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にじいろにんぎょ

【作品あらすじ】
 海で溺れ、人魚と暮らす少年は人との関わりを拒むも、心の奥底では愛を渇望する――『にじいろにんぎょ』
 自らの容姿に固執し潔癖な美しさを求めるも、同類からそのナルシスト性を否定される少女――『半熟ナルキッソス』
 子どもから大人へと成長する、多感な少年少女の心の成長を描く連作短編。




 雨の日が来るたびに、人魚はじっと、空を見上げていた。

「……人魚、腹減らないか?」

 そう呼びかけるタケルたち人間と同じ、二本の長い脚を持て余すように抱えている。豊かな黒髪は生足を覆うほどに長く、丸く大きな瞳の色は、空を覆う雨雲と同じ灰色をしていた。

 古くて狭くて汚いこのアパートの自慢は、家賃が安いことと、海が目と鼻の先にある景色の良さだった。

「聞いてるか? 朝飯食べてないだろ?」

 着丈の長いTシャツをワンピースのかわりにして、彼女は膝を抱えたままころんと横になる。いぜん瞳は空を見たまま、呼びかけを無視するその背中を、タケルはつま先で軽く小突いた。

「おにぎりつくったから、とりあえず食べよう。腹減っただろ?」

 おーい、と、指先でわき腹をくすぐる。彼女の弱点はわかりやすく、けらけらと笑い声をあげてもだえている。人魚はしぶしぶといった様子で起き上がり、蕾のような小さな唇で呟いた。

「……おなか、へった」

「だから飯食おうってば」

 口数は少ないが、声は可愛い。フローリングの上に皿を置くやいなや、彼女は白い腕を伸ばす。ただの握り飯にがっつくところを見ると、そうとう我慢していたのだろう。

「しょっぱくないか?」

「……すっぱい」

「それは梅干し」

 さすがに人魚に鮭やタラコを食べさせるわけにはいかない。目尻と唇をしわしわにしても綺麗な顔立ちをした彼女に、タケルは麦茶を差し出した。

「ほかに具、ないんだ。塩むすびだと味気ないかと思って」

「大丈夫」

 しかし顔はすっぱそうだ。男の手で作ったおにぎりは大きく、そして形も悪い。それをぺろりとたいらげて二つ目に手を伸ばす人魚は、タケルに負けず劣らずの大食いだった。

 食事をしているときでも、彼女は常に空模様を気にしている。まだあどけなさの残る横顔が憂いを帯びている原因は、梅干しの酸味だけではない。

「タケル、台風が、来るね」

 彼女は言葉を紡ぐのに慣れていないのか、消え入りそうな声でぽつぽつと喋る。夏だというのに肌寒く、上に一枚羽織ったタケルとは正反対に、人魚は薄着のまま。新しいおにぎりに手を伸ばすと、意を決するようにひと口かじった。

 すっぱい。再び顔をしかめる彼女に、タケルはくすりと笑う。

「今日、上陸するってラジオで言ってたけど、温帯低気圧になったのかもしれないな」

「ううん、これから、荒れるよ」

 部屋にテレビはなく、最低限の家具家財の中から情報を仕入れるのは真空管のラジオだけだ。人魚の天気予報は百発百中で、雨が降るといえば降り、やむといえばやむ。これから徐々に天候が崩れていくのだろう。

「今日の雨も、だめかな」

「最初からあきらめるなって。もしかしたら、台風と一緒に来るかもしれないだろ」

 ネガティブになるなよ、と頭を撫でても、人魚は唇をとがらせたままだった。

 築四十年の安アパートでは、いつか雨風に耐え切れずに窓ガラスが割れてしまうかもしれない。災害時の備えも心許ない環境では温帯低気圧に変わったほうがありがたいのだが、そんなこと口が裂けても言えない。タケルはいじける人魚のほっぺをつつき、目が合うと唇の端をくいと上げた。

