところで別れについて「いっそ二人が原因ではないのかも知れない」と書いたが、aikoの失恋曲の傾向を簡単に言うと、二人の何かが決定的にずれてしまって、その結果別れる――もっと簡単に言えば「すれ違い」によるものが多いと感じる。「あたし」側が冷める流れもないではないが、例えば「あたしの向こう」のように、抗えない原因があって、それで最終的には相手側が離れていってしまった、と感じる曲がどちらかと言えば多い気がする。

しかし「ひまわりになったら」はそうではなく、「二人でしっかり決めた事だもの」と言う歌詞もあるが、「あの子」側は「あたし」への愛が冷めたわけでも、嫌気がさしてそれとなく離れていったわけでもなさそうだ。これはあくまで解釈……と言うか考察に近いが、もっともっと、恋愛とは関係ない外的な要因が二人にはあるのかも知れない。

外的要因。たとえば留学だとか、海外への転勤だとか、修行だとか(修行?)夢を追いに行ったとか……あらゆる可能性があるが、とにもかくにも恋愛から離れなければならない何かだ。
「4月の雨」のあなたのようにあの子には夢があったのかも知れないし、その実現の為に別れなければならなかった、と言うストーリーを思い描くのも悪くない。そうなるとあたし側が未練を引きずっているのも、あの子と違って目標がないから、と言うことになるが、あたしがひまわりになった頃には彼女にも大切な夢や目標が出来ているのかも知れない。

そして少女の時は過ぎ

これはあくまで筆者の私の、単なる「感想」に過ぎない話になるのだが、インディーズ版の「ひまわりになったら」は、曲のアレンジはともかくとしてまだ未練が抜けきっていないような歌い方だなあと感じる。
勿論aikoの声が現在と比べて圧倒的に若いと言うのもあるし、作者のaiko自身も凄絶な別れを経験して日も浅い頃の(とは言え、そこから数年経ってはいる)収録のため、とかく切なさにずぶ濡れになっているように聞こえてしまう。泣きたくなるのは圧倒的にこちらのバージョンなのだ。

無論最初に述べた通りこれは超主観的な話だ。私も自分の恋の思い出が紐づいているので余計に補正がかかっていると言う、それだけの話だ。
しかし、そんな泣きたくなってしまうバージョンは、aikoがまだシンガーソングライターとして駆け出しの頃だったからこそ出来たものであることは否定し切れないと思う。若さ、未熟ゆえの粗削りと言うか、フレッシュな頃にしか出せない勢いがインディーズ版の「ひまわりになったら」には込められている。願わくばこの音源も広く聴かれるようになって欲しい……が、さすがに難しいか。

そこから十年の時を経た「二人」のカップリング版の「ひまわりになったら」の方は、さてどうだろう。
これもやっぱり超超主観的な話なのだが、もう本当にあたしとあの子の間にも十年の時が流れてしまったように感じる。曲のアレンジはインディーズ版と同じく島やんこと島田昌典氏が担当しているが、瑞々しく、幼さすらも感じられる爽やかなアレンジから、深みとゆとり、広がりのあるアレンジになっている。
それはまるで、怖いものなど何もなく、勢いと元気のある十代の少女が、二十代後半、三十代に差し掛かる頃、社会に出て色々な人間関係を経験し、それなりに達観するところのある大人に成長したように見える。

歌っているaikoはインタビューで「気持ちは10代の頃と変わらない」と話しているものの、やはり肉体としても物理としても十年経っているのである。時間は何よりも正確で裏切らない。「あたし」の器であるaikoの歌い方や歌そのものは、本当に遠くにある思い出を眺めて歌っているようにどうしても感じられるのである。
それに何より、これもやっぱり超個人的主観の話になってしまうのだが、リスナーの方もまた時が流れているのだ。最古参のリスナーからすればやはり十年経っている。どうしてもそう聞こえてしまうのは無理もない。……なおこれは最近aikoを聴き始めた、最近この「ひまわりになったら」を聴いたという方には無論当てはまらない話である。何度も書きますがこの段落はもはや超~~個人的主観話です。

「ひまわり」になった「ひまわりになったら」

私が何を言いたいかと言うと、歌詞自体はずっと変わっていない。歌詞だけでなく、あくまで一つの曲としても、作品としては変わらないはずだ。
しかしライブなどで歌われていき、そしてリスナー各々のもとで聴かれていく曲であるこの「ひまわりになったら」は、それらを受けて「変化」したり「成長」したりする。
それはaikoの歌い方だったり、アレンジの変化(たとえばインディーズ版からのセルフカバー、ライブバージョンなど)だったり、あるいはライブの演出やライブの中での予期せぬ事態によって、である。勿論、聴く側であるリスナーのそれぞれの人生・恋愛で起きる出来事なども、曲の印象を変えていく大きな要因である。

