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心が動くほどの重要な体験が起きると自分の中のスイッチが入る

人は心を動かされるような体験をすると、それが糧となって人生を変えるきっかけとなることがある。

私の場合は半年間の社会不在体験だ。
あまりにも人と違う体験をしたので、こうして自分史として残すことにしている。
あまりこういうことはさらけ出さないほうがいいのかもしれないが
もし、私のような目に遭った人がいて、今後の人生に絶望していたとしたら。
少数派であろうその人の何かしら糧になればいいと思っている。
あとは、いつか自分が死ぬ時に、
生きた証を残す“自分史”が必要だと思っている。

好きなものが食べられない生活


スーパーやコンビニ、ネットで今は好きなものを選んで食べることが出来る。
こんな有難いことに気づく人はなかなか少ない。

私は半年間、毎日ずーっとお弁当生活だったことがある。
お弁当と言ってもコンビニのような素晴らしく美味しそうなものではなく、できるだけのコストを削ったと思われる出来合いの惣菜が並ぶお弁当。
粉のお味噌汁、代わり映えのしないメニュー。
白米か食パンかの毎日。
食べられるだけ有り難い、という正論は置いておいて、好きなものを食べられない辛さ、食の重要さを改めて感じさせられた。

お金を出せば買えるものもあったが、所詮はお弁当。
栄養も味気もないものには変わりない。
他の似たような施設について調べて見たことがあるが、おそらく、留○場という場所が一番食についてはひどい気がする。

普段めちゃめちゃ良いものを食べていたわけでないが、それなりには美容だって体型だって気にして食事を選んできた。
大学生の頃はベジタリアンについて卒論を書いたこともあり、野菜などの栄養素には強い関心がある。
これは食べ続けたらまずいな、と思って極力食べないようにしていたが、ストレスとも相まってどんどん痩せていった。
そして肌も悪くなると思う。
あんな不飽和脂肪酸や添加物がたくさん入った揚げ物ばっかり食べていたらと思うと怖い。

以来、私はお弁当が食べられない。
正しくいうと食べることはもちろん出来るが、既製品だけはNGである。
愛があるかないか、大量生産されているものはもちろん愛はないので(と私は思っている)、一切手を出す事はない。
食の安全についての記事は読み、調べ、意見を取り入れることにしている。

こんなに飽和している世の中で、有り難さをもっと感じなければならないし、大体はみんな病気になってから食の有り難さを感じるのだろうけれど、常日頃からもっと感じるべきだと思うようになった。
そうすると、“ごちそうさまでした“と伝えることは必要なことだと思うようになるし、無駄なものを買わない、に繋がると思う。

食事は健康な体があって、好きな人と好きな場所で好きなものを食べられることは有難いことだと色んな人にも感じてほしいと思う。

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