ライオンのおやつ
小川糸さんの『ライオンのおやつ』読み終えました。
※ネタバレ含みます。
あらすじはこんな感じです。
主人公の雫は末期癌を宣告され、最後の場所としてライオンの家を選ぶ。ライオンの家では同じように人生の最後を迎える人たちが暮らしている。ライオンの家ではおやつの時間が設けられていて、そのおやつはそこにいる人々が最後に食べたいおやつ。雫は、そこにいる人達が最後に食べたいおやつを通して、その人達の生きてきた道を肌で感じていく。そして自分が最後に食べたいおやつを通して、自分の生きてきた道も辿っていく。
読み終え、一夜明けて、じんわりと感動が広がってきています。温かな蜂蜜入りのレモネードを飲んだ時のあの爽やかさと甘さに優しくて包まれている感覚です。
この小説の何がまず良いかって、出てくる食べ物が、毎日食べる訳では無いんだけれど絶対それ美味しいよね、ってのが沢山出てくることです。レーズンサンドに、カヌレに、ミルクレープに、豆花に、お粥。
特に今食べたくなっているのはお粥です。しばらく食べてないですが、近いうちに作ってみようと思います。
ミルクレープと豆花も食べたくなっています。僕にとってのミルクレープはドトールのミルクレープです。かつてドトールでアルバイトしていたことがあるので、ドトールのミルクレープは青春の味でもあります。
また豆花は台湾に行った時に食べた思い出のデザートの一つです。海外で食べたスイーツって旅を思い出させてくれます。
こうやって小川糸さんの書いたものを読むと、食べたくなるものが必ず一つはできます。
読みながら登場する食べ物達を堪能しているのです。
だから読み終わった時に心が満腹になっています。
◇
僕がライオンのおやつを読んでグッときたのは、把握漏れしてなければ、登場人物のほぼ全員が自分が最後に食べたいと願ったおやつを実際に食べることなく亡くなってしまうことです。
マスターも百ちゃんも主人公の雫も最後に食べたかったおやつは結局食べられませんでした。
これが物凄く現実的だと感じたのです。自分が望んだものを手に入れて死ねる人って殆どいないでしょう。多くの人が最後に食べたいと思っているものさえ食べられずに命は終わってしまう。そう考えると死はとてもシビアです。死は自分の都合なんて全然聞いてくれない。
じゃあ最後に食べたいと思っていたものを食べられなかった人達が不幸なのかと言うと、そうではないと思うのです。
いや、そう思いたいだけなのかもしれません。
色んなパターンがあると思いますが、死ぬ前って、とっても痛くて辛くて絶望。いつまでこの痛さが続くのか。こんなに苦しいなら死んだほうがマシだ。食べたいものなんて考えている余裕すらない。
だから食べたいものを考えられているってまだマシなのかもしれない。
そう、この小説には願望も多く介入していると感じています。死ぬ前の人がこう考えてくれたら良いのになってのが沢山詰まっている。
死ぬ前に大切な人達に会えて対話できたら良いのにな。死ぬ前に頭の中でおやつをたらふく食べられていたら良いのにな。そんな願望。
この願望が救いなのだ。
もしかしたら現実にはそんな甘い話は転がってないのかもしれない。だけど良いではないか、創作の中でくらい夢を見たって。あまりにも辛いことばかりな現実世界において、こういった願望は救いだ。
雫は本当は苦しくて痛くて、激痛の中で死んでしまったのかもしれない。それでもその痛みの中で大切な人たちの声を聞いて癒され、美味しいおやつを沢山食べて死んだんだと思いたい。
僕もどこかそう思いたいのだ。
先月亡くなった嫁のお義父さんは、実際には痛そうだったけれど、最後の最後は、大好きなあまあまなアイスを食べながら命を終えたと思いたい。
それがこれから生きていかないといけない僕たちの支えになってくれるんだ。
ああ、そうか、この小説は、許しを与えてくれているんだ。そうやって都合良く考えたって良いんだよ、と許してくれているんだ。
こんな時は普通素敵な小説をありがとうと言うのだろうけれど、今はこう言いたい。
ごちそうさまでした。
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