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礼拝の退屈な説教に失望する人たち

 ミッションスクール出身で、キリスト教に触れて好感を持ち、聖書に関心を持っているクリスチャンではない方々のお話を伺う機会を得た。
 それは、とある家庭集会に招かれた時のことだ。既存の地域教会に属している信徒の家庭集会ではなく、クリスチャンである主宰者の方が自宅を解放して知人のメッセンジャー(説教者)を招き、定期的に開催しているオーガニックチャーチである。
 いつものメッセンジャーの方が体調不良とのことで、ピンチヒッターとして急遽お招き頂いたのだ。
 その集会は、あたたかい家庭的な雰囲気の中で聖書のメッセージが語られた後、主宰者の方が手作りの愛情たっぷりの料理を無料で振る舞ってくださり、キリストの愛を中心に参加者が自由に感想を分かち合いつつ交流する、使徒行伝2章終わりにある初代教会のような実に素敵な集まりである。

日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。

使徒行伝2:46〜47(口語訳)

 ここには地域教会に失望し教会を離れているクリスチャンや、教会の敷居は高過ぎて行けないが、友人の家に遊びに行く感覚なので来られるという求道者が集まっていて、主宰者ご本人も教会に属さないがとても熱い福音的なクリスチャンである。

牧師の話って何であんなにつまらないの?

 この集会の常連であるというピアノ講師Aさん。かつてはプロテスタント教会に通っていたと言う。

「クラッシック音楽をしっかり理解するにはキリスト教を理解しないことには始まらないんです。そんなこともあるし、中高とミッションスクールだったから、礼拝も聖書の話も抵抗ないし、教会に行ってみようと思って暫く通ったんですよ。
 メッセージが大切だし、聖書の解説だからと真面目に一生懸命聞いたんです。でも全然伝わってこないんですよ。
 まず話が平坦。そして主題が何かわからない。何が言いたいんですか?って感じ。
 こりゃダメだと思って別の教会に行ってみたんですけど、そこも同じような感じで。
 人に大切なことを伝えるわけだから、スピーチの勉強ちゃんとやってから話しなさいよ!って思っちゃいます(笑)」

 それを聞いていた初参加だと言うBさん。現在は一般企業でOLをしているが、昔からクラッシックの声楽をやっていて音大を卒業したという。ミッションスクールの高校時代、聖歌隊に入りたかったのだが、その学校は厳格で、クリスチャンでないと入れなかったので泣く泣く断念したそうだ。

「私も東京に来て社会に出てから、聖歌隊での悔しさもあって教会探して行きました。そこは牧師夫人が声楽をやっていた方で、クラッシックに理解があってよかったんですけど。
 でもメッセージは本当にそんな感じで、伝わってこなかったですね。
 今は引っ越して遠くなっちゃったんで、そこを含めて教会には行ってないんですけど…」

 このおふたりの話を聞いて、常連でベテランクリスチャンご夫妻のご主人の方が口を挟みます。

「いや、ホント。牧師の話って何であんなに退屈なんですかね。手元の原稿をブツブツ読み上げているだけとか、義務感でやってます、みたいな人多いですよね⁉️」

今度は奥様。

「ウチの教会も、牧師が変わって全然ダメになっちゃいました。説教がもう○○○○教団みたいな変な内容になっちゃって…」

 ○○○○教団みたいというのはちょっと偏見が加わっているかと思うが、牧師の礼拝説教が教会に期待している求道者を失望させ、長年信仰を持っているクリスチャンも失望させているということなのだ。
 しかし本来聖書の言葉は生きた神の言葉であり、人の霊を揺さぶり変革させるものである。

神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

ヘブル人への手紙4:12(口語訳)

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

テモテへの第二の手紙3:16(口語訳)

 日曜日の朝、教会の礼拝に行くことは当然のことではない。貴重な休日の、少なくとも半日を潰して交通費と時間をかけてそこに行くのだ。
 そこで神の言葉のダイナミズムが伝えられないということは、神の力が働くことを牧師が邪魔しているということにならないか?