これはやはり、歌と言う芸術が、ただ単に歌詞だけを読んでいるだけでは表現に至れない「生の芸術」だからこそだ。私は小説を書く者だが、小説を始めとする文学は基本的には閉じた芸術なので、こうやって変化を見せていく生の芸術は非常に羨ましく思ったりする。
予期せぬ事態、と言うと、DVDの「Love Like Pop add.」はLove Like Pop Vol.8の追加公演が収録されているが、その中の「女の子はいつも切ないメドレー」では「ひまわりになったら」が歌われている(ボサノバ風なアレンジでめっちゃいい、ストリングスも入っててほんと好き)
1999年に開催されたLove Like Pop Vol.3から実に5年ぶりの披露になったのだが、aikoはサビ頭から感極まって泣いてしまい、サビ前半をほとんど歌えなくなってしまう。

何故aikoが涙したのか。それは映像にも映されているが、ひまわりの造花を振ってくれているファンの子達を見たからである。
前編冒頭で書いたが、aikoのライブでは「ひまわりになったらが歌われたらひまわりの造花を振る」と言うお約束があった。いつか「ひまわりになったら」が歌われる時の為にひまわりを用意していたファンの子達の期待、それだけ「ひまわりになったら」が長く愛されていること、大切にされていることを、ライブと言う感情が最高に高まっている時にぶつけられたのだ。感極まって涙が溢れ、歌い損ねてしまうのも無理はなかったと言えよう。

2004年当時、既に初出から6年が経過している。新しい曲、新しいファンが沢山出来た中で、aikoの最古曲の一つでもあるこの曲が確かなものとして愛されていた。このライブでの一幕はある意味、「ひまわりになったら」と言う曲が私達にとっての「ひまわり」になれている証左であったように思う。
「ひまわりになったら」を再び世に出すきっかけが何だったのかは私の調査不足であるが、このライブでの出来事が理由の一つだったら素晴らしいことだな……とつくづく思うのである。

ひまわりは動かない

と、だらだら書き連ねてきたが、そろそろ着地点へ向かおうと思う。
aikoはインタビューでひまわりのことを「太陽が沈むとすぐにシュンってなっちゃう」「好きな人を一生懸命探してその方向を向いて、咲いているイメージ」と言っていたが、私はふと思った。
「実際ヒマワリって本当に太陽に向かって咲いてるのか? ぐるぐる動くのか? てかそんな一斉にシュンって垂れてる? 夕方に萎むアサガオならわかるけど」と。

とりあえずさくっとWikipediaを開いてみたのだが、そこに書かれていたヒマワリの生態に私は驚愕してしまった。こいつはひょっとして「ひまわりになったら」のTrueエンドに行きついてしまったのでは!? とばかりに興奮したのである。aikoには是非ヒマワリについての知識をアップデートしてもらいたく思う。
Wikipediaの「特徴」の項目によると「実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけである」とのことだ。

「若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く」
「この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる」
「その過程で日中の西への動きがだんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない」
(Wikipedia・ヒマワリより抜粋)

花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない――つまり見た目からして立派に開花した時、そこに凛々しく立って動かず、首をしゅんと下げることもなく、一本のひまわりとして存在することが出来る。悲しみに暮れることなく、虚しさに引き裂かれることもなく。

これぞまさしく「ひまわりになったら」の後、「ひまわりになった」姿ではなかろうか。つまりは、曲中であの子を想って追いかけてばかり、そして沈んでばかりのあたしは――あるいはあの子も――やはりまだ蕾のままの、生長途中のひまわりなのである。あたしはやっぱり、ひまわりになれていない。だからこそ「ひまわりになったら」と言うタイトルなのだ。

あたしはまだ、成熟していない。だから太陽が沈めばショボンと俯く蕾のひまわりだ。しかし時が経ち成熟した時には、太陽がなくてもそのまま立派に咲いていられる。
本当のひまわりになったら、あたしはあの子の不在に沈むことなく、生きていける。――いや、あたしの中に「ひまわり」としてのあの子の存在を感じられるからこそ、生きていけるのだ。
そしてその姿が、いつか誰かの――願わくば「あの子」の「太陽」になれたらいい。いや、なりたい。「なったら」にはその願いもある。インタビューでaikoが「その人にとってかけがえのない太陽にもなりたい」と述べている通りである。

以上述べたことが、今回の一応の着地点である。aikoはこのヒマワリの特徴を知っていたかどうか。おそらくきちんとわかっていない状態でこの歌詞を書いたと思われるから、これは奇跡の一致と言ってもいいのではないだろうか。
こんな偶然が生み出されてしまうくらいなのだから、やはり「ひまわりになったら」に敵う曲はそうそう無い。少なくとも「初期にして最高傑作」はaikoファン全員一致の解釈をお願いしたいところである――なんてそんなの、今更の話過ぎる。どうぞ笑っていただきたい。

いつかひまわりのあたし達

本稿もまとめに入ろう。これ以上書いても仕方がないくらい「ひまわりになったら」と言う作品は名作であり、なおかつ語るところが尽きない。aikoのあらゆる全てにおいて頂点に立つ曲だと、私はわりと本気で思っている。

