水の月

6月6日、今年も雨が降っている。

■プロローグ

この物語の主人公の名は清(きよし)。祖父母世代で最も人気だった名を授けられた少年は、今ではもう米寿を迎える老人だ。米寿は88歳に与えられる称号である。

清は誰からも人一倍愛されてきた男であった。それは清が誰よりも、誰をも深く愛してきたからである。こんな男だから職場でも愛されたし、仕事も大成功した。不動産会社に勤務していた清は社内だけではなく、業界全体から慕われる存在であった。

ここから始まるのはそんな清の人生後期の物語である。

■別れ、別れ、別れ、別れ、別れ

誰からも愛される清。そんな清の心を射止めたのは当時取引先の受付嬢をしていた栄子であった。誰をも愛する清。稼いだ金は仲間だけでなく、飲み屋でたまたま出会ったような人達にまで大盤振る舞いしていたから、金はすぐ底をついた。

それでも借金せずに済んだのは、栄子がきっちりと家計を管理してくれていたからだ。もちろん清は最愛の妻、栄子にも何不自由なく暮らしていける生活費は渡していた。栄子はその生活費を上手く調整しながら、清が外でも自由に金を使えるように取り計らっていた。

栄子は誰をも愛する清のその姿に惚れていた。そして清も栄子の愛情をしっかり感じていた。

幸せな日常が、時に身を任せて流れていった。

そんな日々においてもずっと幸せでは無かった。

ポツリ、ポツリと真っ白な習字の半紙に墨が落ちてしまうように、不幸な出来事は起きてしまう。

何も変わらぬ穏やかな日々だと思っていても、時間は流れていて。

時間は残酷だ。大切なものを奪っていく。命さえも。しかも法律で裁くこともできない。

そんな、時間という存在が、清にも牙を剥く。

清から大切な人たち、清の両親、栄子の両親の命を奪い去った。

その度に清は喪主を務め上げた。

清はこの時ばかりは栄子にほとんど何も手伝わさせなかった。辛い想いをするのは1人で充分だと、栄子が何度手伝うと言っても頑なに拒んだ。最愛の人に悲しんでほしくはなかったからだ。

喪主のすることは多い。葬儀会社やお寺とのやり取り、故人と親交の深かった方や近隣の方への連絡、葬儀の準備、通夜、告別式、四十九日に香典返し。悲しんでいる暇もないほどに忙しいが、これを清は頑として1人で遂行したのだ。

誰をも愛してしまう性格だから、挨拶の際も極力自分の想いではなく、参列者への労いを強く発した。

「本日は、お友達の皆さま、ご近所の皆さま、お忙しい中ご会葬たまわりましたこと、故人とともに心よりお礼申し上げます。」

この部分に想いを込め何度も何度も繰り返して挨拶した。

清は悲しむ間もない内に気がつけば4回も喪主を務めていた。

そして5回目もすぐに訪れてしまった。

栄子はもともと体が強くはなかった。それでも薬や手術を上手く活用し、なんとか60歳の還暦を祝うことはできた。

清は栄子の還暦を盛大に祝った。友人達も招き入れ旅館の大部屋を貸し切り宴会を開いた。栄子には赤いちゃんちゃんこを着てもらって。

栄子は照れ臭そうに

「こんなもの着るほど老けてないわよ」

と言いながら清の肩を叩く。

「そうだな、どう見たってまだピチピチだ。だからまだまだ長生きするぞ」

清は笑いながら、そう言葉を返し、それに釣られて栄子も周りも大笑い。

あんなに楽しかった宴会からたった数ヶ月。

まだ栄子の笑顔がくっきり思い出せるうちに、奪われた命。

「神か仏か知らないが、そりゃないぜ。なぜ俺の命ではなくて、俺の大切なやつらの命ばかり持ってくんだ。」

清は栄子が生き絶えた病室で、天を遮る天井に向かってそう嘆いた。

カレンダーには6月6日、悪魔を連想させる数字が並んでいる。

しかし清はそれでも気丈に振る舞った。

愛すべき栄子のためだ。

最後までしっかり見送るために、喪主としての役割を果たした。不思議と涙も悲しみも襲ってこなかった。

何度も悲しみを経験する中で、清は悲しむという行為をできない人間になってしまっていたのだ。

清も気づかぬうちに。一つずつの大切な人の死が清の感情を奪っていっていたのだ。

悲しむことさえできない清。

両親も、最愛の妻も。何もかも失った清はただそこに体があるだけの無気力な人間になっていた。


■大家

無気力な中でも時は過ぎていく。

清は現役時代の同僚のツテで東京郊外のボロアパートの大家になった。この時、清は65歳。妻を亡くしてから3年の月日が流れていた。

清が大家を務めるこのボロアパートは二階建て。部屋数は全部で六室。そのうちの一室に清も住んでいた。工場が立ち並ぶ地域の近くということもあって、住人のほとんどが出稼ぎにきている人たちであった。

