見出し画像

学校を休むのはズルいこと?

朝、起きてきたときに、

「あ、今日は難しいな」

というのは、だいたい、すぐ、わかる。

娘が、その日、学校に行けるか行けないか。
行ったとしても、ただぼんやりと苦しく時間をやり過ごすことになるか。
繊細な心が傷つく情報を過剰に吸い取って、よれよれになってしまうか。

娘は、赤ちゃんのときからよく笑う女の子だった。
2さい上の息子が幼少期は癇癪持ちだったから、
私はそっちに手を焼いていて、
いつもニコニコ笑って、ぷっくり元気で優しい娘が
癒しの存在でもあった。

むっちゅりしたほっぺに、何度もちゅーをして、
むっちょりした体を、ぎゅーぎゅー抱きしめた。

そんな娘が、学校に行けなくなったのは、
小学1年生の終わりの頃だった。
思えば、入学式の朝、
おばあちゃんに作ってもらったお手製の
着物ワンピースを着て嬉しそうにしたのは一瞬のことで、
家を出た時に、

「がっこうになんかいきたくない」

と言って、娘は泣き出した。
その時、笑って

「大丈夫、大丈夫。楽しくなるよ」
などと呑気に励ました私の頭を、ぺしっとハタいてやりたい。

「もっとちゃんと聞いといたれや」と。

学校で一生懸命前を見てすわり、
みんなと一緒のこたえをさがし、
仲良しになったと思ったら、
ちょっと疎遠になったり、
みんなと同じ、かわいいシールを、
特に好きじゃなくても必死になって集めたり。

そんな毎日の中で、娘はちょっとずつ、
苦しさを溜めていった、のかもしれない。

学校を休むようになったのは2年生に入ってからだったと思う。
連続して休むわけじゃなくて、「今日はいけない」と言う日が増えた。
学校に行けば行ったで、楽しく過ごせる日もあるのだけど、
もうぐったりと濡れ雑巾のようになって帰宅する日が増えた。

自由に過ごす時間には
野鳥や野良猫を探して写真を撮るようになり、
四葉のクローバーを50本くらい集めて私にくれたり、
朝からパンケーキをふっくら焼いたりもしてくれた。

おばあちゃんから教わって、着物の端切れで
小さな小物をちくちく縫うようにもなった。
正直、めちゃくちゃうまい。売れると思う。

彼女の中には、いろんな色の鮮やで豊かな世界が広がっている。

それは確かなのだけど、学校に行く前の娘は
灰色の雲をどっしりと肩に背負うようになった。
もういっそ、ずっと休んで、”不登校”になりきった方が
いいんじゃないかと何度も私は思うのだけど、

2年、3年、4年、5年。

もうすぐ6年生になる今までの間、
娘は、なんとか頑張って、行ける日は学校に行き続けている。

でも体が辛くて
お休みしたり、遅れていったり、早退したり、
しなくちゃいけない時もある。

小学生にとって一番長く過ごし、
大きな意味を占める学校という場所。

先生たちもスクールカウンセラーさんも
お医者さんも、
少しでも楽しい時間が過ごせるように
協力してくれていると思う。

ありがたいと思う。
でも、やっぱり、その場所が、どうしてもしんどい子もいるのだ。

先生が悪いとか、おともだちとの相性だとか、
そもそも学校教育のしくみに合わないだとか、
色々な言い方もできるかもしれないけれど、
誰かや何かを責めたいわけじゃなくて。

ただ、合わないっていう子もいるのだ。
「それでいいのだ」と最近は、思う。
その子に合う場所は、ちゃんと他にあるから。

今も、彼女は、行ける時は学校に行き、
行けなければ休み、(というか家で何かを作り)
行ったけど、もう無理、となれば帰る、
というスタイルを確立している。

それで私も夫もいいと思っているし、
この先に、彼女にピッタリ合う場所がきっとあると
わかっているから、それほど心配じゃない。

ただ、言われるのだ

「お前は、休んでばっかりでズルい」と。


私は、その言葉を(娘を通して)聞くと
結構一番辛い。
「あああああ・・・・」と言う気持ちになる。
娘もそうだろう。
自分のあり方を肯定できなくなるだろう。
だって、小学生。
友達の言うことが、一番インパクト大なのだ。

もちろん、お友達がそう言いたく気持ちもわかる(5ミリくらい)、
気がする。

「自分達も頑張ってるんだからお前も頑張れよ」
「ちょっと嫌なことがあるからってサボるのはダメ」
「楽しい時間だけ選んでやってくるのはズルい」
「俺だって、休みたい」

みたいなことなのだろう。
かな?

実際、辛いことほど優先して頑張るって、大人でもやってしまっている。

これまでの日本社会でずっと奨励されてきたこなのとかもしれない。
学びや労働や奉仕や、もっと言えば、生きることの中で、
辛いことや、しんどいことを乗り越えてこそ、意味があるのだ、と。
それを受け入れて乗り越えたときにだけ、
ご褒美のように楽しさが与えられるのだ、と言われてきた気もする。

だけど、娘と出会って、娘の姿を見ていて、私は思うのだ。

「それは逆じゃない?」と。

この人生の楽しさや美しさや、嬉しさや、ありがたさを
たくさん享受できることが、どんなに人に力をくれるか、と言うこと。

楽しくて嬉しいことを経験できている瞬間にこそ、
きっとなんでも乗り越えられるすごい力が出せるって言うこと。
その先に、”おまけ”のように、辛いことやしんどいことも乗り越えられる底力が生まれるってこと。

だから、私は胸を張って、娘の体調や心境を優先し、
休ませる時は休ませる。
他にやりたいことがあるときは、そちらをさせる。

他の子達だって、つらいなら、
いくらでもサボったり、休んだり、他のことをしたり
すればいいんじゃないの? と言いたい。

でも、それを娘に言ったら、娘はカタカタやっていたミシンの手を止め、
ため息をついて言った。

「やっちゃんは、ちっともわかってない」
「そう簡単に、休めない子たちはいっぱいいるんだから」
「それぞれみんな、事情があるのよ」

そ、そうか、そうだよね……。

ああ、やっぱり、学校に行っても行けなくても、
子どもたちはみんな、全部、ちゃんとわかっているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?