恐怖の京都、僕は講談師として

先日京都に行った。

聞こえてくる若い女性の会話に、僕は自らの足元が崩れるような、そんな恐怖を感じた。

全く理解ができなかったのだ。

理解ができない、というのは恐ろしいことだ。
言っている意味がわかって「しかし僕の主義とは違うな」だとか「その考え方は初めて知ったけれど、そういう考え方もあるんだね」とか「そんな考えを昔したことがあるな」とかそういうときはあまり恐怖を覚えない。

また、なんだか難しいな、という本を読んだり話を聞いたりしているときも意味をとらえられないときがある。
しかしながら丁寧に考えたり読んだりすれば言葉としての意味はわかってくる。
また、難しくて読む価値がある本、あるいは考え方というのは読み手や聞き手として優秀な人が、わかりやすく説明をしてくれたりもしている場合が多い。
どうしても知りたければそういうものを頼ればいい。

しかしながら全く理解ができず、言っている意味さえわからず、誰に説明を求めていいかわからないときがある。
僕はそういう時に恐怖を覚える。

先日京都で印象に残ったのは2つ。

まずは「明後日ピクニックやから今晩はあんまり食べられへんねん」
だ。

若い女性が若い女性に向かって言っている様子だった。

「明後日ピクニックやから今晩はあんまり食べられへんねん」

明後日ピクニックだったら、明日の食べ過ぎに注意すればいいのではないか。明後日のピクニックに今日から備えるというのか。
どうもおかしい感じがする。

果たして明後日のピクニックに備えるのに今日から準備をし始めなければならないのだろうか。
百歩譲ってレジャーシートや手になじむ水筒を手に入れる、弁当に入れるサンドイッチの具を勘案するなどの準備ならばわかる。

しかし彼女はもっぱら明後日のピクニックに向けて「食事制限」をしなければならないという口ぶりであった。

そりゃあもちろんボクシングの計量があるだとか、グラビア撮影があるとか、そういうことならば前々日から食事等に制限をかけて準備に入るのはわかる。

でも彼女の相手はピクニックだ。

果たして前々日から食事制限をかける必要があるのだろうか。
ピクニックという素晴らしい、愉快な腑抜けた用事への食事制限はせいぜい前日からでいいのではないか。

というより大体がピクニックに食事制限が必要だろうか。

例えば食事を制限して精神を研ぎ澄まし、体重を落とさないとも進んでいけない、という場所に行くとするならばそれはもうピクニックではなく探検冒険登山合戦の類だろう。

仮に翌日ピクニックだったからと言って焼肉なりつけ麺なりを食べてはいけないということがあるだろうか。
読者の皆さんも想像してみてほしい。
それらを食べたところでピクニックの魅力、豊かさ、夢が失われることはないと思うのだが。

いや、むしろ明後日ピクニックなのだ。
ピクニックは丘や原野を歩き回るもの。しかも気の合う仲間としゃべりながら、ということが多い。
しゃべりながら歩いていつもよりもずいぶんな距離を歩く、ということは確実だろう。

つまりピクニックが控えているのだから、今晩はいつもより多量に食べたっていいところなのだ。

彼女が「明後日ピクニックやから、今日はパンを好きなだけ食べよう」などと言っていたら僕だって「パンを好きなだけ食べるだなんて、豪奢だな」とは思うにしろ、「ピクニックの運動量を期待してのことだろう」と納得、何の引っ掛かりもなかっただろう。
しかし彼女は逆だった。
「明後日ピクニックやから今晩はあんまり食べられへんねん」と確かに言った。
一体どういう意味なのか、足元が崩れるような恐怖だった。

僕も31歳。おじさんだ。
世の中の変化についていけていないのかもしれない。
こうして人は若い者を理解できず、年老いて嫌われ者になっていくのだと思うと寂しい。
いくら考えても理解ができないことの悲しさがある。

もう一つは理解できない、というか、この社会というものが僕の認識している像とずれがあるのではないか、と己の理解を疑う一言だった。

「関西でグレネードランチャー撃てるところないからなあ」

である。

これは京都観光をしている様子の着物姿の若い女性二人が話をしていた。

どうしても理解できない。

いや、もちろん「関西でグレネードランチャーが撃てるところがない」ということは理解ができる。

だって関西でグレネードランチャーが撃てるところは無いもの。
そんなことをしたら大変なことになる。
それくらいは僕にもわかる。

でも「関西で」と言っているところを見ると、まるで中部や関東北陸にはグレネードランチャーが撃てる場所があるみたいじゃないか。

そりゃあもちろん世界中にはグレネードランチャーを撃てる場所もあるだろう。

しかしそれは戦乱激しい国のことだろう。悲しいかな戦乱が起こるとグレネードランチャーを撃ってもよい感じになってしまう。

しかし世界と比較するならば
「日本でグレネードランチャーを撃てるところないからなあ」
で良いはずである。

関西と限定しているからには日本のどこか関西以外にはグレネードランチャーを撃てる場所があるのだ。そんなことは、そんな日本になっているとは、僕は知らなかった。

そして「グレネードランチャーを撃てるところないからなあ」というのはグレネードランチャーを撃ちたい、あるいは撃ったことのある人の言いぐさだ。

撃ちたい気持ち、これは理解ができる。
僕もグレネードランチャーですべてを雲散霧消させたいな、という気持ちになることがある。

しかしながら、我が世の春、という感じで京都観光を着物で楽しんでいる若い女二人連れさえそんな欲求を持っている、ということは理解がしがたいのだ。
彼女たちは何をぶっぱなしたいのだろうか。
若い女の話に聞き耳を立てている僕のような男たちだろうか。
だとしたら本当に申し訳ないな、と思う。
でも彼女たちはグレネードランチャーを撃てない。

だってここは関西。グレネードランチャーを撃てる場所は無いのだ。

僕も関西以東へはできるだけ行かないようにしようと思う。

多分関西超えて関ケ原とかをピクニックしていたらグレネードランチャーで撃たれるのだ。

ふむ。
そう考えると、ピクニックの前々日から食事を抜いておくと、消化器官が空っぽになって撃たれた後の片づけが少し楽になるかもしれないな。

あの若い女はそこまで考えて前々日から食事を…。
そんな覚悟が決めてまでピクニックをしようとおう若い女を誰が狙うというのだ。
きっと何もうまくいかずにやけくそになった僕のような人間に違いないぞ。

そんな奴は着物の二人に始末をしてもらわなければならないぞ。
その時こそグレネードランチャーを撃つ時だ。

いつの間にか日本は変わってしまった。
ピクニックしていたらグレネードランチャーでぶっ飛ばされる時代になってしまった。

変わってしまった日本で僕は講談師としてどうやって生きていったらいいんだろうか。

自分は講談師として社会はどうやって結びついたらいいのだろうか。

講談師3年目らしい、社会性のある悩みを僕も持ち始めることができた。

立川文庫のお稽古をしっかりしようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?