【エッセイ】日々の含
日々の含
『新宿のええじゃないか』
朝刊の「日経平均株価が史上最高値を更新」という大見出しが目に止まった。
これぞ吉報である。だってそうだろう、株価の最高値は何も株主だけの利益に通ずるのではなく企業の時価総額、つまり企業価値の向上を意味するからであり、それに伴い企業の事業は拡大、従業員の給料も上がるわ経済も潤うわで最終的に我々は幸せな生活を送ることができるのだから。それにも関わらず私の生活に変化が無いのは一体どういうわけか。おかしい。というのも、株価は今日この時点で瞬間的に最高値を記録したわけではなく、年月をかけて徐々に上昇して本日とうとう最高値へ至ったのであり、ということは株価の上昇に連動して私の生活も日々良くなるはずなのに私は相変わらず貧乏のままである。体感が無い。だからおかしい。ここには何か根本的要因が潜んでいるに違いない。とすれば本件、調査の上で究明しなくてはなるまい。そう思い立った私は家を飛び出して新宿駅へ急行した。
JR新宿駅は東口、つまりアルタ前は非常に多くの人で賑わっていた。
これは何も今日という日が金曜の夜だから来たる土曜を祝して賑わっているのではない。曜日に関わらず新宿というのは人が途切れるということはなく、この賑わいをもって平生と判断され、それはこの街が日本随一の歓楽街であることの証左に他ならないのである。周囲を見渡せばサラリーマン、OL、女子大生、ホスト、ホステス、老紳士、貴婦人、劇団員、芸人、不良、ホームレス、新聞配達員、馬鹿、フランス人、ラグビー部一同、犬、猫、ももんがあ、YouTuberといった非常に雑多なものが新宿駅前をうごめいており、そのうごめきの中に私も居た。ただ、私にとってこんな様子は幼少の頃からさして変わらないいつもの風景だったため、動じることなくいつもの感じでいつも通りうごめいていた。ふと前方を見上げるとアルタの超大型スクリーンには、今をときめく女性アイドルが学生服を模したのであろう、それでいて煌びやかな衣装を身に纏ってふりふり踊っている様子に、私は思わず「わあ、可愛いなあ」と年柄もなく幼稚な事を言ってしまった。といって私はやはり動じない。何も恥ずかしくはない。なぜというに、先程も申し上げた通り、新宿駅アルタ前には非常に多くの人間がうごめいており、その喧騒によって我が「わあ、可愛いなあ」は一瞬の内に搔き消されてしまったからである。いや、それだけではない、目の前の新宿通りの車道には広告宣伝車がひっきりなしに横行、そのほとんどが車に搭載されたスピーカーから「バニラ」なる文言を大音量で喚き散らしているからであり、そのおかげで低能丸出しの発言「わあ、可愛いなあ」は、人の喧騒と車の「バニラ」からなる相乗効果によって掻き消されて発言自体が無かったことにされたのである。だから恥ずかしくもなんともない、私の声なんて誰にも聞こえてないのだから。私のことなんて誰も興味が無いのだから。わあ、可愛いなあ。
時刻は十九時。で、私は何のために新宿駅前にやって来たのか。
その目的を再度お伝えすると「株価が最高値を更新したにも関わらずどうして私の生活に変化が起きないのかという謎を解明する」である。その手がかりが新宿駅前にあると私は思う。どういうことかというと、先ほど私は「新宿駅前には非常に雑多な人々がいる」と言ったでしょう。これを利用しない手はない。謎を解明する手順はこうである──まず最初に、雑多な人々の中から誰でもいいので誰か捕まえて、その人が私と同じ境遇かどうかを聞き出し、もし私と同じ境遇(株価最高値なのに自分は貧乏)に該当した場合は追加の聞き取り調査を行う、つまり、職業、年収、学歴、保有資格、賞罰、部活動、経験人数、等々をヒアリングする。そしてこの調査を百名に対して繰り返した後、全てのヒアリング結果を集計して共通点を見つける。すると自ずから、株価最高値なのに貧乏であることに対する一般的な法則あるいは法則性が導かれるのである。つまり、人々の事情を聞くことで答えを帰納的に導き出すことができるという寸法であり、長々と説明してしまったがこうした行為を七文字で説明すると「街頭アンケート」ということになる。というわけで、早速私は新宿駅前で街頭アンケートを試みたのである。
