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「JR高田馬場駅戸山口」柳美里〜忍法変わり身の術が使えたら〜

 大好きな柳美里さんの作品です。主人公のゆみさんは、幼稚園に通う息子・ゆたかくんと都営戸山ハイツに二人暮らし。夫は単身赴任中です。

  河出文庫の表紙では、ゆたかくんを彷彿とさせる小さな子がベランダから外を見ています。間違えたら落っこちてしまいそうな危ない体勢で、運動神経の悪い私なぞはハラハラします。ましてゆたかくんを大切に育てているゆみさんなら、この姿を見たら間違いなくすっ飛んでくるでしょう。でも、作品中で本当に危うい状態になっているのは、すっ飛んで子を抱きしめる立場にあるゆみさん自身なのです。

 ゆみさんはゆたかくんを思って子育てに完璧を貫こうとするあまり、自分の首を絞めていってしまいます。放射能、様々な菌やウイルス等......目に見えないものから子供を守るのは至難の業でも、目を瞑ってやり過ごすことはゆみさんにはできません。単身赴任中の夫は取り合ってくれず、ゆみさんは不倫を疑っています。話をできる親戚やママ友もいません。ママ友に関しては、会話の輪の中にすら入れません。同じ都営住宅に住む自治会メンバーとの仲も険悪です。ゆみさんの精神的支柱は、ゆたかくんの存在と、彼女の心の中に住んでいる忍者ハットリ君です。(そのため、彼女の心中ではしばしばハットリ君口調が用いられているでござる)

 どんどん追い詰められていくゆみさんの姿は読んでいて辛く、苦しくなります。普通なら看過できるような問題が頭から離れない。自分の見えていない所でその問題がどう取り扱われているのか気になる。周囲の会話に入っていけない。自分の心を守るのにすごくエネルギーを消費してしまう。生きていくことを放棄できない......。心に占める構成比に違いはあれど、共感できる部分も多く、懸念事項を全身全霊で受け止めるゆみさんはますます脆く、危うく感じられます。

 もっとコミュニケーション能力があれば、もっとバランス感覚があれば、もっと鈍感力があれば......世の中で必要とされる処世術があればもっと気負わず生きていけるのでしょう。私はゆみさんのように純粋でないので、そんな風に思いつつ、どの能力も自分に備わっていないことに落胆もします。でも、純度の高いガラスのように透き通っているゆみさんは、ゆたかくんの健やかな成長のみが至上の目的になっています。自分ではどうしようもないこと、ひとりでは到底対処できないことを全身で受け止めようとすれば、どうしたってバランスを崩してしまいます。

 一人の子どもとして、私はゆみさんが自分の人生の主人公を自分にしていないのが一番辛いです。ゆみさんはハットリ君ではなくて、ゆみさんでしかないし、ハットリ君も、誰もゆみさんに変わることはできない。変わり身の術が使えればどんなに楽かと思うこともあるけれど、お母さんであるゆみさんがいるからゆたかくんがいることを、何よりも大切にしてほしい。最後まで、そう念じながら読んでいました。

 

 

 

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