この曲にインスパイアされてイラストを描いたり、小説を書いたり、あるいは別の音楽を作ったりと、二次創作すら出来そうな気がする。あたしとあの子には聴く人それぞれにオリジナルの背景や設定を妄想出来そうだ。下手すれば「一番ストーリーを想像しやすいaiko曲」かも知れない。
「ひまわりになったら」と言う小説、どこかにあるのではないだろうか。集英社文庫の夏の百冊辺りにしれっと紛れ込んでいてもおかしくない。勿論ひまわり畑背景、白いセーラー服の女の子二人の表紙で!
――失礼、妄想がはじけ過ぎた。でも私は絶対どこかで見た気がするんです!(活きのいい幻覚)

おそらくはaikoの実体験――実際の失恋から生まれた曲であるのだが、史実(と言うと硬いが)があるにも関わらず、道を一本に絞らせず、リスナーによっていろんな読み、ストーリーを可能にさせているのは、やはりこれも奇跡のようで実に素晴らしいと思う。このフレキシブルな点も「ひまわりになったら」の強みなのだろう。

昨年のLove Like Pop Vol.21の「ひまわりになったら」の歌唱は、演出も含めて本当に最高のものを見れたと思っている。
かなり古い映像も含めた、aikoの二十周年を振り返るような形のメモリアルムービー。あまりにも、あまりにもエモ過ぎて、「大阪城ホールが私の墓」と遺言してしまったくらいだ。幸い「My 2 DECADES 2」にて映像化されているので是非ご覧いただきたい。TOP40の頃から追いかけている最古参aikoファンがあの「ひまわりになったら」を食らったら(そしてそんな人が絶対に多い大阪公演がツアー初日だったわけである)と思うと……いやマジで本気でエモ死しているのではないだろうか。ヒョエ……。

そんなエモな文脈にありながら、昨年発売された「aikoの詩。」Disc4のカップリング集に選ばれていなかったので私は酷く落胆したのであるが(aikoも苦渋の決断のうえ選曲していたのは重々わかっているけれども)今年めでたく各種サブスクリプションサービスにてaikoの曲が解禁されたので、積極的にaiko初期にして最高傑作の「ひまわりになったら」を広めていきたい所存である。

1996年、MUSIC QUEST JAPAN FINALで歌われたことで初めて世に出された「ひまわりになったら」。ラジオでのオンエア、インディーズでの音源化、ライブでの歌唱を経てようやくメジャーでの再発表となり、その再発売からも既に12年の歳月が流れてしまった。1998年から数えれば22年にもなる。そしてそれはちょうど、aikoのメジャーデビューから数えての年数にもなる。そう考えると「ひまわりになったら」はaiko史で言えば古典にすらなっている風格も感じられる。
最初に「ひまわりになったら」を聴いたのがいつだったのか、それこそリスナーによって様々だ。「あたし」のようにまだ蕾でしかない少年少女の頃だったかも知れない。そんな蕾の頃をとっくに過ぎて、人生が枯れ始める頃だったかも知れない。
どんな時でも曲の中の「あたし」と「あの子」は切ない物語の中にいて、「あたし」は涙と虚しさと寂しさに沈んでいる。それでも、「あたし」は少しずつ「あの子」から離れていき、一人で凛と立ち咲き誇る「ひまわり」へと――あの子にとっての「ひまわり」になれるように、成長していくことを望む。言ってみれば私達は「あたし」と言う長い物語、そのプロローグに過ぎない序章を聴いていると言えよう。

いつかひまわりになる。ずっとずっとひまわりでいる。最初は強がりに過ぎなかったかも知れない想いはやがて恋愛を越えて、ひとつの人間の生き方としても響いていくことだろう。いつか私も誰かにとっての「ひまわり」になれたらと、そう思う。

そもそも、こう歌うaikoこそが、多くの人にとっての「ひまわり」であると私は信じて疑わない。勿論、私にとっても彼女は「ひまわり」だ。

これからもaikoが沢山の人にとっての「ひまわり」になっていけるように、そしてまた、「ひまわりになったら」をどこかのライブで歌ってくれるようにと願いながら、この長い長い「ひまわりになったら」語りを終えたいと思う。いつも以上に乱文乱筆になってしまったが、ここまで読んでくれた方に少しでも何か響くものがあったら幸いである。(了)



以上!三本立てでお送りした「ひまわりになったら」についての歌詞研究でした。……壮絶に長かった……。簡単に「転載しよ♪」とか思うもんじゃない。
非常に長い文章となりましたが、もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、書き手冥利に尽きると言うものです。
今後もまた「愛子抄」に掲載している、あるいは過去に個人誌で発表したaikoの歌詞研究を折に触れて転載していこうと思います。
その時はまた、noteにいらっしゃるaikoファンの方、歌詞について興味のある方に読んでいただけたら嬉しいです。

あっaikoさん10/21にハニーメモリーっていう新曲出します!(宣伝は基本)
10/17には有料ですがライブ配信もあります~Love Like Rock 別枠ちゃん2です!どうぞよろしくお願いします(宣伝は基本その2)
各種サブスクも解禁されてます。大ニュースでした。今回書いた「ひまわりになったら」も勿論聴けます。是非聴いてみてください。

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