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短編小説『あいさつロード』

知らない道には秘密がある。
……いや、秘密ではなくて、僕がいままで気づかなかっただけなのだけれど。

日曜日の午後。無言で家を出る僕に、母が声をかけた。
さとる、どこ行くの?」
「テキトー」
僕は長い長い散歩をした。
散歩は僕の趣味だ。まだ歩いたことがない道はたくさんある。生まれて17年で『街の道を全部歩きました!』という人間は、そんなにいないだろう。
国道からそれて、裏道の裏道のそのまた裏道……と歩くと、真っ赤な立て看板を見つけた。
黒いペンキで、帽子を被った犬の絵が描かれている。犬をぐるりと囲むように、こう書かれていた。
『あいさつロード おはよう』
……ここは通学路ではない。かつてスーパーが建てられていたが、いまは空き地になっている。
こんな寂しい道で、こんな呼びかけがされていたとは。
少し歩くと、似たような看板を見つけた。
『あいさつロード こんにちは』
よく見ると、犬の顔がちがう。この犬は黒目が横を見ていて、口が開いている。この道は『あいさつロード』なのか。
……ということは、ここを歩くと、誰かにあいさつされるのか!?
ドキドキしてきた。
いまは昼間だから『こんにちは』か?
それとも、『おはよう』か?
「お、おはようさん!」
後ろから声がした。
振り向くと、日に焼けた見知らぬおじさんが立っていた。
「……おはようございます」
「びっくりしただろ、あいさつロード」
「はい」
「俺の親父が立てた看板なんだわ。ここさ歩く奴いねぇって言っても、聞かなくてよ。……今日は、親父にいい報告ができるなあ。ひとり、初めてあいさつした人がいたってさ」
「その……お父様はもう……」
「いやいやいや! ピンピンしてるわ! 『今日は寒いからテレビ観てる』って部屋にいるだけだ! わはは」

その日の夜。
ふくらはぎを揉みながら、僕は考えた。
『あいさつロード』を、自分でつくってみよう。看板は立てないけれど。
僕の家からいちばん近い交差点まで、500メートルくらいある。
僕はこの道を、『あいさつロード』にした。
ルールはたったひとつ。
誰かに会ったら、あいさつする。名前が知らない人でも。
最初は、あいさつできなかった。心のなかで、(あー、どーもー)くらいしかつぶやけなかった。
ある日、コツをつかんだ。
「あぁ。おはようございます」
この「あぁ」がポイントだ。「あぁ」というひとりごとか、相手に言ったかわからない言葉で、相手が僕に気づく。
その瞬間、「おはようございます」と言って軽くお辞儀。
この『あいさつロードひとり運動』で、僕はどうなったか。
「おはよう」
「悟、おはよう」
朝起きてリビングに行くと、自然に父と母に「おはよう」と言えるようになった。
「おはよう」というあいさつは、言わなくてもいいかもしれない。
けれど言うだけで、同じ言葉が返ってくるだけで、一日のスイッチが入る。
その魅力に、すっかりとりこになったのだ。
今日は日曜日だ。朝日がまぶしい。
そうだ!
「いってきます」
「悟、どこに行くの?」
「あいさつロード!」
「なにそれ?」
「帰ったら教えるよ!」
今日はあったかいから会えるかな。
『あいさつロード』をつくった、僕の『先輩』に。

【了】

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