「久しぶりに一杯やるか」

 人魚が饒舌になる方法を知っておくと、こういうときに便利だった。


         ○


 人魚と暮らすようになってひと月がすぎた。

 自分と同じくらいの年頃の、二十歳の声も届かない少女との同居生活。彼女は他に行くところもなく、陸上生活を送ることになった原因はタケルにあった。

 先月、タケルは海でおぼれた。

 台風の高波が道路まで上がり、海岸沿いの地域は避難勧告が出るほどだった。しかしタケルは暴風雨のなか家を出て、アパートの目の前にある防波堤に立っていた。背丈をゆうに超す高波が上がり、気づいた時には抵抗する間もなく飲みこまていたのだ。

 この地域の海は岩場が多く、荒波に揉まれてはまともに泳ぐこともできない。岩底に頭をぶつけて気が遠のき、気がつくと深みの底に転がっていた。

 頭を切ったのか、視界が赤く染まる。息苦しさにもだえることもなく、タケルはただ、自分のおかれている状況に身を任せていた。

 陸上の暴風雨が嘘のように、海の底はしんと静かだった。魚たちに言葉はなく、不本意に声をかけられることもない。外の世界にも、自身を脅かさない静かな場所があることを知った。

 頭をぶつけたせいか、身体が動かない。息はとうに尽き、肺に流れ込む海水に溺死という言葉が浮かんだ。

 タケルがそれを受け入れようとしたとき、現れたのが人魚だった。

 豊かに波打つ髪を海いっぱいに広げ、一糸まとわぬ姿だが不思議と卑猥さを感じない姿。虹色に輝く尾びれで力強く水を蹴り、彼女はあっという間にタケルを海面へと連れて行った。

 海面は激しくうねる波が容赦なく襲いかかり、空では雷まで鳴っていた。人魚は荒波を巧みにかわしながら浅瀬までたどり着き、自力で防波堤に登るタケルを見守った。身の安全を確認して海に戻ろうとし――そこで彼女は異変に気がついた。

 人魚は尾びれに傷をつけていた。

 傷口を波が撫でたとき、鱗がはがれた。その一枚が連鎖するかのように次々と身体を離れ、彼女はあっというま虹色の下半身を失った。

 残ったのは人間と同じ二本の脚だった。

 宝石のようなまばゆさを放っていた鱗は、波しぶきとともに空に舞った。まるで虹色の雨が降っているかのようで、その美しさにタケルのみならず人魚までが見惚れてしまった。やがて沖へと流されていったそれは、太陽が下ろす天使の梯子がごとく、ひとすじの光となってはるか彼方に消えた。

 あのときの彼女の悲しそうな顔を、今でも忘れることができない。

 こうしてタケルは、短い夏を彼女とともに過ごすことになったのだった。


「――なあ、人魚」

 彼女は基本、無口だった。人間の言葉を知らないわけではなく、むしろ外国の言葉にも多く触れているのかもしれない。根が恥ずかしがりやの性格なのだろうが、タケルが質問すれば答える素直さがあった。

 しかし、名前だけはわからない。何度か教えてもらったのだが、それは人魚の言葉なのか、文字に書き起こすことができなかった。勝手に名前を付けるのもはばかられ、タケルはそのまま、人魚、と呼んでいる。

「人魚ってば」

「なによう」

 だらんと伸びた語尾とともに、ひっく、としゃっくりが聞こえた。

「飲もうって言ったのはタケルじゃない」

 人魚の世界と人間の世界では、酒は別のものでできているのかもしれない。彼女はコップ一杯の牛乳で見事に酔っ払っていた。

 ふたりで窓の前に座り、絶えず降り続ける雨空を眺める。手に持つプラスチックコップはプリントの剥げかけた年代物だ。牛乳で頬を上気させる人魚は、両足を水のはった洗面器に浸していた。

「おかわりちょうだい、おかわり」

 あおるように残りの牛乳を飲み干し、鼻の下にできた白いひげを豪快に拭う。コップに描かれた女児向けキャラクターとのギャップに、彼女は気づいていない。

「タケルももっと飲んでよ」

「俺は飲みすぎると腹壊すんだ」

 三杯目の牛乳を渡し、タケルは麦茶に切り替えた。

 すっかり出来上がった様子の人魚は、身体をゆらゆらと動かし上機嫌に歌をうたっていた。人魚の言葉さと思ったが、よく聴くと英語の歌詞のようだ。タケルは洋楽に明るくないが、賛美歌のようなものではと推測する。

