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特集:多摩川が出てくる作品①(多摩川旬報221001号)

笠取山に端を発し、複数の通勤電車を横目に蛇行しながらベッドタウンを抜けていく多摩川。海へと注ぐ河口部から先を見送れば羽田空港から飛び立つ飛行機も見えます。
河川は人々の生活に欠かせない存在ですが、多摩川は特に東京近郊を流れることから、都市やその周辺の暮らしを映しとる役割を担わされたりします。
映画や小説、マンガ、ドラマにミュージックビデオなど、多摩川の登場する作品は枚挙に暇がありませんが、そこではどのように描かれているでしょうか。
今回はまず、多摩川が出てくる作品というか、多摩川そのものを体現しているような作品を3つほどピックアップしようと思います。

岸辺のアルバム(1977年・TBS)

1974年の多摩川水害(狛江水害)を題材にとったホームドラマ。
マイホームが多摩川に流されるオープニングから始まります。74年の多摩川水害の、実際の報道映像を使用しているそうです。

1970年の国勢調査では、自らの生活程度を「中流」とする回答が9割に及んだといいます。いわゆる一億総中流社会と呼ばれる時代真っ只中の作品ですが、『岸辺のアルバム』が突き付けたのは普通の家庭の内実です。

多摩川中流域に居を構えた中流家庭。どこにでもある幸せそうな「普通の家庭」には、しかし目を凝らせばあらゆるヒビが入っている。
いつもおとなしい、のどかな風景の一部でしかなかったはずの多摩川が、大雨の拍子に牙を向いてマイホームを流し去る。
普通の幸せというのが、よく見れば常にグラグラな場所に立っていることを突き付ける「辛口ホームドラマ」でした。

ちなみにこのときの水害は、外水氾濫、つまり堤防の決壊による洪水です。
74年9月1日未明から降り注いだ雨は、2日に二ヶ領宿河原堰の左岸側を破壊し、狛江市内の民家19戸を流し去りました。
市中に溢れた水を多摩川に押し戻すため、2日午後に宿河原堰の固定部を爆破しますが、そこから濁流を戻すにはさらに2日かかりました。9月4日までに合計13回の爆破を行い、ようやく流れを変えることができたと言います。
決壊した二ヶ領宿河原堰は、1995年から改修工事が始まり、1999年に現在の形になりました。

無能の人(1985~86年・つげ義春)

シュルレアリスム的手法をマンガに持ち込んだ『ねじ式』(1968年)以降、想定外の評価と注目(と収入)を集めたつげ義春は、厭世的、隠遁的な心情を作品に投影させていったと言われています。
1970年に調布に移り住んでから、マンガ以外の事業を立ち上げようともがいた時期はあったようです。そんな心情を半分映しとった『無能の人』シリーズの主人公・助川助三は、なんと石を売り始めます。それも、骨董的価値のある珍しい石ではなく、多摩川の中流域に転がっている石を、自らの美的感覚で見立て、値段をつけて売る、という具合です。

彼は妻の前で、生活のためにできるのが「石を売る」ことなのだと熱弁していますが、実のところ生活そのものを疎ましく感じていて、日常から遊離した場所に身を置いておきたいだけなのだということがわかってきます。
妻や子供という家庭の人々は、つまり生活そのものであり、気の毒なことに奥さんは常にガミガミ小うるさいことを言い連ねる存在として描かれます。
同時に、彼にとっての「仕事」とは、家庭という生活から逃れるための口実であり、だからそれは「石を売る」という奇妙な事業に結実し、多摩川河原の掘っ立て小屋で石を並べることになります。

『ねじ式』もつげにとっては思わぬ注目を集めた作品でしたが、おそらくこの『無能の人』など一連の隠遁的作品も、つげの意図を超えたところで人気を博した作品ではないかと思います。
この作品がなぜここまで広く受け入れられたのかについては議論の余地は大いにありますが、個人的にこれらは90年代の「普通=ダサい」といった自意識に一直線につながる感覚のように思えてなりません。
意図せざるブレイクと自分の立ち位置の間にバランスが取れなくなっていく、というのは、つげ義春に少し遅れる形で、日本社会がその後経験することになったからです。

蟹の惑星/東京干潟(2019年・村上浩康)

多摩川河口部にある干潟そのものを描くドキュメンタリー。
この二つの作品は、全く同時進行で制作された双子のような作品です。

蟹の惑星

多摩川の干潟は、その小さな範囲に関わらず、多くの種類の蟹が生息する希少な場所なのだそう。
ここで蟹を15年以上観察する吉田唯吉さんの語りに載せて、蟹と多摩川、ひいては地球の関係が一気に描かれる作品で、おそらく主人公はストレートに蟹だと思います。