十数分後、私は歌舞伎町にある「鹿丸水産」という居酒屋チェーン店に居た。
実に奇妙である。だってそうだろう、この鹿丸水産というのは、「鹿丸」という店名からして鹿や猪といったジビエ料理を出すのかと思いきや何のことは無い、マグロやホッケといった海鮮料理を中心に提供する居酒屋なのだから。それなのに「あのすみません、鹿刺しってあります?」なんて店員に尋ねた俺は愚の骨頂ではないか。それが証拠に尋ねられた店員も「ありませんね」と答えたがその際の表情は「ねえよバーカ」であった。
誂えた蟹味噌の甲羅焼きが席に運ばれて来るまでに私は生ビールを四杯も飲んだ。といって、これは何も私の生ビールを飲むペースが速いのではない、蟹味噌の到着が遅いだけである。そして驚くことに、ようやく蟹味噌の甲羅焼きを運んで来た店員が言うには「これはお前が望んだ蟹味噌の甲羅焼きである。しかし、まだ完成した訳ではない。今、お前の目の前にロースターが置いてあるだろう?それを使って甲羅を焼け。即ち、甲羅の中の蟹味噌が加熱され火が通ることをもってこの一品『蟹味噌の甲羅焼き』はようやく完成を迎えるのだ。見たまえ、俺はロースターに火を点けた。あとはお前の番だ。さあ思う存分、焼け。」的なことを私に申し付けて店員はどこかへ去って行ったのである。私はロースターの焼き台に甲羅を乗せた。そして、甲羅の中の蟹味噌から沸々と気泡が立ち上る中、私は街頭アンケートが失敗に終わった理由を考えていた。
街頭アンケートの失敗、それは一重に「私の意気地の無さ」に起因するといえる。私の性質上、見ず知らずの通行人を呼び止めて「なんか株価が最高値らしいですよ。で、あなたの職業は?年収は?」なんて聞ける訳がない。そもそも街頭アンケートなるものを考えてみれば他人様に対して非礼極まりない。もし私が聞かれる立場であったとしても不快であることに変わりはなく、これを転じて厚顔無恥と称するのであって、その汚名を避けるべくこの度の私は誰一人に対してもアンケート調査を行わなかったのであり、結果的に私の面目は保たれたのである。だから結果的に良かった。
とはいえ、本件の目的「株価が最高値を更新したにも関わらずどうして私の生活に変化が起きないのかという謎を解明する」は依然、謎に包まれたままなのでどうにかして解決に導かなくてはならない。だから私は鹿丸水産に来たのである。といって、私は鹿丸水産で酒を飲んで酔っぱらった勢いを利用して街頭アンケートに再挑戦しようというのではない、そんな学生みたいなノリは御免蒙る。私の目論見はこうである──鹿丸水産の店内は大勢の客で賑わってるから客の会話を盗み聞きすることで私と同じ境遇の人を何名か見つくろって彼らの発言をこっそり聞いて分析することによって株価最高値なのに貧乏であることに対する一般的な法則あるいは法則性を導く、である。要するに「他の客の会話を盗み聞きすれば謎は自然と解ける」という寸法である。なるほど、この手段であれば、先程の街頭アンケートとは違って他人様に対して直接的に迷惑を掛けることは無いだろうし、私の性質からしても容易に実行することができる。というわけで、私は他の客の会話に耳を研ぎ澄ませた。先程から蟹味噌がぶすぶすと妙な音を立てている。
一時間後、私は『無料案内所』と掲げられた案内所の前で佇んでいた。
先の鹿丸水産における盗み聞きの目論見は失敗に終わった。いや、失敗というより自滅と言い換えた方が適切かもしれない。だってそうじゃん、私の体質上、ビールを飲むと陽気な気分になって思考能力が停止、それによって他の客の会話なんてまるっきり耳に入らないまま私一人の世界に浸りきってしまうのだから。自己陶酔とやや堅めに言えば聞こえが良いのかも知らんがはっきり言ってこんなものは気障な下戸、一人で勝手に酔っ払った私が悪い、即ち、自滅といえる。ともあれ街頭アンケートに続いて鹿丸水産も失敗に終わった。失敗の事実は事実として真摯に受け止めなくてはならない。だからこうして私は無料案内所の前までやって来たのである。するとこの私の行動に違和感を覚えて「『失敗を真摯に受け止める事』と『無料案内所に行く事』は無関係なのでは?」とか「お前はただキャバクラに行きたいだけなのでは?」とか「君ってほんとテキトーだよな」と反発してくる者がいるかもしれないが、それは甚だ見当違いというものであって、私が無料案内所に行くのは正当な理由がある。それは以下の通りである。
