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わたしのなかの、小さな子ども

インナーチャイルドの話ではなく、物理的な子どもの話。もっというと、歯の話です。

歯が痛み出し、たっぷり丸一日、不機嫌さと不安さでいっぱいの時間を過ごした。痛いといっても、ズキンズキンと疼くようなものではない。冷たいものや熱いもので刺すような刺激が走るわけでもない。じっとしていれば平穏なのに、ひとたび上の歯と下の歯を軽く噛み合わせると、ズーンと鈍く、しかしとてつもない痛みが生じる。

前から5本目、右下の歯。ちょうど奥歯の入口みたいなところだ。

噛む、という行為に普段はまったく気持ちを向けることがなかったけれど、こうして痛みを伴ってみると、ほんの少し、軽く、軽く噛んだだけで歯にものすごい圧を受けているのがわかる。歯というよりも、その根っこのようなところが痛い。だんだんと周囲の歯茎まで痛み出し、さらにはこめかみや頬骨のあたりまで、鈍くだるい、重い痛みがつきまとう。何も食べられないし、食欲もわかない。このままでは、ガリガリに痩せてしまうかもしれない。

虫歯だろうか。こんなに根っこから痛いのだから、もう神経のその先の先の骨の髄までやられているのかもしれない。そうなったら手術だろうか。口腔外科のある大学病院で、口をこじ開けられてぶっとい麻酔を打たれ、ゴリゴリガリガリと処置されるのだろうか。

考えれば考えるほど、憂鬱は増すばかり。それには理由がある。
この歯は、乳歯なのだ。

先天性欠如(欠損)歯は、生まれつき大人の歯がない、名の通り先天性の形成不良。10人にひとりくらいの割合で生じるらしいから、これ自体はまったくめずらしいものではない。親知らずが生えたり生えなかったり、というのはよく聞く話だと思う。
わたしの場合は、それが5番目の歯にそれが起こっている。

乳歯はやわらかでもろく、永久歯に比べて歯根もうんと短い。本物の歯というよりも、食べて、生きていくための練習用の歯のようにも思える。
調べてみると、この乳歯はおおよそ1歳半くらいのころに生えるものらしい。となると、わたしはこの歯を生きてきた年数とほぼ同じくらい、使っていることになる。練習用の、仮歯のような歯を!40年以上!そしてこれからも!

翌日、朝いちばんに歯医者に駆け込むと、虫歯ではなく噛み合わせによる負担で炎症が起きているのだという。しばらくは、痛み止めでしのぎつつ、抗生物質を決められた期間飲み続け、炎症が引くのを待つ。噛み合わせを調整してもらい、これでよくなるようなら、またこの歯を大事に使いながら様子を見ていく。そしてよくならないなら抜歯をし、ブリッジや差し歯、インプラントなどの処置をする。あぁ、想像しただけでくよくよしてしまう。

さいわい、抗生物質が効いたのか、噛み合わせがよくなったからなのか、痛みは収まりつつある。食欲も、あっという間に戻った。でも、軽くグラグラし始めているこの歯をわたしはいつまで守り切れるだろう。

悩みは尽きない。とはいえ自分のなかにちっちゃな子供時代のかけらが残っているのは、なんだかちょっとだけおもしろい。わたしの記憶にはないくらい昔の、離乳食の延長みたいな幼児食を食べた記憶が、この歯にはあるのだろうか。だとしたら、教えてほしい。あなたは一体、どんなものを食べてきたのか。どんな味を経験してきたのか。

わたしのなかの、子どもの歯。赤ちゃんのころからずっと一緒に生きてきた、弱くもたくましい、大切な歯の話。

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