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僕たちの奇祭~都知事選と講談と~


 

1.奇祭としての講談


 講談というのは閉じられた場所で強い芸能である。
例えば今盛んに僕が語っている水曜どうでしょうというテレビ番組を題材に採った『水曜どうでしょう講談』などはその最たるものであるし、今ぐっと力を入れつつある『政治講談』『選挙講談』の類も、政治好き、選挙好きの少数派の、しかしある程度数はいるというお客様を集めて政治選挙講談をする、というものだ。

 師匠がよくやられる、その土地の物語をその土地を訪れてその土地の人に聴いてもらう、というのもそうだろう。
同期の旭堂南歩君がやっている、結婚式や還暦、退職パーティでのその会の主役の人の人生を講談で語る『ヒューマン講談』もそういうたぐいのものだろうと思う。

 それらが好きな人は面白い、というということろをふんだんに入れ、閉じられた場所であるということを理解し留意し利用しながら台本を書いてパフォーマンスを考える。

 閉じられた空間で講談の盛り上げる力、熱気を生む力、いわば「寿ぎ力」はものすごいものがある。し、講談にはそれをどこでもやれる小回りの力もある。そういう意味では本当にいろんな人に喜んでもらえる芸能だ。頑張ろう講談師。

 まあしかしそのそれぞれの閉じられた空間、これをまったくの部外者が見ると気色が悪いのかもしれない、と思う。
『水曜どうでしょう講談』なんて、もう水曜どうでしょうの名セリフでもなんでもない「生成二年の二月の八日」という僕の誕生日を言うだけで客席から「よっ」「玉山」と大向こうがかかるのだ。
はっきり言って客観的にみるとわけがわからん。
水曜どうでしょうを観たことのない人、初めて見た人の動揺を誘う盛り上がりとなっている。
もっとあけすけに言うと、気持ち悪い。

 閉じられた講談というのはそうなのだ。外から見るとわからない、怖い、演者も観客もあほみたいに見える、というところがある。
しかし閉じているからこそ面白いわけで、閉じられている場所の外におもねる必要は僕はまったくないと思う。
その場はどんどんあほみたいにきもちわるくなって僕たちは幸福になってくべきだ。

 そういうある種の閉じられた「奇祭」をいくつか携えつつ活動をする、そして社会と相対していくのが、これからの講談の命脈をつなげていくのにはその特性上役立つのだろう、と僕は思っている。
 

2.奇祭としての選挙戦


 さて、今回の東京都知事選も奇祭であった。いや、正確に言えば、当選をした現職以外、それぞれの場所で大なり小なり奇祭の様相を呈していた。

 政治家もある種人を盛り上げるプロであるから、各陣営の各奇祭、大変盛り上がっていたように見うけられる。少なくとも僕が漫遊し、見て回った候補、盛り上がりを見せている場合が大変多かった。

 おそらくそれぞれ現場、保守革新リベラル排外主義弱者男性陰謀論界隈…では各々が各々に魂を震わせて、心から応援し、戦ったのだと思う。それぞれに心の充実があったろう、横同士での魂の触れ合いがあったろう。それは実に素晴らしいことだ。
 
 しかしこれは選挙。都知事選という日本一厳しい小選挙区制選挙である。選挙は多数決である。
伝説の都知事選立候補者、政見放送の終わりの始まりを告げたファシスト外山恒一(ややこしいな。詳しくはウィキを。いや、みてもわからんといえばわからんのだがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E6%81%92%E4%B8%80)2007年の都知事選政見放送(https://youtu.be/P0Omi6wnqsQ?feature=shared)で言っている

「選挙なんてしょせん多数決なんだから、多数決をやったら多数派が勝つにきまっているじゃないか」


早すぎる進次郎構文。しかし進次郎的トートロジーに見えてこれは一個の真理であろう。

そうなると奇祭というのは厳しいのだ。
奇祭というのは「少数派によって行われる少数派のために行われる祭」であるから、関係のない周りの人間からは奇異の目でみられる。よって奇祭なのである。
本物の祭ならば、かなまら祭にしろ蘇民祭にしろその奇異さにこそ価値がある。限られた場所で行われる奇異な祭であるからこそ、文化的な価値があり、物見遊山の対象になる。
しかし選挙は多数決。多数派が勝つ多数決である。
であるから選挙が奇祭になった時点で負けなのである。
もちろん参議院東京選挙区など、大勢当選する選挙ならば奇祭を際限なく盛り上げていくというのはありだろう。
しかし当選者一人の小選挙区制、奇祭をしていては勝てないのだ。
それが今回僕にはよくわかった。
 
 例えば今回各街角で「一人街宣」というのが行われた。これは蓮舫陣営が主に行っていたようである。一人で街角に立って、プラカードを掲げて投票を呼び掛けるのである。
僕自身はそれらの人々をみて「うわあ、奇妙だあ」とは思わない。「暑い中頑張っているな」「蓮舫に当選してほしいんだな」と思う。
政治が好きで、出馬している候補の演説はできるだけ聴こう、というメンタリティをたまたま持っている為にその流れで抵抗なく受け入れられるんだろう。
ほかの陣営の支持者が同じ行動をとっていても、同じように思うだろう。まあ、だからといってその候補に投票するかどうかはわからないが。

 しかしそれをやっている人間というのは都民のうちいったい何人か、と考えると、おそらくごく少数だ。大多数がそんなことは行わない。
行わない人からするとなかなか文脈がわからない。民主主義的に考えると有権者一人一人が選挙に参加する、ということは正しいことかもしれぬ。しかしそういう文脈は別に誰から教えてもらえるものでもない。

