どこに気づくか
気づいていることの多さ。
それが人生の豊かさに比例しているのでは…。
そんなことを思った。
朝から信じられないぐらい悲しい訃報を受け取った。
喪失感があまりにも大きすぎて、油断すると仕事中であろが、自転車で移動中であろうが、一瞬でも気が緩むと容赦なく涙がこぼれそうだった。
このタイミングで…その日は母の誕生日でもあった。
わたし個人の世界の中で生と死が入り乱れる日。
心は数分毎に色んな所に置きながらも母の誕生日にはお祝いに駆けつけてケーキで祝った。
実家からの帰り道、ふとした瞬間に途端に喪失感に飲み込まれる。
そして生かされている自分の命について考えずにはいれなかった。
自分だけでなく、色々ありながも近くで家族をしてくれている子ども達主人にも思いが続く。
ただ生がある。
それがどんな状況下でも眩しいものなのだ。
現実は、逃避したいこが進行形であるはある。
ただ、それですら体験出来るのは生きているのが大前提で…。
命が、肉体が、消えてしまったら、
どんな感情であったとしても自分の中を走らすことはもう叶わない。
喪失感を経てからその尊さに気がつくのはあまりにも傲慢だ。
生きているのではなく、生かされている。
後者の思いが膨らむと気づきが溢れる。
家族の喜べない振る舞いに微塵もムッとし無かった。
仕事で失敗続きの私をさりげなく励まそうとしてくれる先輩の優しさがハッキリと見えた。
体が動く便利さにしこたま感謝が芽生えた。
あれもこれもにどうも、どうもありがとう。
失う前に気づける人でありたい。
この命を持って。
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