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プロ野球開幕にあたって抱いた感情

なんだか不思議な感覚である。少し湿った空気が流れているけれども、酔っ払っているわけではなく、珍しく眠気もない。

プロ野球(NPB)の開幕を翌日に控え、多くのプロ野球ファンはワクワク感に溢れていることだろう。それはそうだ。本来であれば3月20日の開幕からおよそ3ヶ月遅れてようやくこの日がやってきたのだから、落ち着けというのも無理な話である。

見えない、そして未知なる敵との戦いが終結したわけではない。それでも多くのプロスポーツに先んじて野球が開幕する。とはいえ、これは時期や規模、取り巻く環境…様々な要因が重なってのこと。

「野球が特別だからなにがなんでも1番最初に開幕を」というわけではない。

様々な偶然が重なり、たまたま日本では野球が一番最初に順番が回ってきただけ。でも、その偶然を引き寄せるのは運命なのかもしれない。

そう考えると、外苑に咲き乱れる桜が舞うのではなく、紫陽花が雨に打たれているこの季節に開幕するというのも感慨深い。このような理由では二度となってほしくはないけれども。

でもどうだろう。

ぼくの胸の中、頭の中を駆け巡っているのは高揚感やワクワク感ではない。それ以上に大きい感情に支配されている。人生の中でこんなにもこの感情に揺さぶられたことはあっただろうか、いやない。

もったいぶっても仕方ない。

ぼくの頭の中を支配しているのは安堵感だ。

もっと簡単に言うと「ほっとしている」ということである。開幕を迎えるにあたって、こういう感情を持ったのは生まれてはじめてのことだ。

それはそうだろう。例年であれば3月下旬ごろから、あたりまえのように野球がそこにはあり、音が弾けていた。日常と同化し日々をともにしていた、と言っても過言ではない。

では、なぜ安堵感なのだろうか。

ふと考えてみると、ひとつの仮説にたどりついた。

「安堵感は当事者意識がないとなかなか芽生えない」

──安堵感は自分や近しい人(家族や仲間)の「なにか」がうまくいったときに芽生えるもの。例えば受験にうまくいったとか、取引がうまくいったとか、プロポーズに成功したとか──

ぼくはプロ野球選手でもなく、チーム関係者でもない。それに携わる仕事(ライター)をしているとはいえ、関係性という意味でいえば限りなく薄い。透かして見えそうなほどだ。にもかかわらず、ワクワク感よりも先に安堵感がきているのである。

やっぱりそういうことなのだろう。

ここ数年、野球と関わることはできたけれども、なんだかぼんやりとした時間を過ごしてきたように思っていた。自分の気持ちや意識がどれほどのものなのかを計りかねていた。内面的なものは数字で表されるものでもないし、知識で比較するものでもない。携わってる時間でもない。

有識者がたくさんいるなかで、中途半端な立ち位置だな、と思っていたことがあったのも事実。でも、この局面で安堵感を持つということは「当事者意識がある」ということなのだろう。

それだけでも十分なんじゃないかな。ぼくの生きるところはやっぱりここなんだな。

そんな気持ちを再確認する夜、窓の外は雨でも気持ちは晴れた。

今度は違う安堵感も芽生えている。




こちらサポートにコメントをつけられるようになっていたのですね。サポートを頂いた暁には歌集なりエッセイを購入しレビューさせて頂きます。