見出し画像

わたしは丁寧に暮らしたい

今年のわたしは、丁寧(ていねい)に暮らしている。

「丁寧に暮らす」という言葉が生まれてひさしい。そこから転じて、今度はそれを揶揄されることも増えてきた。もしかしたら今は、「丁寧よりも〇〇」「丁寧ではない暮らし」といった、「丁寧へのアンチテーゼ」のほうが主流になりつつあるのかもしれない。

丁寧さをプレッシャーに感じたり、できないことを嘆く人は多いと思う。わたしだってそうだ。

それでもわたしは、丁寧な暮らしにあこがれる。丁寧を揶揄するのではなく、丁寧に暮らしたい、丁寧に生きたい、と声を大にして言いたい。

丁寧な暮らしとはなにか。
ほうきで掃除をし、梅シロップや味噌をつくることだけが丁寧な暮らしではない、というのはなんとなく多くの人が気づき始めているだろう。ならば、土鍋で日々の飯を炊き、作家もののうつわを並べて食卓を整えることが丁寧なのか。好んでキャラクターもののお茶碗を使っている人は、「丁寧な暮らし」ではないのか。そのキャラクター茶碗が30年来の愛用品だったらどうだろうか。もはや禅問答だ。(わたしは梅シロップも味噌も作家もののうつわも大好きだけれど、どれも「趣味」だと認識している)

わたしの思う丁寧な暮らしは、たとえば洗濯物を干しっぱなしにせず畳んであるべき場所にしまうとか、トイレの黒ずんだ汚れや部屋の隅の綿ぼこりを見て見ぬ振りしないとか、自分の体調が普段とほんの少し違うことに気がつくとか、そしてそれを改善するために行動するとか、子どもの体や表情の変化を見逃さないとか、小学校の連絡帳にハンコを押すのを忘れないとか、生協の注文を後回しにせず締め切りに間に合わせるとか、請求書をためないとか、朝晩のスキンケアをするとか(化粧水もつけずに寝る日の多いことよ)、かかとが松の内の鏡餅になる前にクリームを塗るとか(鏡開きは餅だけでよい)、日めくりカレンダーを忘れず毎日めくるとか、そういうことだ。書いていると、自分の暮らしのレベルの低さに悲しくなってくるけれど、できていないのだから仕方ない。

そういった積み重ねの末に、季節の小さな変化を敏感に感じ取ったり、その恩恵を食卓にのせたり、自分の手でなにかをこしらえたり、週に一度花を飾ったり、なんてできたら最高だけれど、それはまた別の話。まずは目の前のやるべきことを粛々とやる。後回しにせず、小さなザラつきを見過ごさない。

つまり、わたしが思う「丁寧な暮らし」とは、どんなことにもきちんと真正面から、心を寄せて向き合うということだと思う。それは、こうしたいという欲求や希望だけでなく、不快さや悲しみなどネガティブな感情も、等しく粗末にしない。自分の心に嘘をつかないともいえるし、自分を大切にする、ともいえるかもしれない。そしてこれが、思いのほか難しい。

(ちなみに補足しておくと、洗濯物がぶら下がっていても、掃除が行き届いていなくても、生協の注文を忘れてしまっても、それがどうってことのない人もたくさんいるし、それはそれでいい。わたしは性格上、自分の機嫌を損ねることにつながってしまう)

昨年、とても気に入っていた日めくりカレンダーを年の半ばで処分した。気に入っているのに毎日めくれない。常に目にする場所に置いているのにもかかわらず、気づけば数日、数週間経っている。ちいさな紙一枚をめくることすらできない、そんな自分にほとほと嫌気がさしたのだ。日めくりカレンダーはわたしにとって、「理想とする丁寧な暮らしの代名詞」であり、同時に「自分のダメさを突きつける」ものだった。

3年ほど前の冬だったか、尊敬する文筆家の方が使っているのを実際に拝見する機会があった。その方が、毎朝、日めくりに記される小さな言葉に向き合っているという話を聞き、これはわたしも、と強く思った。でも、買えなかった。自分のズボラさを知っているからだ。買ったのにめくれず無駄にしてしまう未来は容易に想像がついたし、その方との時間や思い出ごと汚してしまうような怖さがあった。

けれど昨年末、わたしはついにその日めくりを買ったのだ。

日めくりをめくれず、愛おしいのに処分するという経験は、苦々しいほどの薬になった(あえて、しまいこむのではなく処分という方法をとった)。それを経て、なんだか今ならできる、やってみたい、と思えたのかもしれない。

1月26日現在、わたしは毎日このカレンダーをめくり、今日のひとことを見つめるところから朝を始めている(たまに昼に、夕方に見つめているけれどセーフとする)。
昨日から今日へと日付を更新するとき、わたしの心は初心を思い出す。それが、今日のトイレ掃除や床の掃除機かけや、忘れていないけれど忘れたふりをしている生協の注文とか、後回しにしている保育園の継続書類の記入とか、そんなことを始める一歩になっているかといえば、そうとはまだまだ言い切れないけれど。

それでも今年のわたしは、丁寧に暮らしている。わたしが描く、丁寧な暮らしに一歩、近づいている。「丁寧に暮らしたい」という希望は、自分の暮らしや自分自身ときちんと向き合いたいという気持ちのあらわれなのだから。だからわたしは、「丁寧に暮らしたい」という人をとても好ましいと思うし、自分もそうありたい。遅すぎる2021年の所信表明である。

---
文中にある日めくりカレンダーは、この「ハルカゼ舎」さんのものです。
毎年大人気で、すぐ売り切れてしまうので、わたしはいつも手帳の11月のページにメモしています。

https://harukazesha.com/news/日めくりカレンダー販売開始、お取り扱い店/https://shop.harukazesha.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?