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先の見えない世界の先に、この”繋がり”を連れてゆくよ──9mm Parabellum Bullet「白夜の日々」がくれた未来への約束

 2020年。この混迷を極めた1年間を、あなたはいったい何をよりどころに生き抜いただろうか。
 正直、本当にひどい1年だったと思う。ひとまずこの年の瀬まで辿り着いた皆さん一人ひとりと、とにかくお疲れさま、よくここまで頑張って生き抜きました、とねぎらい合いたい気持ちになるくらいには。
 けれどもきっと、そんな年じゃなければ出会うことのできなかった、心を揺さぶる作品も確かにあったのだ。今回は、私にとってまさにそういう「2020年の記念碑」のような存在になった、9mm Parabellum Bullet「白夜の日々」について、その詞世界を中心に書き記したいと思う。

”君に会えなくなって 100年くらい経つけど 思い出せなくなってしまえば楽になれるの”
”日が沈まなくなった 白夜の街は今夜も 悪い出来事なんてどこにもない気がしたよ”
”空は澄み切って 嘘みたいなんだ”

 緊急事態宣言下の東京の、圧倒的な街のしずけさ。見渡す限りに広がる、美しい青空。
 けれども同じ空の下で、世界が一変する事態が起きているという事実、そして会いにゆくはずだった人達と、遠く切り離されてしまったような心地。
 今までと地続きの現実の上にいるはずなのに、突如別の、がらんどうな場所に放り込まれたような気分に立ちすくむ──それがまずこの曲を聴いて最初に、漠然と浮かんだイメージだった。

 現状を悲観する言葉ではなく、ただそこには茫漠とした戸惑いがあった。それは、世界が大変なことになっているのはわかっているのに、いま目にしている景色はこんなにも美しい、というものだ。
 「会えなくなって100年」「日が沈まなくなった白夜の街」という、どこか現実と切り離されたような幻想的なフレーズもまた、実感できる目の前の美しさと、実感のない非常事態が進行する現実とのあいだに、宙ぶらりんのまま、取り残されているような感覚に陥らせた。
 実感が、伴わないのだ。澄みわたる青空の変わらない美しさが、戸惑いと、しずかな苦悩とを浮き彫りにする。こんな状態で、果たして何を言葉にすれば良いのか、いったいどんな言葉なら、空虚にならず、重さを伴って、それを待つ人たちのもとへ届いてくれるのか──
 もちろんこの歌詞が、明確にその苦悩自体を描いているわけではない。けれども私はこの「白夜の日々」の冒頭が、そうした感情を出発点として、書き始められたものに思えてならないのだ。 

 と、ここまで書いてきたのだが、実のところ私自身、今現在の卓郎さん(注:9mmのVo&Gtにして、楽曲のほぼ全ての作詞を担当する菅原卓郎氏のこと。以下文中でも同様に表記させて頂く)ほど、「苦悩にとらわれること」のない人はいないと思っている。
 ここできちんと声を大にして言いたいのは、断じて「苦悩を知らないお気楽な人」ではないということだ。そうではない。「苦悩しないこと」と「苦悩にとらわれないこと」には大きな違いがある。
 そして後者は、苦悩というものを良く知っているからこそ──ひとつの物事にとらわれて、それ以外の大事な物事が見えなくなる危険性を知っているからこそ、その暗いぬかるみに足を取られないように自らを律する、ということだと思う。
 もっとも卓郎さんという人は、「律する」という言葉のストイックさを感じさせないほど、素敵な穏やかさを保ったままで、それをやってのけているようにも見えるのだけど(でもこういった状況下で、そうした穏やかさを保てること自体が、凄くストイックな事なのではないかとも思う)。
 そしてその状態で、目の前の現実と向き合う。苦悩の中に身を置かずに、そこから出来る限り自分を切り離して見つめ、その先に自分だけの答えを見出そうとする。
 彼の言葉には、いつもそういった”静かなまなざし”を感じるし、今回の「白夜の日々」もまた、そのまなざしをもって書かれたものではないかと思う。

 卓郎さんは、冒頭の言葉が思い浮かんだのをきっかけに手紙を綴るようにこの歌詞を書いた、とおっしゃっていた。
 それは、突然会えなくなり、そして次いつ会えるかもわからない人たちへの手紙であるとともに、このコロナ禍において、はたしてどの方向に言葉や心を向けるべきなのかを、解き明かす道程そのものだったのではないか、と感じている。
 手紙を書くということは、それを宛てた相手への想いを通して、自らの置かれた状況や心を見つめ、言葉に変えて整理し、道筋を見出してゆく行為だと思う。そうして辿り着いた言葉こそがあの「君に会いにいくよ」だったのではないか。
 今伝えたい、今こそ伝えるべき思いを、その一言の中に見出したのではないか。