そうなると一人街宣は「文脈はわからないが珍奇な行動をとっている人」ということになり、それはもう奇祭である。

 いわば多数派を外に置く行為になる。
そしてあけすけに言うと「きもちわるい」という認識になる。

 これは桜井誠陣営が韓国大使館前で排外演説を行ったり、NHKから国民を守る党がポスター掲示場をジャックしたり、いくつかの陣営が開票完了後、さっそく不正選挙を疑いはじめている、というのも同じであろう。
多数派に「きもちわるい」と思われる行為である。
やってる当人たちには理屈も気持ちもあるけれど、多数派からみるととにかく奇異なのだ。

 やっているほうは連帯も魂の共鳴もあるから、大変楽しいと思う。戦いである、ということを考えると逆境であればあるほど盛り上がり、より楽しいのかもしれない。しかしそれは閉じているから楽しいのである。

 僕にはそれがよくわかる。もはや閉じれば閉じるほど楽しいし、盛り上がるのだ。
水曜どうでしょう講談だって、ただ有名な場面をやるよりも「平成二年の二月の八日」という僕の誕生日、もっと言えば「丸山良成」なんていうわが父の本名で「よ」と声が上がる。
こういう状況になったほうが異常で(外からどう見えるかはどもかく)現場は面白おかしいし、みんなが楽しい。
 
 
 が、選挙である。先ほども書いたように、多数決をしたら多数派が勝つ。
都知事選は一番票を取った一人しか勝利を得ることはできない。
 そんな時に、閉じる、楽しく奇祭をやる、というのは勝利からはやはり遠のくものであろう、と思う。

3.多数決と奇祭 


 僕も講談師生活において奇祭に活路を見出している人間だから、奇祭などはせず多数派の心をつかむ方法。というのはよくわからない。
わかるのはN国や排外主義の団体、ある種の左派集団は奇祭メンタルなのだ、ということだ。
ハナから奇祭の盛り上がりを目指している。勝利というより、奇祭による盛り上がりを何かにつなげようと、その奇祭の土台として選挙を利用している。
 
 しかし、大きな選択肢になるべくして出馬した候補が奇祭をする、多数派を取りにきている人々が奇祭に走るのはどうだろう。
失敗としか言いようがない。自ら多数を手放し奇祭に走る、というのは。

 そう考えると今回の選挙、もしかすると候補者の資質は関係なく、蓮舫陣営より、石丸陣営のほうが現場に奇祭みはなかったのかもしれない。そういう結果が出た選挙だったのかもしれない。
 (まあ、自治体首長を一期でやめて、即別の自治体首長に出馬した、という候補者、いわば神輿を自治体首長の選挙で担ぐ、というのは神輿の正当性としてかなり奇祭じみている、と個人的には思うが)

 少数派が多数決で多数派に勝つ。ナンセンスな話である。が、もしそれを実現しようと思えば、やはり多数派にとって受け入れやすい形で多数派を切り崩していくことが大事であろう。

 友達を増やす。信頼関係を作る。信頼されうる人格を滋養する。じっくりと話をする。利を説く、情に訴える、嫌がられたらやめる。などしか方法がないのだろうとも思う。
恋愛と仕事と政治も同じだ。
だって、恋愛や仕事をしている人が多数派なんだから。
それらを円滑にやっているやり方で、政治も行っていく、というのがやはり一番受け入れやすいことだろう。

 一足飛びにすべてをひっくり返す、なんてことはむつかしいということを肝に銘じてやっていかなければならぬ。
閉じられた大変に気持ちのいい奇祭を行い、多数決に負けて、悔しがりながら「今回も気持ちよかったね」と内心感じ、次の選挙で奇祭をやってまた気持ちよくなっているだけではこの多数決の国では何も変わらない。
 
 だからこの国で、もし何かを変えたい政治で変えたいという人は奇祭を慎むべきである。
気持ちよくて楽しくて、盛り上がれる最高の奇祭。人生の目的にしてもいいくらい気持ちいい奇祭。ではあるけれど、もしも政治で世界を変えることを優先するなら奇祭はやめておいたほうが良い。
だって、奇祭は多数派にはなれないんだから。いや、多数派じゃないから奇祭なんだから。そして多数決は多数派が勝つんだから。

4.それでも奇祭を

 奇祭はやめよう、政治で世界を変えよう。そう決意したあなた。
しかしそれでもあの奇祭の熱狂が忘れられない。そう思うこともあるでしょう。
わかります。よくわかります。

 だから、だからです、いいですか。
奇祭をやるなら、多数決で勝利を得なければならない選挙で、ではなく、何か部屋を取って、秘密裏にぶちあがるべきだと僕は思うのです。

 閉じられた場所で集まって、そこで怪気炎を上げていくべきなのです。
そこに何か芯が欲しい、と思ったら不肖ながらわたくしが、閉じられた空間では最強の力を発揮する講談という芸能をひっさげて、奇祭を盛り上げに伺います。

 多数派を目指す少数派の諸君。右派左派中道リベラル保守陰謀論弱者男性フェミニズム界隈、どの界隈の諸君でも構わない。少しの取材と資料を与えてくれたら大いに盛り上げる講談を作って盛り上げようではないか。
ただ!何せ芸人だから、どこへでも行くのは許してほしい。
(※今回の選挙で排外主義だけはかなり苦手ということがわかりましたから、そういう主張の団体からのお話は断りするかも。ただ、そういうのに向いている講談師は紹介できます。何人かいます)

 社会を変えるのには時間がかかる。地味な作業でおそらく気が狂いそうになる。閉じられた奇祭と講談で、秘密裏に息抜きをしながらやっていこうではありませんか。
そういう力が講談にはあります。ご依頼、お待ちしております。

で、次はもっといい選挙にしような!


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