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特集:志村けんの東村山(多摩川旬報230401)

2020年3月29日、志村けん氏が亡くなりました。
没後3年に当たる今年、多摩川旬報では野火止用水の流れる東村山という土地に焦点を当て、いま一度コメディアン・志村けんを東村山という土地とともに思い起こしていきたいと思います。

東村山の原風景

志村けんが生まれた1950年当時、東村山町にある実家の周辺は畑に囲まれていた。
都内有数のさつまいもの産地でもあるこの地域で、志村もしょっちゅう、祖父のつくるさつまいもを食べさせられていたという。
当時を振り返り、「戦中派でもないのに、いまでもサツマイモやカボチャは苦手」と語っている。

東村山ではさつまいものほかにも、陸稲や小麦、大麦などがつくられていたのだが、実はこのことが志村けんのネタにも間接的に影響してくる。東村山音頭のことである。

1961(昭和36)年、東村山町農協が全額出資する形で東村山音頭が完成した。
キングレコード制作の下、細川潤一が作曲し、三橋美智也が歌うという豪華な体制が整えられたのは、パン食の普及と小麦需要の高まりから、東村山町農協に潤沢な資金があったためだと言われている。
志村けん、11歳から12歳の頃の話になる。1964年の東京オリンピックを間近に控えた時代だった。

志村の父は小学校の教頭で、家庭内の雰囲気は厳格だった。
笑顔の少ない家だったが、唯一テレビだけが笑いを運んでいたという。
ドリフの一員としてのデビュー以降、一貫して子どもを笑わせることに喜びを見出していた志村だが、その背景には、かつての自分を笑わせたいという思いもあったかもしれない。
学校での志村は一転、人前で笑いを取るのが好きな子どもだった。
小学4年生のころに、柳家金語楼の落語演目をコントにして、友人たちの前で披露している。当時すでに酔っ払いを演じていたという。
中学時代は雲の上団五郎一座の舞台中継にかじりついた。
三木のり平と八波むと志の「切られ与三郎」が好きで、よく真似をしていた。

父はこの頃、家の前で交通事故に遭い、その後遺症で「ボケる」ようになってしまった。
志村は後年、コントで演じるとぼけた老人は、この頃の父をモデルにしていると語っている。
志村けんの本名は康徳(やすのり)だが、芸名は、厳格だった父・憲司(けんじ)から借りている。

テレビの世界へ

志村けんがいかりや長介の付き人になったのは1968年。
高校卒業を目前に控えた2月のことだった。
『8時だョ!全員集合』の放映開始が1969年であり、ドリフとしても多忙を極めた時期である。
付き人として楽器やアンプの運搬仕事を行う傍ら、金も時間もないなか、合間を縫ってドリフメンバーにネタ見せに行ったり、付き人仲間とともにコンビを結成したり、一時はドリフの元を離れて本格的に芸能活動をしたりもした。
荒井注がドリフを抜けるということが決まり、志村がその代わりにドリフのメンバーとなったのは、1974年のことであった。

荒井脱退は、荒井の笑いが抜けるだけにとどまらず、ドリフターズというチーム芸がこれまでのようには成り立たなくなることを意味していた。
1975年には追い打ちをかけるように、裏番組で『欽ちゃんのドンとやってみよう』が始まる。
かつては『全員集合』が追い抜かした『コント55号の世界は笑う』と同じ枠であり、いわば萩本欽一―フジテレビによる逆襲が始まったタイミングでもある。
荒井の穴を埋めるべく、志村は懸命に役をこなそうとするが、ウケない。
テレビでその頃の志村けんを見ていた某芸人は、「つまらないよ、あの髪の長いの」とつぶやいていたという話もある。
ドリフターズはこの時期、明らかに行き場を見失っていた。

志村けんの東村山

志村けんの東村山音頭は、志村自身の立ち位置を確立し、さらにドリフ低迷期の突破口を開く転機になった。
当時の人気コーナー「少年少女合唱隊」で、出演者の出身地にちなんだ歌を披露するというお題が出された。志村けんはそこでこの「東村山音頭 ver.志村けん」を披露する。

通常のやり取りで考えるならば、志村は東京出身なのだから東京音頭でも歌えばいい。
しかしこのネタはそこをひねって、志村が中学生の頃にレコード化された、しかし会場の誰ひとり知らない東村山音頭を歌う。
この「誰もが知っているはずの東京の、誰も知らない町の唄」というのは、そのまま「誰もが知るドリフターズの、誰も知らない男」として現れた志村とぴったり重なり合う。
未知のドリフターズである志村けんは、未知の東京、東村山と重なり、ある種架空の東村山音頭を完成させるに至った。

志村けんの東村山音頭は、1番から3番までの3段構成で、1番は正調に近い形で歌われる「東村山4丁目」。
それをマイナーに転じさせた2番の「東村山3丁目」。
そしてオチとなる3番は、ソウル風のシャウトを繰り返し、原曲の面影さえ残さない「東村山1丁目」。
この最も珍妙な1丁目の、「いっちょめいっちょめ、わーお」のリズムと語呂の良さは、ネタの文脈を超え、人々の口伝てに伝播していった。

