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「未来」を、太く、長く継続させること

実家での正月休みを終えて、マンションへ帰宅途中。それはきんと冷たい夜だった。交差点の片隅には、小さな花束が2つ置かれていた。年末にはもっとたくさんあった花束は姿を消し、たった2つの花束が身を寄せ合うようにしてそっと並んでいた。

2018年は終わり、2019年が始まった。

その光景はなんだかとても寂しくて、目がじわりと熱くなった。

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それは昨年、クリスマスを目前にしたある日の昼下がりだった。私の家のすぐ近く、毎日通るその交差点で、小学生の女の子が車にひかれて亡くなった。
交差点のすぐ目の前には小学校がある。事実は知らないけれど、99%そこの小学生だったのだろう。

私は、その交差点を渡るたびに、グラウンドを元気に走り回る小学生たちを目にしていたから、あの小さな集団から、ひとつの命が消えてしまったなんて、信じられらなかった。

事故の翌日には、大量の花束が道の片隅に置かれていた。

街は、クリスマスに向けてにぎわっていた。サンタクロースだって、もう彼女のプレゼントを準備していたことだろう。正月には、彼女を待ちぼうけにしている、おじいちゃんおばあちゃんに会う予定だっただろう。

もちろん、それは私の想像で、誰もがそんな典型的な家庭で育っているわけではないけれど、あの花束の数は、彼女が数多くの人間に愛されていたことを物語っていた。

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私は2018年、体調不良に悩まされ、正直苦しいことも多かった。

でも大晦日、知人からこんなメッセージをいただいて、とても嬉しかった。

「2018年は今日で終わり、2019年がよい年になりますように」

あぁ、そうか。苦しかった2018年は今日で終わり。2019年がどんなふうになるかは、まだわからない。きっとうまくいく、きっと幸せになれる。希望をもてるのが「未来」の素晴らしさだ。

でも、彼女は「未来」を絶たされた。

年を越すと同時に、道ばたからなくなった大量の花束。替わりに置かれた2つの花束。
花束を置いた人たちは、2018年を終えて2019年をスタートした。彼女を失った悲しみを抱えながらも、新しい年を迎えた。でも、彼女に2019年はやってこない。

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「生きる」ということについて考えさせられる年明けだった。

以前の私だったら、「彼女の分も、命ある私は、一分一秒もムダにせず頑張りたい」と思ったことだろう。

でも、昨年に体調を崩したこともあり、今の私は、これが必ずしも正しくないことも知っている。
もちろん、「精一杯生きる」人生でありたいとは、いつも思っている。ただそれは、「一分一秒もムダにせず頑張る」こととは少し違う。

ありがたいことに、私には命がある。幸せになる可能性をもった未来がある。
その命を、未来を、太く・長く継続するために、時に休んだりムリをしないことが必要だ、と今ならわかる。

だから、今年の私は、2019年を迎えられたことに感謝しつつ、「ムリしない」を大事にしたい。それは、命ある者が、命をムダにしないために必要なことだから。

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