蟹にあって人間にないものはたくさんありますが、なかでも人間では絶対に撮れないドラマのひとつに、脱皮があります。
人間の場合は内面的ないし象徴的にしか描けないものが、蟹だと具体的な行為として顕れてしまいます。同時に、そんな脱皮の直後、いとも簡単に命を奪われてしまう様子まで描けてしまうことに、シンプルに感動さえ覚えます。
脱皮直後に他の蟹の餌食になってしまうシーンはかなりのゴア表現ではあるものの、「ソフトシェルクラブってたしかにおいしいからなあ」と感覚できる自分もいて、否応なく人間である自分を突き付けられる思いです。

東京干潟

シジミを獲り、干潟の掘っ立て小屋で猫と暮らす老人を主人公に、多摩川という都市河川の最下流に広がる空間を描きます。
シジミをめぐる環境は、この10年ほどで大きく変わってきているようで、1時間も掘れば10キロも採れたところ、4時間かけても7キロほどにしかならないと嘆くおじいさんの姿が印象的です。劇中、シジミはさらに採れなくなっていきます。
背景には漁業事業者の参入による乱獲などが指摘されますが、物語途中からは、ついにオリンピック2020東京大会に向けた土木工事さえ始まり、希少な干潟ごと、物理的に縮小していく様子が映っています。

干潟のある多摩川河口部には、あらゆるものが流れてきて、堆積します。ごみや物はもちろん、猫も捨てられていき、よくよく話を聞けば、干潟の老人その人もまた、あらゆる場所を流れてたどり着いたことがわかってきます。
ラストは台風によって増水した上流のダムが放流を開始し、その水までもが干潟に流れ込むところで、この作品は収束していきます。

個人的な感想はたくさんあるのですが、音楽の使い方がとても面白く、まずはそこについてメモしておきたいと思います。
あるシークエンスでの祭囃子のリフレインはちょっとすごく、「ここ」と「向こう」、「日常」と「非日常」の境界が崩れそうになる感覚を刺激され、一種の恍惚にも近い興奮とこの世の終わりのようなカタルシスを覚えます。
また、細かいところで個人的に気になったのはタイの東北部の音楽、モーラムのような音楽が流れているところです。多摩川干潟のおじいさんの生活を、メコン川周辺の水辺の生活になぞらえているのかな、とか色々なことを考えてしまいました。

最後にもうひとつメモを付け加えれば、多摩川とオリンピックというと、私などは砂利採掘の話が真っ先に思い浮かびます。
近代都市東京の建設のために、東京近郊の河川では砂利の採掘が活発化します。多摩川の砂利乱獲は、周辺の鉄道事業の発展などにも寄与しますが、いまの西武多摩川線近辺の川床にも大きな穴をあけました。多摩川競艇場のことです。当然、流路や流速にも変化があったでしょうし、水面下の生態系もいまとは大きく異なるものだったでしょう。多摩川での砂利採掘が全面禁止となるのは1965年。つまり東京オリンピックが終わるまで、多摩川は東京の砂利採掘場と見なされていたのでした。
『東京干潟』において、2020年東京大会の兆しが出るや否や、再び多摩川には重機が押し入り、干潟を削っていく様子が描かれています。

編集後記

『岸辺のアルバム』の時代、多くの人は多摩川を、「普通」の川として飼いならしたと思っていたかもしれません。だから突如として牙を向いた多摩川の姿を、「豹変」と捉え、大きなショックを受けたのではないでしょうか。
多摩川は実際には、その水面下にあらゆる変化を湛えていて、「普通」を相対化してしまう存在でさえあります。つげ義春はその気配にいち早く気づき、河原の石に日常生活から零れ落ちる豊かさを見出しました。
90年代に入り、つげの延長線上には「普通=ダサい」という自意識も芽生えたものですが、その後の20年以上にわたる格差の拡大によって、再び「普通」はステイタスになってきたようにさえ思います。
「タワマン文学」というのが一部で流行っています。幸せそうな誰かを徹底的に真似て「幸せな何かの一員になってみせる」様子を、一種露悪的に描く文章のことです。ある階層の中の「普通」に自らを収めることこそがステイタスである、という自意識が主題として扱われています。
タワマン文学から垣間見えるのは、自分なりに価値を創ったり見出したりすることをはなから諦める、想像力の乏しさと無気力です。それは例えば、1964年の東京を無理やり再現しようとしたり、バブル期のビルの乱立を再現したりという場面にも、つい感じてしまうものです。結果、多摩川河口部で、シジミを獲って生計を立てる人の目の前で、平気でクレーンを動かしてしまうという、極めて残酷な事態が起きてしまいます。
日々の変化に富む多摩川を無視し、多摩川を再び「普通」の変哲のない川として飼いならそうとする想像力の乏しさが、干潟を何度でも削り、そこに暮らす者たちを脅かすのではないか。
多摩川を扱った作品の変遷を見て、ついそんなことを考えてしまいました。
2019年、台風19号による被害は、規模だけで言えば実は狛江水害よりも大きかったと言えます。
内水氾濫のせいでエレベータが動かなくなったタワマンを見上げ、半端な高層階の自室に急激に興味を失いながら、グーグルフォトの中身を駅前で確認する……。そんなタワマン文学のひとつも出て来ないのが、いまどきの想像力なのかもしれません。(編集:安藤)


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