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少し先の話

ファインダーを覗くと青い海が水平線を描いていて、空には真っ白な入道雲が浮かんでいる。潮の音が夏の湿った生温い空気に運ばれて僕の体に絡まる。その空気がもっとも熱を帯びて、夏を感じた時にシャッターを切る。暑く爽やかな夏の風景を鮮明に映した写真とは対照に僕の心は憂いで霞んでいた。

前回の旅の写真を現像して封筒に入れ、市立病院へ向かう。面会の受付を済ませて、彼女のいる病室へ向かう。
病室のドアを開けると窓際に彼女はいた。病室の窓から夏の青空が四角く切り取られている。その風景をベッドから哀愁を含んだ羨ましそうな視線を飛ばしていた。
残念なことに僕はその姿を美しいと思ってしまった。
ドアが閉まると彼女はこちらに気がつく。

「お、来てくれたんだ。」

彼女の方へ近づいて座る。鞄の中から写真の入れた封筒をベッドの上の机に置く。

「昨日は二見ヶ浦の方まで行ったんだ。」

彼女は封筒の中から写真を取り出して嬉々として眺める。

「へえ、綺麗なとこね。どうだった?」

写真に視線を向けたまま僕に投げかけられた質問はどこか形式的なものがあった。

「綺麗なとこだったよ。でもめちゃくちゃ暑かったな。」

「そうなんだ。なんか申し訳ないな。」

申し訳ないという彼女の目にはそのような感情はなかった。この言葉もまた形式的なものだった。それも仕方がない。

「別に。僕が好きで行ってるだけだしさ。」

僕が彼女に写真を届けるようになったのはちょうど一年前のこと。彼女が入院してからのことだった。元々同じクラスだった彼女に密かに思いを寄せていた僕は毎月彼女のお見舞いに行っていた。しばらく彼女の元へ通ってから数ヶ月経ったある夏の日、彼女は唐突に「旅行に行きたい」と言った。当然入院中の彼女のその願いは叶うはずもない。そんなことはきっと彼女もわかっていたのだろう。少し寂しげなその横顔を見て何かできないだろうかと考えた。そして僕は彼女のために写真を撮ることにした。

この日も彼女は僕の撮った写真を眺めて、幸せそうに微笑んでいる。まるで旅行を楽しんでいるかのようで、僕も幸せを感じていた。

「やっぱり夏の空って広くて青いんだね。」

「それはそうでしょ。」

「そうだけどさ、もう最近見た空なんて窓から見える四角い風景だけだしさ。」

「写真だって四角い風景だろ。」

「でも、なんか広がってるんだよ。君の写真が上手だからかな?」

認めるのも否定するのもできなくて、笑って誤魔化した。褒められることにはいつになっても慣れない。

「いつもありがとうね。今日はこの写真貰ってもいい?」

「いいよ。別に全部あげるけど。」

「ううん。一枚だけでいいの。前にも言ったでしょ。」

そういうと彼女は、一枚だけ写真を取り出した。僕が写真を届けるたびに彼女はその中から一枚だけ選んで自分のものにしている。なぜ一枚だけなのか一度彼女に聞いたことがある。すると彼女は写真に目を向けながら答えた。

「少し先の話かもしれないけど、いつの日かこの風景を自分の目で見て、感動したいから。」

彼女が選んだ写真は全てベッドの横にある机の上に置かれている。少し台紙がよれていることから度々手にとって見ていることがわかる。

「きっともうすぐだよ。そのときは…」

「何?」

なぜか言葉が詰まって出てこない。何を言えば正解なのだろう。どう言えば正解なのだろう。

見失ってしまった。

「え、もう帰るの?もっとゆっくりしててもいいのに。」

重くなってしまった空気に耐えきれなかった。無理に理由をつけて病室を後にする。

「課題もあるし、あまりここにいても周りの人に迷惑になるかもしれないからさ。」

彼女に手を振って見送られて部屋を出る。

少し寂しそうにしながら写真を眺める彼女の顔を見て少し後悔した。

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酷く晴れた青い空。気温は30℃を超えている。僕は写真を撮るために遠くまで足を伸ばした。

この日訪れた場所は海の綺麗な場所だった。晴天からさす太陽の光が海面に乱反射して僕の目を焼く。心地の良い眩しさだった。

この眩しさを写真に収めようとファインダーを覗く。自分の理想の構図をカメラに落とし込んで、シャッターを切る。

写真を撮るのは好きだ。自分の目で見ているその光景の一コマを切り取って保存している感覚。思い出の保存だ。そして、その写真を現像してしまえばその思い出を手に取って他の人に見せることができる。思い出の共有だ。

ただ、写真だけではどうにも満たせないものがある。思い出は拡張できない。

僕は、旅の中で写真を撮ってその写真を病院で待つ彼女に届けている。写真を見て彼女はいつも嬉しそうに笑い、寂しそうに写真を眺める。

彼女にとってはその思い出は写真でしかないのだ。

岩の崖に波がぶつかって白い飛沫が踊っている。その光景が壮大で僕はカメラを構え、シャッターを切る。このようにして撮った写真も彼女にとってはただの一枚の写真。彼女はこの光景を自分の目で見ることはまだできない。

僕が写真を届けるたびに、彼女は寂しそうに喜ぶ。ただ、その寂しさの色が日を追うごとに濃くなっているように思えてしまう。

いつになったら彼女はこの景色を自分の目で見ることができるのだろうか。
そもそもそんな日は来るのだろうか。

彼女が退院したら、一緒に旅行をすることはできるだろうか。

もし一緒に旅行へ行けるのなら、彼女の持つ写真の中に彼女の姿も映して撮りたい。

水平線の上に青い空が広がっていて、大きな白い入道雲が浮かんでいる。その景色を見て楽しそうに笑う彼女を写真に撮りたい。

ただ、僕が今できることはその風景だけを写真に撮ること。ファインダーを覗き込んで見える景色に彼女の姿を多重露光させてシャッターを切る。

彼女が見ている四角い世界の中はこんなにも壮大な風景が広がっているということが伝わりますように。

僕の気持ちがこの写真で伝わりますように。

シャッターの音は波に溶けて消える。

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近未来と露光/初音ミク

[music]Saku
[illustration]ほ〜こう
[novel]たま

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