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ガラスコップを割ってやった日記。


開いた傘をそのままに、坂を下る。宛ら追っ手から逃れんとする犯罪者のように。

 今日は早朝から、雨が降っていた。雨の日。雨音も鉛空も、嫌いではない。然し、軋むような偏頭痛があるから、どうしても好きにはなれない。一層の気鬱さから、私は二度寝に耽る。二度目の起床は、比較的早く覚めた。今日の目的を思い出したからだ。
私は起き上がると、身体に纏わりついた倦怠感を振り落とすべく、挽きたての珈琲豆を使った珈琲を飲み干す。
最近の私は、雨の日外に出る程度に抵抗はない。寧ろ濡れてやろうか等と考えるほど大胆な有様だ。それに、昨日実は傘を買ったのだ。新品を使うときがこんなにも早く来るのかと思う期待感のほうが大きい。
やけに張り切りきった私は、早々に準備を終えた。行先は決まっている。何時ぞや散歩道でみかけた人気のない廃屋地味た場所。夜は不良やホームレスが集まりそうなそこは、ガラスコップを割るのに最適な場所だと思っていた。いよいよガラスコップを、鞄に入れる。後々誰かしらが怪我をしないように、破片の回収道具も抜かりなく。

 目的地には難無く辿り着いた。思惑通り、人の気配は全くない。鴉の鳴き声だけが只管鳴り響く閑静な場所だった。不気味さはあるが、それは元より覚悟のうち。私は展望台のように聳えたつ廃屋の建物の階段を上がった。

 最上階まで登りきる。下にいたときよりも風が強い。同時に、ガス臭さも遠く、澄んでいた。思わずマスクを外して、深呼吸をする。四方ぐるりと歩き回り、下の景色を見渡す。通行人がいないか、或いは人影のありそうな窓はないか。一見見当たらなかったが、臆病な私は、向こう岸の道路が気になった。
ただ、最後の片面。其方は林であった。木々が邪魔をするかもしれないが、落として割れないことはないだろう。と、一人頷く。
場所を決め終えると、漸く。置いていた鞄から、ガラスコップを取り出した。

 お世辞にも綺麗とは言えない文字に殴られたコップ。此奴を、私の内側から溢れた黒に染まった透明硝子を、今日割るのだ。これまでの旅の終着点を作るため。これからの私の出発点を見出すため。

コップを握ると、ひんやりとした冷たさが手のひらの熱を奪う。無機質なだけではない、氷のような冷たさ。早く手放さねば、全身からお前そのものを奪い去ってしまうぞとでも言いたげなほど。それは良くないことだ。私は此奴を取り去るためにここまで来たのだ。さっさと捨ててやろう。そう思い、決めた場所を見下ろす。何故だか、足が竦む。私が飛び降りるわけでもあるまいに。何故だか、ガラスコップを手放せない。人を殺すわけでもあるまいに。妙な緊張感に呼吸が浅くなる。

それでも、然し、いや、いや、ええいままよ!

そして、冷たい感触から、手を放した。

草木を揺らし、ぶつかり、そのまま落下したガラスコップ。響く、硝子の割れる音。劈くようでいて何処か透き通った音は、風鈴の涼やかさに劣らないものだと感じた。

 暫し、ぼんやりと落下の先を見下ろす。
束の間、激しい羽ばたきが近くで聞こえた。黒い影に私は慄いて、直ぐにその場で後ずさった。一匹の鴉がすぐ傍に降り立ったのだ。其奴がドスの利いた嗄れ声で鳴いた。連なるように数匹の鳴き声が辺りに響いた。しまったと、肝が冷える。人目を憚り、林のほうへと落としたのは、余計だったかもしらん。鴉の縄張りだったとしたら。私は鴉が嫌いなのだ。あの狡猾で獰猛な彼等の目が、怖いのだ。過去に襲われたときの記憶を彷彿とさせる声。察するや否や、余韻に浸る間もなく階段を駆け下りた。降りたところではたと思い出す。幸い、私は昨日買った傘を持ち歩いていたのだ。雨も陽もなかったが、構わない。傘を開いて軒下から出る。頭上から鴉の声こそすれど、此方に来る様子はない。安堵。然し硝子の破片を片すほど、心の余裕はなかった。故に、破片を見届けるのみで、そそくさとその場を立ち去る。

鴉の鳴き声に追われながら、傘にこの身を隠しながら、足早に逃げ出した。

 不思議な心地であった。あれさえ割ってしまえば、胸が空くと確信めいた何かがあったはずなのだ。いざ、手放した瞬間、割れた音を聞いた瞬間、つっかえが落ちたのは確かだった。然し不思議と、怯えと畏れが残った。

やってやったぞ!というよりも、やってしまった…というような。犯罪者地味たもの。

鴉の縄張りを荒らしたことに対してか、硝子を片さなかったことに対してか、或いは……。

そう、そうだ。砕けた硝子を見たときに気づいたのだそれに。落ちた後の残骸たち。それはコップの形は愚か、破片どころではない粉末状の白となっていた。すぐ傍には割れきれなかったコップの底が転がっていた。私は、その姿を見て、こんな感覚を残してしまったのだ。

おかげで鴉が遠のいても尚、傘は閉じれぬまま。追放者みたいに背を丸くして坂を降りた。

 帰宅し、ゆくりとした日常の時間へと戻った。そして現在、思考を整えるべく、この電子媒体に綴っている日記。昨日の思い出話を書くつもりでいたが、二の次にこのことを残しておきたかった。
実際書いていて、理解が追いついたことがある。あの残骸に覚えた、妙な怯えと畏れについて。まだはっきりとした答えはないが、恐らく、私はあれに自身の死を重ねたのだろう。

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例えば、私が飛び降りたとして。硝子よりやわな肉は潰れ、それこそ見る影ない姿となるであろう。入れ物としては、確かに私は死に絶えるだろう。だが、その傍には残ってしまうのだ。コップの底……私の内側の黒いやつ。どんなに割っても朽ちても死んでも、消えることない私の根っこ。それは残ってしまう。

そう、理解したから恐ろしくなったのだろう。

成程。これが出発点になるのか。なんというか、やはり……そう簡単には受け入れきれないのかもしれない。

達成したことの喜びより、今宵は僅かに残留した怯えと対峙して。また明日喜びとして受け入れられたら、昨日の話も書きたいものだ。