そんな場所に不釣り合いな女が、突如そのアパートにやってきた。

■水野

その女の名は水野。年は27歳といったところか。髪は黒く真っ直ぐ。肩くらいまで伸ばしている。服装は短パンにTシャツ姿だが、だらしなくは見えない。可愛いらしく着こなしている。身動きしやすい服装を選ぶのは、水野の前職が介護職だったからであろう。私服のまま仕事可能な職場だったので、動きやすい服装を好むようになったのだ。

水野にとって介護職は天職であった。両親を若くして亡くした水野は祖父母に愛情を持って育てられた。そのおかげで水野にとって祖父母ほどの年齢の人は最も親しみのある人達であり、最も愛情を恩返ししたい人達であった。

それに水野は、なによりも人が大好きであった。人の話を聞くのも、話をするのも、好きだった。学生の頃からファミレスで夜遅くまで話が尽きづ、帰るのが遅くなって、よく祖父母に叱られた。

体力にはそれほど自信はなかったが、今の介護は昔ほど体力勝負では無い。さまざまな技術や知識の向上によって、力を使わずともできる介護が増えてきたからだ。

介護職に就いて、水野自身もこれが私の天職だと自覚した。水野が親しみを持って接するのでどの要介護者の人達も水野に心を開き信用していた。

しかしそんな水野を疎ましく思う奴がいた。

水野が働き出す前から、働いていた彩子だ。彩子はその職場の所謂お局な存在であった。彩子に味方しないとやっていけない職場であった。だから彩子が水野を嫌いだと言うと、他の職員もそれに従うしかなかった。そしてすぐに水野へのイジメが始まったのだ。

水野は最初は耐えた。職場の人間がどう思おうと関係ない。私が向き合うのは私を必要としてくれている人達だからだ。なので余計な争いも避け、ただ耐えた。

耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて。

3年が経過した。

職場に行く際の駅のホーム。

水野は電車に乗ることができなかった。

電車が閉まる。その扉に映し出された水野。悲しくもないのに左の目から一筋の涙が流れていた。

その涙を見た瞬間に耐えていたものが全部壊れた。水野は膝から崩れ落ち、人目も憚らず涙した。駅員が駆けつけてもお構いなく泣いた。

泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。

止めることができなかった。


そして翌日、水野は大好きだった介護の仕事を辞めた。

すぐに違う介護の場で働くという選択肢もあった。

だが水野には休憩が必要だった。これは人生の夏休み。そう思おう。水野はすぐにそう思えるような前向きな女性だったのだ。

そしていつも職場に向かう電車とは反対方向の電車に乗る。

乗って、揺られて、揺られて、揺られ

その路線の最終地点まで

この地で夏休みを過ごそう。

そう決めて街を彷徨いていた先に見つけたのがそう。

清のボロアパート。

今時まだこんな3丁目の夕日に出てくるようなアパートがあるのだな、と水野はやけに興奮した。そして大家らしき男を発見する。

「あの、すいません、部屋空いてますか?」


■水野との出逢い

この辺りでは見かけない女性が声をかけてきた。

「あの、すいません、部屋空いてますか?」

どういうわけか、この女性、名を水野というこの人物は、このアパートに住みたいと言ってきた。

ちょうど2階のひと部屋が空いていたので、そこならどうぞ、と部屋を貸してあげた。

清はあえて水野に引っ越してきた理由は聞かなかった。

■水野の夏休み

そして水野はそれから何をするでもなく毎日を過ごしていた。朝は日の出と共に起き、近くの河川敷を散歩する。その帰りに近くの店で食材を購入し、帰ってきたら気が済むまで昼寝。起きたタイミングで夕食を丁寧に作り食べる。夜は優しい音楽や、時には無音で自然が奏でる音を聞き入った。

それが水野の夏休み。そうやって傷ついた心を少しずつ癒していたのだ。

そうやって日々をまったりと過ごしている中で一つ気になる存在があった。

清の存在だ。

あの老人はとても優しそうだ。現にいつ会っても笑顔で挨拶してくれる。でもなんだろう。笑顔の後ろに隠れている得体の知れぬ雰囲気は。

気にしだすと、みるみる清の存在が気になってくる。

だから水野は昼の食材を買い、部屋に戻ってくるタイミングで清に声をかけることを決めた。

それからほぼ毎日、昼食を作る少し前に、清とアパートの前で話した。大した話ではない。今日はトマトが安かった。とか今日は河川敷の川の水が昨日の雨で濁流していた。とか。

