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誓いとのキョリ感


わたしと誓いのキョリはどのくらいか

物理的なキョリでいうとかなり遠い。

日本とブラジルくらい遠い。

言葉的なキョリでいうと案外近い。

都会の一駅分くらい近い。

誓いをすでにすませたひとたちをみてるからか

誓いの末に愛の継承を生み出したひとたち。

わたしは誓いをすませずに死を迎えるか?

誓いをすませたと思いきや誓いをやめる人もいる

誓いは誰にでもする権利があり、
誓いは誰にでもしないという権利もある。

そこに関する価値観は多種多様で、

なにが正解かなんて誰も知らないはずなのに

これが正解だ。と大きな声で叫んでる人がいて

その声を無意識の頃から聞かされてきたので

ああ、そういうものなのね。と思わされていた。

「誓い願望はある?」

「う〜ん、どうだろうね、いい人がいればね」

「そうだよねえ〜まだ考えられないよね」

「でもさ誓いってしないとやっぱり
 歳を重ねてから寂しく感じるのかな?」

「え〜どうだろう。
 まあお金の不安とかはあるよね」

「うん。でも逆にさ誓い相手の運命も一緒に
 担うわけだし、愛の継承をつくったとしたら
 リスクはひとりの時よりも増えるよね」

「そうだね。
 だけど逆にいえば、自分のリスクのときに
 一緒に乗り越えてくれるひとがいるのは
 かなり心強いんじゃないかな?」

「あ〜たしかに。
 でもそれって誓いって形でもいいし、
 そうじゃない形でもいいと思わない?」

「たとえば?」

「さいきんね、「おんな2人、暮らしています」
 っていう本をね、読んで、すきで、何回も
 繰り返し読んでるの。その2人はね、
 恋仲ではなくて、友だちなの。猫も4匹いる」

「うん」

「それ読んでるとね、あっ、人が誓いに
 求めるものって、というか、わたしが、
 誓いに求めてるものって、人生の山にも谷にも
 一緒にいてくれるパートナーなのかも。って。

 病気になったり仕事を無くしたとき、今はね
 家族がいてくれるじゃん、ままとかぱぱ。
 だけど家族ってわたしより先に空にいく可能性
 のほうが高いわけじゃん?
 そうなったらさ、その年齢のときってさ、
 友達はみんな誓いをしてる可能性もあるじゃん
 そしたら、あれ?わたしこの辛さをひとりで
 乗り越えなきゃいけないのかな?って。

 ああ、こんないつきてもおかしくない辛さを
 一緒に乗り越えて、あ、お互いのをね。
 乗り越えていける人がいてほしいんだなあって
 それって異性じゃなくても恋仲じゃなくても
 成立するんじゃないかと、そう思うの。」

「うん」

「でもね、それだといろいろ国の制度とか 
 見直してもらわないと苦しい場面もあるの
 まあそれも本の中に出てくるんだけどね」

誓いという言葉へのキョリは年齢とともに
強制的に近づいて、乗り越えれば離れるけれど

そんな山にわたしたちは強制的に登らさられる。

そんな山を意識させられる年齢が若すぎた、

そんな山もあれば違う山だってあって、

登らなければならない山が多すぎると思う。

なんてことを考えながら自分の価値観とやらを

日々、自分に確認している、思考の日々。

山にも谷にも一緒にいて、
離れていかないだろうな、と思える人と
人生のどのタイミングで出会えるのだろう。

もしかして、もう出会っていたり、
もしかして、もう機会を逃していたり、
もしかして、人生のだいぶ後半で出会うのかも

そんな人に出会えた、幸せだ、
と噛み締めていても、離れる日も来るかも、

そんな未来へのいろんな「かも」を考えて
どんな「かも」も受け止めて超えていける、
そんな強い人間にわたしはなりたい。

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