 人魚の予告どおり、天候は刻一刻と悪化している。風がうなり声をあげ、それに呼応するかのように窓ガラスが鳴る。荒れ狂う海を白兎の群れが渡る様は、初めて彼女に出会った海を連想させた。

「ねえ、タケル」

 猫のような甘い声を出し、人魚がフローリングの上に寝転がった。

「なんだよ」

 返事をするも、彼女はそれ以上なにも言わない。洗面器から足を出すと、つま先からぽたぽたと雫が落ちた。海水でも塩水でもないただの水道水だが、その一粒ひとつぶがとても透き通っているように見える。

 尾びれを失った彼女に残ったものは、人間と同じ二本の脚。そのつま先の、貝殻のように小さな爪は、あの鱗の名残なのか虹色に輝いていた。

「ねえ、タケル」

「だからなんだよ」

 ごろごろと身体を動かすしぐさは、人魚よりも犬や猫の小動物を思わせる。その長い髪に指をからめるととてもやわらかく、毎日風呂に入っていてもなお、海の香りを感じることがあった。

 床と頬の間に手を入れ、人魚は上目遣いにタケルを見上げる。薄着の身体はやわらかな体躯をありありと浮かび上がらせ、床に散らばる黒髪が少女に似つかわしくない艶やかさを醸す。灰色の瞳がまるで鏡のように、タケルの顔をじっと映した。

 そのまなざしに、自然と、身体が吸い寄せられてしまう。

「ねえ、タケル」

「だから……」

 なんだよ、と言いかけて、タケルは言葉を切った。彼女の細い指が唇に伸び、言葉を遮ったからだ。

 人魚は瞳を閉じ、歌うように唇を開いた。

「どうして、タケルは、海に飛び込んだりしたの?」


       ○○


 どうせ死ぬなら海がいい。

 ふと、そんな思いを抱くようになったのはいつの頃だったか。

 日がなアパートに籠るタケルを、人魚は当たり前のように受け入れていた。高校を休学しているのを知っているのか、いや、学校についての仕組みをあまり知らないのかもしれない。働きもせずにひとり暮らしをするその資金源がどこにあるのかも、海で暮らす彼女にとってはどうでもいいことなのだろう。

 風呂あがりのタケルの身体を見て、全身にはびこる消えることのない傷痕を見ても、ただ指で撫でるだけで何も言わなかった。その痕を隠すために、どんなに暑い日でも上着を手放さない姿には、悲しそうに眉をひそめるだけだった。

「タケルは溺れていたとき、苦しかった?」

 人魚はタケルの手をとり、そう尋ねた。

「苦しかったよ」

 高波にさらわれるのと、自分から飛び込んだのと、はたしてどちらが早かっただろう。

 荒れ狂う波にもまれて、身体の中の空気をすべて海に吸いだされて、抵抗せずされるがままになる自分に、これでいいのだという心があった。

 死ぬなら水の中がいい。プールは嫌だ。川もあまり好ましくない。望むは、海だ。

 沖に流され、命尽き果て、朽ちゆく身体はこの海になってしまえばいい。肉は魚や貝のえさになり、骨には海草が根をはればいい。

 亡骸の捜索なんていらない。肉が腐り、骨になり、それも砂になった頃。タケルという名の自分は、この世の中から完全に消えることができるだろう。

 大丈夫。自分が失踪したとしても、誰もそれに気づいたりしない。

「……どうして人魚は、俺を助けようとしたんだ?」

 海の中。朦朧とした意識の中。自分を抱きかかえ、息を与えてくれた彼女のことをかすかに覚えている。

 あのまま死なせてくれればよかったのに。どうせ誰も、自分のことなんて気にしていないのだから。

 いつのまにか、人魚がタケルの袖をまくっていた。どれも古い傷痕で、成長とともに薄くなりつつあるものも多い。しかし今も、あの時の痛みがありありと蘇る夜があるのだった。

