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【春からはじまる冬眠日記 17】最終日。冬眠から抜けだして見たもの

2020年6月1日

静かな部屋で、ひとり、これを書いている。このタイトルで日記をつけるのも最後になった。日記というには憚られるような、てんで続かないくだらない雑感だったけれど、自分の記憶と記録のためには多少役立ったかもしれない。10年後読み返したら、この濃厚な2ヶ月を思い出す小さなフックくらいにはなるだろうか。

子どもも夫も、今日から学校、保育園、会社……と、それぞれの場所に出かけていった。わたしはいつものように(2ヶ月前までそうだったように)、玄関でいってらっしゃいと手を振った。エレベーターの窓ごしに笑う子どもたちの顔が下がっていくのを見届け、ドアを閉める。

着替えをしまいに洋室に入ったら、脚にボックスを組み込んで下駄を履かせたローテーブルが目に入った。リビングでは集中できないので(うちは書斎がなく、デスクもリビングに造りつけている)、苦肉の策で夫が仕事をしやすく調整しながら、ここで毎日仕事をしていた。わたしにはわけのわからない記号やアルファベットの羅列を走らせたメモが重なっている。

その横には、小さなアウトドアテーブルがあって、鉛筆や丸付け用の赤鉛筆や消しゴムのカスが散乱している。こっちは、娘が宿題をしていた場所。

どう考えても居心地よく見えない、つぎはぎだらけの部屋。ありありと「今をどうにかしなくては」の必死さが伝わってくるようだった。つい昨日まで、ここで仕事が進まないとか、宿題が終わらないとか、弟がやかましいだとか、晩御飯のメニューが思いつかないだとか、みんなそれぞれに文句をたれながらも、四六時中顔を突き合わせて、必死で日常を送っていたのだ。つい、昨日まで。

部屋の様子は昨日のままなのに、夫も子どももいない場所。それはまるで、自分だけが昨日までと同じ時間の中に取り残されてしまったみたいな、不思議な感覚だった。ふいに胸のあたりが(江國香織流に言うと)「すーん」として、涙ぐんでしまった。

あたらしい日常。あたらしい生活様式。あたらしいってなんだろう。

わたしたちは元の生活に戻ったわけではないし、戻れるとも思わない。あらたに知った価値観や大切なものを胸に刻みながら、昨日の続きを歩いていくのだろうか。あたらしい6月がはじまる。


写真は今朝のお弁当。「最初の日だけ、お願いお願い、絶対の絶対にお顔のおにぎりにしてね!お願い!」と何日も前から懇願されていたので、今日だけ特別に。お顔のおにぎりは、保育園の2歳児クラスの時からずっと、遠足の時だけつくっていたから、娘にとっては「ちょっと特別なとき」という感じなのだろう。三日に一度の分散登校。初日の今日は、2時間だけ授業を受けて、そのあとは学童でこのお弁当を食べる。3ヶ月ぶりのランドセルは、1年生用の黄色いカバーも取れて、赤い色がまぶしかった。


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