その昔、下柳というプロ野球選手がおり、彼は言った「反省しても後悔するな」と。蓋し名言である。失敗してしまった事に対し、我々は「なぜ失敗したのか」「ではどうすれば失敗を回避できたのか」「次に向けて自分は何をすればいいのか」と振り返りながら吟味を重ねて次に生かす、つまり失敗を反省することが成功の秘訣である。しかし、その一方で「あのときあんなことしなきゃよかった」「過去に戻ってイチからやり直したい」「もうダメだ」と自らの過ちを責め立てる、つまり後悔ばかりしていては成功には繋がらず、後悔とはただただ時間の浪費でしかない。それを見据えていたからこそ下柳は「反省しても後悔するな」という言葉を残したものと思われる。
では、この下柳の名言を私のケースに適用してみると、要するに「街頭アンケートも鹿丸水産も失敗に終わったけどさんざん反省したことだし、終わった事は忘れてここはひとつ気を取り直してキャバクラにでも行ってパーッと遊んでしまおう」という事になる。というわけで私は無料案内所の暖簾を潜り、中に居た無料案内人に勧められるがまま歌舞伎町職安通り沿いのキャバレーへと向かったのである。
二時間後。キャバレーを後にした私は元来た職安通りを歩いていた。
普段であればその辺のタクシーを拾って帰宅するのだが、キャバレーで有り金を使い切ったことにより徒歩で帰らざるを得なくなってしまったのである。キャバレーで私の隣に付いたホステスは「下柳」に似ていた。だが楽しかった。下柳は愛嬌に満ち溢れていた。女性も男性も器量の良し悪しはさて置いて愛嬌だけはあった方がいい。世の中には悪口や文句ばかり言う者が一定数存在する。私は愚痴っぽい奴とは関わりたくない。私は世の中の人間が総じて下柳の様な性格であってくれたらなあとつくづく思った。
「阪神の下柳に似てるってよく言われませんか?」
そんな私の冗談を下柳は満面の笑みで受け止めてくれた。この笑みはホステス下柳としての仕事上のホスピタリティ精神、いわゆるホステスホスピタリティに端を発するのではなく、これは下柳という個人から迸る愛嬌の賜物であると実感した。
「はい、よく言われます」
私はキャバレーの帰り際、下柳に「また必ず行くから」と言って連絡先を尋ね、そして電話帳に彼女を「下柳」と登録したのである。
二十三時。職安通りを折れて新宿駅まで戻って来た。
アルタ前は以前にも増して人人人でごった返しており、おそらくここに居るほぼ全員が酔っ払っているせいもあってか、一際やかましく耳障りであったがそうした雑多な中から誰かの発した「ええじゃないか」という叫び声が辺り一帯に響いた。
「ええじゃないか」とは、その名の通り、ええじゃないかええじゃないかと騒ぎ立ててはそこかしこの街道を練り歩くという、幕末に起きた民衆運動を指してそう呼んでいるのだが、民衆運動といっても当の「ええじゃないか」運動における大儀や目的であったり、この運動による何かしらの影響や効果については諸説ありというだけで謎に包まれたままである。一方で同時代における「一揆」や「打ちこわし」は年貢の減免であったり米価格の引き下げを主たる目的としているが、謎の運動「ええじゃないか」とは心の底からなんとなく出てきた単なる乱痴気騒ぎだったのだろうか。ただ、民衆にしてみれば訳の分からぬ倒幕やら佐幕やらがひしめき合う当時の世相を反映して「ええじゃないか」が現れたのは当然として、では一体何がええのか、世相の肯定としてのええなのか、どうでもええのか、どうなってもええのか。株価最高値を更新した日、私が聞いた誰かの「ええじゃないか」は果たして何がええのやら。
とそんな事を思った、今日の含。
以上