「タケルが死んだら、悲しむ人がいるでしょう?」

「そんなのいないさ」

 吐き捨てるような言葉に、人魚は怯みもせず傷痕に唇を寄せた。

「タケルには、家族がいないの?」

「いるよ。産みの母と血のつながらない父と、年の離れたかわいい妹が二人」

 いるけれど、いない。誰よりも自分に近しい人たちであるはずが、タケルはそのつながりを拒んでいた。

 両親は妹たちを溺愛すると同時に、自分にも人並みの愛情を注いでるのだろう。けれど、今まさに妹たちが受け取る愛と、自分がその年頃のときに受け取っていた愛は、まったくの別物だった。

 それはもう、過去のこと。わかっているはずなのに忘れられず、タケルは家族から距離をとるようになっていた。高校に通えなくなり、家を出たい言ったときも、両親はただ黙ってうなずくだけだった。

「家族がいるのに、どうして?」

「一緒にいると、怖くて身体がすくむんだ」

 自分はもう、あの頃と違う。背がぐんと伸び、そのぶん力も強くなった。昔と同じことをされても、今の自分なら抵抗はもとより反撃することだってできるはずだ。

   頭ではわかっている。しかし、いざ親を目の前にすると、だめだった。

「子どもの頃の夢を見るんだ。母親に抱きしめられたことより、父親に煙草を押し付けられたことのほうが何度も夢に出てくるんだ」

 人魚は、背中に残る火傷痕を知っている。視線がそれを追うが、タケルは気づかないふりをして、そっと彼女の髪に触れた。

 そのやわらかな髪に触れると、不思議と心が落ち着く。自分と同じシャンプーを使っていても、かすかに海の香りが残っている。窓の向こうに広がる景色がすぐそばにあるようで、つい触れてしまうのだが、人魚はいつも嫌がるそぶりを見せなかった。

 家を出てこのアパートを選んだ理由は、海が見えることだった。与えられた家財道具がすべて中古品でも文句はなかった。リサイクルショップで買った洗濯機と電子レンジは動けばそれでいい。寝具は子どもの頃から使い続けた煎餅布団。年代物の真空管ラジオもキャラクターもののプラスチックコップも家族のお下がりだが、タケルのためにお金を使いたがらないのは言われずともわかっていた。

   両親の存在を感じるのは生活費が振り込まれた時だけ。台風や嵐が来ると防災無線が避難勧告のアナウンスを流すが、家に残っていても誰も声をかけて来ないのが気に入っている。

「タケルは、私がいなくなったらまた同じことをするんでしょう?」

「……それは」

 否定できない。タケルの命と引き換えに人魚の身体を失った彼女にとって、同じ過ちを繰り返そうとする自分は愚かな人間に見えることだろう。

 自分は海の砂になるほうがいいと、タケルのその気持ちを、彼女は理解できないに違いない。

「お父さんやお母さんに、うまく愛してもらえなかったから?」

「それはもう、昔の話だ」

「じゃあ、どうして?」

 その問いに、タケルは苦笑とも嘲笑ともつかない息を漏らした。

「……ひとりだから、かな」

 あの家族に必要とされているのは、父と母と二人の娘。息子などいなくとも、ホームドラマで見たような、あたたかな家庭がそこにあるのだろう。

 どうすれば自分もあの世界の一員になれるのか。時間を巻き戻して、子どもの頃の自分に、同じ景色を見せればいいーーけれど、その願いが叶わないこともわかっている。

「誰かといるのが苦しいんだ」

 そう説明するタケルに、人魚は小さく息を吐き、手を離した。

「私も、ずっと、ひとりだったよ」

「人魚が?」

 初耳だった。そもそも、人魚とこういう話をするのも初めてかもしれない。

「生まれた時からひとりだったの。気が付いたら海の中にいて、ひとりで泳いでいたの」

 人魚とはどうやって生まれるのか。人間のように母のお腹で十月十日を過ごすのか、それとも魚のように卵から孵化するのか。彼女はなにも覚えておらず、ただ、人魚として海の中で暮らしていた。

