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【虐待を受けた子どもも親孝行をしなければいけないのか?】

1.初めに

  「親から虐待を受けた子どもは、果たして親孝行をしなければいけないのか」という問題に対して儒教的な観点、さらにら韓国儒教の観点からアプローチしてみようかと思います。
 昨今の日本では、子どもを支配したり傷つけたりする親を「毒親」と呼んだりします。また、自分の親などの「生まれ」からくる不遇は「運」の問題であり、自分の力ではないどうにもならないという認識のもとで「親ガチャ」という言葉が流行しています。暴力的で育児を放棄した親のもとで育った子どもは他人の顔色や迷惑を過剰に気にする傾向があり、自己肯定感が低く、生きづらさを感じる、いわゆる「アダルトチルドレン」のような問題も取り上げられるようになりました。
 不運にも最悪な親とそのもとで育った子どもとの関係を儒学的な観点で語るというのは非常に難しいことです。なぜならば、儒教は目上の者には従わなければいけないという封建的な教えを象徴するものとして一般的に知られているからです。しかしそのような否定的な側面を一旦横に置いて、考えてみようかと思います。

2.儒教では国家に対する「忠」より「孝」が優先される

 まず、儒教は「孝」を非常に重視していると言われています。親にどのように孝行をすべきかを説いた「孝経」という経典があるくらいです。
 儒教文化が根付いた国、例えば朝鮮では国家への忠誠よりも親への孝行が優先されます。国王が間違った行動をとった場合、臣下は3回まで諫言して過ちを正そうとします。しかしそれでも国王が過ちを続けるなら、臣下の席を離れるべきだと儒教では説いています。
 それとは反対に親が間違った行動とった場合はどうなのかというと、子どもは親の過ちを諫めようとしますが、いくら諌めても親が間違った行動を継続するならば、泣きながら親の意思に従わなければいけない、それが道理だと説いています。

3.儒教で「孝」が強調されるわけ

 ではなぜ儒教ではこれほどにも「孝」を強調するのでしょうか?それは社会経済的な側面や心理的な側面から考えることができます。
 儒教の発祥地である中国は農耕社会であり、農耕会の基本的な単位は個人ではなく、家族でした。家族のつながりが強ければ、農作物から多くの利益を得ることができます。反対的に弱ければ、経済的な損失が生じます。そのため親を中心に家族が一つにまとまる必要がありました。
 しかし人の行動というものは経済的な側面だけでは説明できないものがあります。突然ですが、皆さんは自分の存在に感謝をしていますか?この世に生まれてきたことに感謝していますか?自己肯定感が低い人はおそらく自分に感謝するよりは、こんなにも自分ってダメな存在なのかと、自分を恨んでいるのではないでしょうか?
 親は私という存在の源です。私たちは親を通じてこの世に生まれて来ました。当たり前のことですが、この世に親がいない人はいません。近くにいようが、遠くにいようが、私がここにいるのは親の存在があるからです。つまり、私という存在は、親の存在を証明しているもので、私の人生は私に命を与えてくれた親への最大の孝行になります。

4.『孝経』における「孝」の初めと終わり

 このような文脈で『孝経』の有名な一節を紹介します。

「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。」
(『孝経』開宗明義章)

 髪の毛から皮膚を含む体の全ては親から受け継いだものであり、その体を傷つけてはいけない。それが孝の始めである。親が子どもに求める事は何でしょうか。学問をしっかりと学び、大人の言うことをしっかり聞き、良い行いをするなど色々とありますが、何より親が子どもに望むのが子どもが健康なことです。現代の観点から考えれば、体を傷つけないことは、健康であることを意味します。それが孝行の始まりです。
 過去、朝鮮時代の所謂両班といわれている人たちは、この『孝経』の教えを徹底的に守り、髪の毛を切ることすらしませんでした。髪を切るという行為は「孝」ではないと考えていたからです。また韓国を代表する李栗谷は以下のように語り、自分自身の体を守ることが「孝」であると強調しています。

「天下に私の体よりも大切なものはない。この体は親から受け継いだものだ。親が遺してくれたこの体は、天下のどんなものとも交換できない。親の恩恵がどれほど大きいのか、これによって知ることができる。どうして体を私のものだけだと考え、親を尽くして敬うことができないのだろうか。」
(『撃蒙要訣』、事親章)

 つまり自分の体は親から受け継いだもの、世の中のどんなものとも代えることができないと言っています。親からもらった自分の体を大切にすることが親孝行ということです。
 自分の体を守ることが「孝」の始めならば、「孝」の終わりはどのようなものでしょうか?『孝経』では以下のように説明しています。

「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり。」
(『孝経』開宗明義章)

 今日使われている「立身出世」という言葉はこの一節から由来しています。ですが原文を見てみると社会的に身を立てて出世するといった単純な文脈で語られていません。原文で語られているのは、立身した後、後代に名前を残し、親の名声を高めることが「孝」の終わりだ説かれています。
 後世に名前を残すということは正しい道を歩むことが必要です。もちろん、悪事を働いて名前を残す人も多いですが、それは「孝」の終わりとは言えません。そのため、良い行いをして名前を残すこと、それが真に誠実な人生であり、私という存在の根源に対する最上の恩返し、つまり最高の孝行となるのです。私たちが一般的に共有している「孝」の概念、つまり、親から受けた慈愛に対する礼としての物質的、または精神的な恩返しというのは、「孝」の概念の一部に過ぎません。

5.虐待を受けた子どもも孝行すべきだ

 では、ここで最初に提起した問題に立ち戻りしょう。「親から虐待を受けた子どもも、親孝行をしなければいけないのか」という問題に対し、儒教的なアプローチで解決策を提示してみます。
 私の回答は「虐待を受けた子どもも孝行をすべきだ」ということになります。しかしその孝行は親に従属することや、受動的に虐待を受け続けろという意味ではありません。また親を経済的に支えることを意味するものでもありません。自分の体、自分の人生を大切にして、困難な状況を乗り越えて立派な人間になること。善行を行うこと。それが私という存在を生んでくれた親、さらには私に命のバトンをつないでくれた先祖へ尽くす最高の孝行だと考えます。

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