妖怪「褒メラレタ〜イ」と生きる
先日、友人の披露宴に出席すると、席次表に新郎新婦プロフィールが載っていた。「相手の好きなところ」という欄を見ると、こう書いてあった。
「褒めてくれるところ」
斬新だ……!と笑ったと同時に、なんだかすごく腑に落ちる感じがあって「あぁ、わかる」と思った。そして、この一言に、どんな素敵な性格にも勝る「無敵さ」を感じた。
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わたしが小学生だった頃、友だちのお母さんが「ぴょん吉ちゃんは、本当にピアノが上手だね〜」とか「ぴょん吉ちゃんは、ちゃんと勉強して偉いのね〜」と言ってくれることが度々あった。
そんなとき、わたしの母は、わたしの前で言うのだ。「全然そんなことないのよ。ぴょん吉には、◯◯ちゃんみたいにピアノのテクニックがあるわけじゃないし」とか「ぴょん吉は要領が悪いから、勉強しないと◯◯ちゃんみたいな点数はとれないから」と。
「わたし褒めてもらったのに、何でお母さんはわたしのダメなとこばっかり言うの?」とわたしが聞くと、「他人には謙虚であるべきよ」と母は言った。それが母の美徳だった。
こういう些細なところから、自己肯定感というのはすり減っていくんだろう。わたしはあまり手のかからない子どもだったと思うけど、振り返れば親に褒められた記憶があまりない。
代わりに周りの大人が褒めてくれたけど、それをわたしの母が「でもうちの子は……」と一つずつ潰していった。
もちろん、他人の前で我が子を自慢する親バカになりたくない、という気持ちはわかる。だけど、それと「褒められた部分を否定して、ダメな部分を掘り出す」のは全然違う。
大きくなった今、誰かに褒められても「でもわたしは……」「でもみんなはもっと……」って、わたしの脳は自動的にそう動くようになってしまった。
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「ぴょん吉ちゃんは、何でそんなに自分に自信がないの?」
と、今の会社で何度言われたことだろう。そんなこと、こっちが聞きたいわ、と何度思ったことだろう。
今の会社には、あまり人を褒めるという文化がない。というのも、みんな純粋に自分の好きなことを追求しているから、他人からの評価に執着していないのだ。
自分が好きなことであれば、誰かに褒められるかどうかなんて気にせずにやるし、夢中になってやっているその時間が何よりも最高の報酬であり、エネルギー源になる。
反対に、会社のためにこれだけやった、だから偉いねって褒められることは、悪いことではないけれど、褒められたいが故に動く他人基準の人間になってしまう可能性が大きい。
わたしは、前者でありたい。他人から褒められることではなく、自分の満足感や充実感を糧に仕事をしていたい。それが自立した人間だし、わたしにとってのかっこいい大人だ。
でも、そう考えるのと同時に、人から褒められることは絶対に必要だと思う。他人から褒められることで、「あぁ自分はこれがけっこう得意なんだな」とか「自分のこういうところは、いいところだったんだな」といったことが、客観的にわかるようになるからだ。
そうした積み重ねが自信になるし、反対に、そうした経験なくして自信など生まれないんじゃないだろうか。
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こんなふうに書くと、いい歳して「褒められたがり」と思われるかもしれない。でもわたしは思う。誰だって、みんな心の中に、妖怪「褒メラレタ〜イ」を飼っている。
ただ、大人になると、他人に褒められる機会なんてほとんどないから、自分自身でこの「褒メラレタ〜イ」をうまく飼い慣らしてやらなきゃいけない。
自分で自分を褒められない人間にとって、この世の中はけっこうハードなんだ。
だから、自分のことを褒めてくれる存在っていうのは、すごくすごく大切。このハードモードの人生を生き抜くためには、絶対必要な存在だと思う。
そういうわけで、披露宴でウェディングドレスを着た友人の笑顔を見たときに感じたんだ。「あぁ、そういう存在が一番近くに居てくれるのは、本当に幸せなことだよなぁ」と。
そして、わたしの夫もそう。彼は偏食だし、家ではひたすらアニメを見てばかりだし、旅行の計画は全然一緒に立ててくれないけれど、不器用なわたしに代わって、いつもわたしを褒めてくれる。何ができても、できなくても、無条件に。
だからわたしも、自分で自分を褒めることができるようになったのだ。
みんなみんな、今日も明日も、妖怪「褒メラレタ〜イ」と生きていく。うまくいかないときや、へこむときもあるけれど、ときどき自分へのご褒美を買ったり、美味しいご飯を食べたりして、うまくやり過ごしていく。
そんな毎日のどこかに、いつも自分を褒めてくれる存在があったらいい。結果が出るとか出ないとか関係なく、他の誰かと比べるわけでもなく、精一杯今日を生きたことを褒めてくれる存在が、いつも近くにあったらいい。
あなたのことを褒めてくれるその存在はきっと、何よりも尊くて、最強だ。
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