東村山音頭のブレイク以後、志村は次々とギャグをヒットさせるが、いずれのギャグにも共通しているのは、再現したくなる身体性があるということだった。
志村のギャグは、テレビのなかの出来事を、テレビを見る側の人々の現実へと、身体を介して変換させてしまう力強さを持つ。
当時、長い学校休みの時期になると、東村山の交番には「東村山1丁目はどこですか?」と小学生が訪ねてきたという。
子どもたちは、東村山1丁目にどのような期待を寄せただろうか。

東村山1丁目という番地は実在しない。
通常、東村山市内には東村山という町名はないからである。
志村けんの東村山音頭は、三橋美智也の東村山音頭と異なり、どこまで行ってもフィクショナルな――あるいはバーチャルな――町の唄である。
それはかつて志村康徳が過ごした東村山ではなく、テレビを見て笑い転げる瞬間だけ彼を包んでいた東村山である。
その町を、志村けんは東村山1丁目と名付け、テレビの前に出現させたのである。
「いっちょめいっちょめ、わーお」とシャウトすれば、そこがどんなにつまらないところであっても、楽しく笑いに満ちた東村山1丁目が現れる。
志村けんが見た永遠の町は、その瞬間たしかに、そしていつだって、実在している。

年譜

  • 1950年2月20日 三人兄弟の末っ子として、東京都北多摩郡東村山町に生まれる。

  • 1956年 東村山町立化成小学校に入学。1〜3年次は分校、4年次からは本校に通う。

  • 1962年 東村山市立東村山第二中学校に入学。近所の工場で、顕微鏡の台をヤスリで削るアルバイトをする。

  • 1963年 『東村山音頭』が発売。歌は三橋美智也、作曲は細川潤一。同時収録曲は『多摩湖小唄』。

  • 1964年 東村山町が東村山市になる。

  • 1965年 新設の都立久留米高校(現在は、清瀬東高校と統合して都立東久留米総合高等学校)の一期生として入学。サッカー部に所属。ポジションはゴールキーパーだった。

  • 新宿の地球座(のちの新宿ジョイシネマ)でジェリー・ルイスの映画三本立てプログラムを見る。体を動かして笑わせる芸に魅せられる。

  • 1966年 ビートルズの来日公演に行く。ドリフターズが前座を務めた6/30、7/1ではなく、7/2のコンサートであった。

  • 2年次の担任と進路相談の際、お笑いを志す旨を伝えたところ、由利徹を紹介される。由利徹への弟子入りはかなわかったが、「大学へ行ったら気が変わっちゃうぞ」というアドバイスを受ける。

  • 1968年 高校卒業間近の2月に、いかりや長介の付き人となる。

  • 1969年 『8時だョ!全員集合』が放送開始。

  • 1972年 同じ付き人仲間の井山淳ととともに『チャーミングコンビ』を結成。いかりやにチャーミングではないと言われ、すぐに『マックボンボン』に改名。日本テレビ『ぎんぎら!ボンボン』にレギュラー出演。

  • 1973年 『ぎんぎら!ボンボン』の後続番組『シャボン玉!ボンボン』が放送開始。司会は萩本欽一。マックボンボンは途中降板となり、その後1カ月足らずで番組自体も終了。

  • 1974年 父・憲司が死去。享年54歳。

  • 荒井注がドリフターズ脱退。志村けんがドリフターズに正式加入。

  • 1976年 東村山音頭が大ヒット。東芝EMIより『加藤茶のはじめての僕デス』と『志村けんの全員集合 東村山音頭』の両A面シングルが発売。

  • 1977年 フジテレビ『ドリフ大爆笑』が放映開始。

  • 1979年 『全員集合』で、加藤茶とのひげダンスが人気を博す。

  • 1980年 『全員集合』で、披露したカラスの唄が、小学生を中心に大人気に。

  • 1985年 『全員集合』が終了。

  • 1986年 TBS『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』放映開始。志村けん初のピンの冠番組として、日本テレビ『志村けんの失礼しまぁーす!』、フジテレビ『志村けんのバカ殿様』が放映開始。

  • 1987年 フジテレビ『志村けんのだいじょうぶだぁ』が放映開始。

  • 1996年 フジテレビ『Shimura-X』が放映開始。以後、2020年4月1日に終了した『志村でナイト』に至るまで、深夜枠のコント番組は志村のライフワークとなる。

  • パソコン通信などを中心に志村けん死亡説が流れ、本人が自宅のインターホン越しに会見を開く事態になった。

  • 1999年 テレビ朝日『神出鬼没!タケシムケン』でビートたけしとレギュラー共演。

  • 映画『鉄道員(ぽっぽや)』に出演し、話題を呼ぶ。

  • 2004年 日本テレビ『天才!志村どうぶつ園』が放映開始。

  • 2006年 主催・主演を務める舞台『志村魂』の公演がスタート。

  • 2015年 母・和子が死去。享年96歳。

  • 2019年 志村けん一座第14回公演「志村魂-一姫二太郎三かぼちゃ-」を明治座・御園座・新歌舞伎座で上演。

  • 2020年 新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎のため、死去。享年70歳。

  • フジテレビ『志村友達』が放映開始。

編集後記

今回のテキストは、雑誌『BALL. VOL.2』(2020年12月8日発行)に執筆したものをもとに、再編集したものです。
久々の更新となってしまって、もはや何が「旬報」なのかわかりませんが、細々と、川や土地にまつわるよもやま話を取り上げていきたいと思います(編集:安藤)。

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