”いつか当たり前のような日々に流されて すべて忘れても”
”いつも当たり前じゃない日々ばかりだよって 答えひとつ持って”
”君に会いに行くよ”

「君に会いに行くよ」──まさしくこの歌を象徴するフレーズであるけれど、それ自体はもちろん、誰の手垢も付いていない真新しい表現ではない。とてもシンプルで、ありふれた言葉ですらある。
 にも関わらず、それは鮮やかに私の胸を打った。
 私にはこの言葉が、全てが変わり、当たり前が当たり前でなくなり、当たり前でないことが当たり前になってしまった現実と、とことん向かい合った末に辿り着いた決意のように思えた。そこには、例え100年の歳月が流れ、世界がどんなに変わっても、決して風化しないものだと信じられる強さがあった。
 そしてそれは、辿り着くまでの心の道程を、歌詞の中にきちんと感じさせてくれるからではないか、と思うのだ。その過程のないポジティブな言葉では、虚しく響いてしまうだけ、ということを、恐らく卓郎さんは良くわかっていらっしゃるのではないかと思う。

 冒頭で私は、この歌詞が、今の現状における「実感の伴わなさ」に対する戸惑いや苦悩を出発点として書かれたものではないか、と記した。
 実感の伴わなさ。それを自覚することは、実はとても大切なことだと思っている。おこがましいことを百も承知で言えば、あの時期、それに向き合わず、わかったような気になって書かれた文章が、決して少なくはなかったと感じる。あるいはこういった状況下で、早く何かを感じ取って表明しなくては、と躍起になってしまうものも。
 ……なんて、本当に私にはこんなことを言う資格はないし、それらが間違っているとも絶対に言わない。けれども思うのだ。そこで一度立ち止まり、無力感を自覚するところから始めることでしか、辿り着けなかった言葉も確かに存在するのではないかと。
 だからきっとこの歌詞は、初めから「君に会いに行く」という言葉を目標として書かれたわけではない。それは先の見えない暗がりのような現実を、相対する自分の心だけを灯火に進み続けて、その果てにようやく手にした言葉だったのだ。

 緊急事態宣言が明けた後の7月の配信ライブで、初めてこの曲が披露された時、私はわけもわからぬまま涙してしまった。
 それはきっと、そうやって心を砕いて辿り着いた答えが、バンドと私たち9mmを愛する聴き手との「繋がり」を、今一度かたく結び直してくれるものだったからなのだと思う。

 明日のこともわからない世界だけれど、この繋がりだけは必ず未来に持っていくよ、と。そう約束してくれたように思えるからなのだと。

 その時の感情を、単純に嬉しい、だけで済ませることは出来なかった。こんな宝物のような言葉を貰ってしまって、一体どうしたら良いんだろう、という感慨で、胸がいっぱいになってしまったからだ。
 そして眩さのあまりに立ち尽くしてしまうような、得も言われぬ感情に胸のすみずみまでを浸された瞬間、ふいにこの曲の持つ「空」の光景が、冒頭で描かれていたものとは、はっきりと違う表情を見せたのだ。

”空は澄み切って 眩しすぎるんだ”

 9mmは、その楽曲の殆どが作曲先行である。だからなのか、歌詞が”曲そのものが持つ情景”の範疇を逸脱してまで、伝えたいメッセージを優先するということが、あまりないように思う。
 この曲もそうだ。例えば何度も出てくる印象的な「澄み切った空」の光景は、実は歌詞が付く前の、すでに作られていた音楽そのものが持っていた情景でもあったのではないか、と感じている。
 曲そのものが持つ声も、そしてこの状況下で見出した自身の心の声も、どちらも大切に聞き届けて、書き記してくれたこと。それもこの曲が、私の中で大事な存在であり続ける理由だ。だから、もしこの文章に目を留め、ここまで読んでくださった方の中に、まだ楽曲そのものを聴いたことがない人がいれば、ぜひ一度耳にしてほしい。
 歌詞は音楽を引き立て、音楽は歌詞を引き立てる。その交わりに耳を澄ませれば、あなたの心にしか出せない色の「澄み切った空」が、きっと胸に広がってくるはずだ。 


「白夜の日々」は、間違いなくこの2020年でなければ生まれ得ぬものだったし、そして間違いなくこの2020年の、私の心のよりどころであり続けた。来年以降も、世界がどうなるかなんてさっぱりわからないけれど、私は彼らがくれた約束を胸に、先の見えない世界の先まで生き延びて、いつか必ず、また彼らに会いに行こうと思う。

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