説教者の未熟さと神の言葉の完全さ

 神学生時代、当然ながら説教演習があった。皆初心者だから初めはうまくいかない。その時、指導教師がこう話された。

「皆さん。皆さんの説教はみんな未熟です。しかし皆さん自身の話をするわけじゃないでしょ?神の言葉を取りついでいるんでしょ?
 皆さんの話は拙いかもしれないけれど、神の言葉は完全で力があるんです。だからそのことに自信を持っていいんです。」

 とても励まされた。同時に、完全で力ある神の言葉を、自分の拙さで邪魔してはいけない!と強く決心した。
 また「面白い話」で誤魔化してもいけないとも思わされた。というのは、私の属するペンテコステ派の一部では、いかに笑わせて会衆を惹きつけ、感動的な例話を仕込んで泣かせるかの説教?に人気があるからだ。しかしそういう説教の主役は神の言葉ではなく、ほぼ牧師の体験談、例話などを多用したキャッチーな話題で構成されており、神の言葉は脇役に押しやられていることが多い。

大切な本質

 キリスト教の説教は、神の言葉、すなわち聖書の言葉が絶対的に主役でなければならない。だからどんなに面白く感動的な話であっても、主従逆転してしまってはNGである。
 しかしそういう説教をする牧師は人気があり、礼拝に人が集まる。そうすると献金も増えるから教会としてもそういう牧会を求めるようになる。その結果、表向きは良い教会に見えても牧師が偶像化され、カルト化してしまう危険性をはらむ。

 逆に、誤解を恐れずに言えば、少なからぬ教会ではつまらない退屈な説教をルーティンのようにし続けているのかもしれない。真面目な信徒ほど牧師を批判してはいけないと思っているから、居眠りをしながら、或いは他のことを考えながら説教が終わるのを待って、馴染みの教会メンバーとお喋りをして何事もなく帰って行く。それが耐えられない人は黙って教会を去って行く。冒頭のお二人のような元々期待していた求道者も来なくなる。

 人に大切なことを伝えるのだから、伝えるための技術を磨くのは当たり前である。本質をしっかり伝えるために、神学の基礎的基盤がしっかりしていることは当然として、専門的な学びを継続すること、それに加えてプレゼンテーション技術を学ばなければ、あまりにも勿体ないではないか。
 幸にして常に聖書を学び続け、伝える技術を磨き続けておられる素晴らしい牧師に私は恵まれてきた。そういう牧師たちに出会えたので今の自分があると言ってよい。
 だが日本のキリスト教界の現実は、教会に失望して「野良」クリスチャンとなっている人たち。
 独学で聖書を読んでいたり、ネットサーフィンしてYouTubeのキリスト教関連動画や、教会ではないクリスチャンの集まりを探している未信者の人たち。 
 統計のとりようがないから肌感覚でしかないのだが、こういう人たちが教会に出席している人の数倍はいるのではないだろうか。

 神から召命を受けた牧師・伝道者は、イエス・キリストの福音をダイレクトに届ける責任がある。
 地域教会に集う人も、そこから漏れてしまった人も、イエス・キリストとの有機的交わりが必要である。だからこそそれぞれの場双方での働きに今私は遣わされているのだと思った。

エピローグ

 牧師の話がつまらない、響かない、届かない、という話を伺い、盛り上がった直後、私が説教をするという展開に…
 まるで棒高跳びでもするようにハードルが上がったな、まずいな…と一瞬怯んだ中での説教となったのだが、どんな状況にあっても聖霊が共におられ、導いて語らせて下さるということを知っており体験しているので、聖霊にお委ねしたところ、喜びと確信に満ちて奉仕を全うすることが出来た。

ヨハネ4:3〜14より

 説教後のランチタイムで、皆さんとても良いお顔で御言葉の内容についてこちらから訊ねる前に応答して下さったので、聖霊が豊かに働いて下さったのは間違いない。

 未信者の参加者のお二人が引き続きこのオーガニックチャーチに繋がり続けるのか、別の導きがあるのかは分かりないが、イエス・キリストに繋がることを信じたい。
 クリスチャンのご夫妻の信仰が深められ、イエス・キリストとの繋がりが深まることを祈りたい。

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