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教える立場と教わる立場 ー生涯学び続ける姿勢を胸にー

身体は疲れているはずなのに、夜中まで寝付けない出来事があった。

ささいなことなのだけど、
とてもとても胸が締め付けられる出来事だった。

整理するためにパートナーに喋っている時に涙が溢れるほどに。

単に悔しかったり、悲しかったりするだけじゃなくて
私自身の生き方、考え方を言語化する良い機会になってくれたので残しておこうと思う。


さて、昨日オンラインでとても楽しみにしていた講座を受けた。

昔の帯結び講座で、まゆナベさんという昔着物の着付けや髪型を研究して伝えておられる方。

内容はとても面白くって、2日連続違う講座を受講させてもらって、また新しい引き出しが増えて嬉しかったのだ。


その45分間の講座を受講していたのは私含めて5人ほど。

途中、普段やらない帯の結び方なことと、オンラインなことで、
上手くできず、どこが違うのかある受講生の方ご本人も講師の方もわからない場面があった。

どうも私は稽古ごとが長いこともあるのか、人の動きを理解して自分でやることが得意なようで、
その時さっとできて
講師の方が何度も丁寧に説明しておられるのを聞きつつ復習などしていたのだけれども、

ふと困っておられる方の画面を大きくして見るとどこで間違っているから上手くいかないのかがわかったので、講師の方を差し置いてつい「こうしたらできると思いますよ」と発言し、

その後、再度同じ方が上手くできなかった時に先に気づいて言ってしまった。


対面でやっていたのなら、隣の人が困っていたら同じ受講生が助けることもそんなに問題ではないように思うのだけれども、オンライン。

発言者は一人になってしまうため、私が進行の主体となってしまう瞬間があったのだ。

進行を妨げてしまったことに対して、
講座後に動画など特典を送ってくださるメールで以下の点をお伝えくださった。

・講師の方が長く積み重ねてこられ、忠実にお伝えされようとしていた歴史的な内容に私自身の思考が加わること

・そして疑問点そのものがまた今後の参考になるため、じっくり向き合いたいこと

当然である。

みんなその方に習いたいから受講している。
私だってそうだったはずだ。

もちろん進行を妨げたことに対するおわびと、今後の講座も楽しみにしている旨をお伝えしたのだけれど、

冒頭に書いたようにこれが私には寝付けぬほどのインパクトがあった出来事だったのだ。

実はお返事をお送りして10分後くらいにお返事をいただいていたのに、なぜか携帯で受け取れておらず、
この記事を書き始めてからお返事に気がついたことも不安定な気持ちの大きな要因であったことは否めない。


何がこんなに心をえぐったのか。
少し考えてみたい。

まず、私自身は講師の方も、参加者の方も両方わからなくて困っているように見えたのでどちらもを助けたつもりだったこと。

私の方がどうも講師の方より早くその方の困っているポイントに気づいてしまったこと。


さて、そこでなぜ私はそれを伝えようと思ったのか。
それがきっと私の信念と深くつながっている。

私は教える側から教わる側への知識の一方的な伝達に違和感を覚えている。

・それは私自身が保育だったり、子どもたちと、そして大人と関わる中で、教える立場に立ったとしても、逆に多くを学んできたこと

・そして教える側、上に立つ側は「仮に」その立場に立っているだけで、どんな人も生涯、常に学び続けている立場であると思っていること

この考え方は両親、そして小中高と通った一燈園の創立者の西田天香さんの考え方に大きく影響を受けているのだろう。
一燈園では「先生」と呼ぶことはほぼなかった。代わりに「さん」をつける。それは天香さんの「どんな人もみんな学んでいる途中で、仮に知っていることを伝える立場に立っているだけだ」という考え方が根底にある。
大学に入っても、日本史の先生方は学生も研究者として対等だという立場を表明しておられた。

こんな考え方を持っていることで、私は自身が学ぶ立場であっても、なるべく積極的に質問する、知っていることがあればお伝えすることをしてきた。
そうすることで講師の側に立った人と参加者の方両方に、その講義などが興味深かったという感想を伝え、共有することとなり、
それがあることでより深いコメントが出てくるかもしれないし、あるいは他の方が質問しやすくなるかもしれない。
こう考えてできる限り積極的に参加するようにしている。これは回りまわって結局自分がより恩恵を受けられるということでもあるのだ。


さて今回の事象に戻ろう。

まず、わからないと何度もやり直しても解決できない状況をそのままにしていることで、
私を含めてすでにわかった人は講師の方が間違いを発見し、その言葉を上手く伝えて受け取ってくれるまで、手持ち無沙汰で待っていることになるだろうと考えた。

それならばさっと違う人の言葉で違う説明の仕方をしてもらった方がわかりやすい可能性もあるし、講座の決まった時間を守れるかもしれないだろうなと直接お伝えすることにしたのだった。


それでなぜ講師の方のメールで打撃を受けたのか。

以上のことを考えて私としてはサポートしたつもりだったので、
逆に妨げていたという事実を突きつけられたという点に加え、

教える立場の方が参加者のサポートの拒否をしたというように感じたことが、「断固として教える側は教えるもので、教わる側と教わることに徹していたらいいのだ」というメッセージとして受け取ったのだ。

もちろん他にやり方があったのかもしれない。
口を出さないという選択肢もあった。

しかし私の行為は出過ぎたものであったと感じられたという事実は事実である。

つまりは「善意でやったことが拒否されて悲しい」という感情の分析でここまで2000字も書いてきた。

どうも私は教えてもらったことに対して、単に受け取るだけのモノになりたくないのだ。
もちろん最大限の敬意を持って学ぶべきだし、そうしてきたつもりである。
納得して面白いと思ったことは自分の中に落とし込んで、より自分にフィットするようにアレンジしていくこともあるし、
知らなくて困っている人には伝えたいと思う。
受け取り手によってわかりやすい説明というのは違うだろうし、正解はないのだ。
ただ「知らない」だけなんだったら知っている人が、伝えるのが上手な人が伝えたらいいのではないかと思う。

完璧にできたから伝えるのでなくてもいいんじゃないか。
チラッと伝えたことでその人の中で新しい展開を遂げるかもしれない。
「さわり」を知っているだけで世界は広がる。その先はまた別の人に習ったっていい。

私は最大限今知っていることをその人がなるべくわかる形で伝えたい。

常に学び続けている姿勢、
いろんなことをかじったり稽古ごとを重ねたりしていることが、
私自身の精神と身体を豊かにするだけでなく、

「さわり」を伝えることで
他の人の興味を広げたり、新しい世界があると知ってもらう。
こんな楽しみ方があるのだと思ってもらう。

そういう存在でありたい。

好文舍で始めさせてもらった「たまこや」は
この思いを具体化するひとつの場としていきたい。



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