「ひとりで、いろんなところに行ったよ。いろんなものを見たよ。仲間に会ったこともあるけど、一緒にいる時間は短くて……ずっと、ひとりで生きてきたの」

 ずっと、の響きが重い。もしかしたら海の中は、竜宮城のように時の流れが陸と違っているのかもしれない。

「……人魚は、海に帰りたい?」

「帰らないと、生きていけない」

 いくら人の姿をしているとはいえ、彼女は人魚だ。一日の大半を水に触れて過ごし、風呂の時間はとても長い。食べられるものも少なく、いくら肺で呼吸ができたとしても、陰で苦しそうに喘いでいることをタケルは知っている。

 その灰色の瞳が、鏡のように自分を映す。まなざしの強さに、タケルはまばたきで遮ることもできなかった。

「海は豊かで、すべてを受け入れてくれる。仲間に入れない私でも、ひとりで生きていける広さがあるの」

「人魚も、ひとりは寂しい?」

「わからない。私が望んだことだから」

 タケルを見つめる、とろりとした瞳。やはり彼女は酔っている。けれどその吐息からは酒の匂いも、牛乳の匂いもしなかった。あるのは海の香りだった。

「……人魚は、海に帰りたい?」

 繰り返す問いに、彼女は否定とも肯定ともつかない頷きを返し、でも、とつぶやいた。

「タケルをひとりにするのが、心配」

 窓が、大きく揺れる。風が悲鳴のような声をあげる。叩きつける雨。海が、唸りをあげている。

 見つめ合っていても、わかる。

 台風が、来た。


      ○○○


 人魚が、空に向かって大きく手を広げた。

 ごうごうと叫ぶ風、礫のように叩きつける雨、生き物がごとくうねる海。防波堤に打ちつける波が、散り散りになって道路を覆っている。

 タケルは懸命に、人魚の背中を追っていた。

 虹色の雨が降っている。砕け散ったあの鱗が、海を渡り空に舞い上がり、雲として――台風の渦となって、戻ってきた。

「人魚……!」

 荒れ狂う海にひるみもせず、沖へ沖へと泳いでゆく人魚。砂浜も岩場も、海がすべてを飲み込んでしまっていた。彼女を追うタケルは、海の中かろうじて岩場を踏みしめているものの、波をかぶるたびに呼吸を遮られ半ば溺れかけていた。