そんなたわいもない話も、清は笑顔で、うんうん、そうなのか。と聞いてくれた。

不思議と清と話終えて作る昼飯は前よりも美味しくて、

清と話終えて眠る昼寝はいつもより心地良かった

そんな夏休みを過ごしていたある日

嵐がアパート上空を直撃した。大型台風だ。全国ニュースでも取り上げられるほどの暴風雨。

そんな中でこのボロアパートが耐えきれるはずもなく、あっさりと停電してしまった。

他の人達は慣れたもんだと、各々の解決策、蝋燭だったり、懐中電灯だったりを取り出して過ごしているようだ。

だが水野にとってはこれが初めてのこのボロアパートで体験する嵐の夜。

恐怖心と絶望感が襲ってきて眠ることができない。

そこで勇気を出して清の部屋の扉をノックした。

コンコン、ギシッ

今にも朽ち果てそう扉が開く

清はすぐに扉を開けて、中に水野を招き入れてくれた。

水野の、今日はここで添い寝させて。という提案にも何一つ嫌な顔をせず受け入れた。

そして水野と清は六畳間に並べらた二つの布団にそれぞれ横になった。

清が横にいてくれて安心したが、まだソワソワする。もっと安心したい。だから水野は清の布団に潜り込み、清を抱き枕のように抱きしめた。

清はその全てを受け入れた。おかげで水野は嵐の中で、これまでで最も深い眠りについた。


それから何か心細さを感じる度に水野は清の部屋を訪れた。

しかし男女の関係にはならず、ただ添い寝し合う関係が一年程続いた。

それでも水野の温もりはじわり、じわり、清の閉ざした心を少しずつ開けていった。

清は夜中に何度か目を覚ましてしまう。あまり深くは眠れないからだ。

横を見ると、清を信頼しきってスヤスヤと眠る水野の寝顔が、そこにはあった。

その寝顔を見ているうちに、清はこう呟いていた。

「栄子、俺はもう一度誰かを愛してしまってもいいのかな?」



、良いに決まってるじゃない。その子から沢山の愛を感じているはずよ。その子を私以上に幸せにしてあげなさい、

ありがとう栄子。そして水野。俺にまた愛が何かを教えてくれて。ありがとう。

この想いが募った夜、清は初めて水野を自ら抱きしめた。水野は少し驚いた様子だったが、すぐに受け入れてくれた。

その夜、2人は結ばれた。


■水野の誓い

そこから話はトントン拍子に進んでいき、清と水野は結婚した。

30歳の年の差婚という珍しいカップルだったので、あの有名な新婚さんが出演する番組にも出演できた。

その場でも語ったが、清はいつも自分が死んだ後の話ばかりする。

自分が死んだら墓はこうする。ボロアパートはこうする。だのあれこれ言ってくる。

おまけに葬儀は死ぬ前に自分で手配しておくから心配するな、なんてことまで言ってくる始末。

清の想いは理解できる。五回も喪主を務めてきた人だ。想像している以上に辛く大変な想いをしてきたんだろう。だから私に同じような想いをしてほしくないから、死ぬ前に段取りをつけておきたいのだろう。

でもね、清。もう十分なのよ。

あなたはもう十分、頑張ったのよ。

辛いことを全部引き受けて、悲しみも全部受け入れて。

そうまでしてあなたは大切な人を愛してきたのよね。

そして私をもこんなに愛してくれて。

もう大丈夫。もう大丈夫なのよ。

安心して。

最後は私があなたをめいいっぱい見送ってあげる。

だから清。あなたはあなたの人生を愛して。


■6月6日の笑顔と涙と

水野がそう誓ってから、何十年かの月日が経過した。

お互いにたっぷりの愛情を注ぎあった日々であった。

清は気付けば88歳。米寿だ。

そして最後の瞬間を迎えようとしている。

カレンダーは6月6日を示している。

病室のベッドから見えるのは、あの日栄子を亡くした時に見た天井。

だがあの時と違って、その天井の手前には

6つの笑顔

愛すべき水野、俺の両親、栄子の両親、栄子の笑顔が浮かんでいて。

皆が俺に向かってこう言っている

清、ありがとう


そりゃ俺の台詞だ。栄子が死んでしまった時は神をも恨んだ。

でもどうだ。諦めずに生きていたら、水野が俺を救ってくれた。

俺にまた愛を与えてくれた。

水野、愛を与えてくれてありがとう。

心の底から、、、

「愛してる」


その「愛してる」の言葉だけが水野に届いた。

そして清は笑顔で眠り、

水野は愛に満たされ泣いた。

あの駅での涙とは違う。温かさに包まれた涙だ。

外は相変わらず雨が降っている。

六月を昔の人は水無月と読んだ。

水無い月と読むのでは無い。

水の月と読むのだ。

水の月、水野の涙も雨に溶けて月まで運んでくれるだろう。

清の大きな愛情を受け継いで、誰かの涙とともに寄り添える存在に水野はこれからもなっていく。

愛はこうして引き継がれていくのだ。

終わり











ここまで読んでいただきありがとうございます。