「人魚!」

 どんなに呼んでも、声は届かない。彼女はシャツを脱いで裸になった。雨に打たれ、海に溶け込んでゆく虹色のかけらを、すくい集めては自らの体にしみこませていく。

 彼女がひとつ、波をこえるたびに、虹色が身体を包み込んでいく。むき出しの脚に鱗の破片が絡み、少しずつ、豊かなひれの形を縁どっていく。

「にんぎょ……!」

 時化た海に揉まれ、タケルはこれ以上先にすすむことの危険性を感じていた。けれど決してここから去るまいと、口に流れ込む海水を吐き出し懸命に息を吸った。

 大きな波に、身体をさらわれる。あの時のように、海に飲み込まれそうになる。

 恐怖は感じない。けれど、人魚を見失うのが怖かった。

「――タケル」

 溺れそうになったタケルを助けたのは、やはり彼女だった。

 その姿はまだ、人間だった。けれど、虹色に包まれた脚の輪郭はとても曖昧だ。人魚に抱きしめられ、タケルもまた、虹色の雨に打たれていた。

「危ないから、戻って」

「……いやだ」

 タケルがしがみつくと、人魚は困ったように唇をすぼめた。

「行かないで、人魚」

「タケル……」

 彼女の身体が人魚に戻るまで。それだけの関係だと思っていたのに。

「行かないで。一緒にいて」

 ひとりにしないで。

 自ら望んでひとりになったはずなのに。なぜいまさら自分は、こんなにも彼女にすがりついているのだろう。

「ずっと、あの部屋で暮らそう。こうやって、たまに海で泳げば、きっと人魚も苦しくないから」

「それはたぶん、無理だと思う」

 まるで赤子をあやすように、人魚はタケルの背を叩いた。

「私は人魚で、タケルは人間。私は、人間にはなれない」

「俺も人魚になりたい」

 自然と、その言葉が口を出た。人魚は人間になれないけど――人間は人魚になれないのだろうか。現に彼女も二本の脚を持っているではないか。

 鱗を失った人魚は、かつての彼女の姿に戻っていたのではないだろうか。

「人魚と一緒にいたいんだ」

「タケルには家族がいるじゃない」

「俺には――」

 言葉が出ない。なぜ彼女がそれを言うのか。揺れるタケルの瞳を、人魚がまっすぐに見つめた。

「タケルは、ひとりでいるのが寂しいのに、自分からひとりになろうとしてる」

「でも、今は、人魚がいる」

「どうしても、私と一緒にいたい?」

 力強くうなずいたタケルに、人魚は両の手のひらで海の表面をすくいあげた。

 その手には、鱗の欠片が浮かんでいた。虹色の雨が降りそそぎ、彼女の身体が混じったそれを、そっとタケルの口元へとさしだした。

「飲んで」

 タケルは言われるままに、うやうやしく、手のひらの杯を唇へと運んだ。

 海の水は、塩辛かった。舌の上でじゃりじゃりと転がる鱗が、不思議と甘く感じる。舌が強い刺激でびりびりと鳴った。

 体温で鱗が溶け、やたらと粘膜にまとわりつく。飲み込めず、タケルは口に海水を足した。

 ふと、飛び出してきた部屋を思い出す。このまま失踪したとして、誰がそれに気づくのだろう。毎月金を振り込むだけの両親が、減らない残高に疑問を覚えた時だろうか。

  部屋は必要最低限の家具家財だけ。息子が子どもの頃から使っていた煎餅布団を見て、母がなにか思うことがあるだろうか。

  家を出る時に、古びた真空管ラジオを渡した父親。年季の入ったものをいまだに捨てていなかったのはなぜか。なぜそれを、血のつながらない息子に渡そうと思ったのか。

   兄がいなくなると知った妹たちが、荷造りを手伝った時に詰めたプラスチックのコップ。あれに牛乳を注いで渡すのは、いつもタケルの役割だった。

 ひとりを望んでいたはずなのに。

  自分はいったい、何から逃れようとしていたのか――

「――タケル」

 鱗を飲み込めずにいるタケルの頬を、人魚の手が包み込んだ。

 ふっくらとした桜色の唇が、自分の唇に重なる。海で溺れたときのように、するりと舌が忍び込んでくる。

 あの時は、それでタケルに空気を送った。けれど彼女はいま、その濡れた舌で、タケルの口内をかき回していた。唾液と鱗が混じって音が鳴り、それを荒波がかき消していた。

 人魚の舌に翻弄され、息もろくにできない。けれど、苦しいと思わない。遠慮がちに舌を絡めると、人魚は抱きしめる力を強くした。

 長い口付けが終わるころ、人魚ののどが、ごくりと鳴った。

「……にんぎょ」

 ほうけた表情をするタケルに、人魚は鱗がついて虹色に光る舌を、ぺろりと出してみた。

「やっぱり、やめた」

 そしてそのまま、タケルに背を向けた。

「――人魚!」

 彼女は海に消えた。

 優雅に動く虹色の尾びれが、一瞬、水面に現れる。そのしぶきが、タケルの顔にかかる。

 タケルは呆然と、二本の脚で、岩場に立ち尽くしていた。


       ○○○○


 自分は海で死ぬことができない。

 それに気づいたのは、台風が通り過ぎ、世界が静けさを取り戻したときだった。

 台風一過、とてもいい天気。降りそそぐ太陽の下、海に潜ると波の影が網のように身体を覆った。

「――人魚!」

 彼女は海底のやわらかな砂の上で、ぼんやりと寝転び空をながめていた。

「……あ、タケルだ」

「これ、どういうことだよ!」

 タケルは海の中、そう叫んだ。

 口から、空気が漏れる。肺の空気が少なくなっていく。息を吐き、空気のかわりに思いっきり海水を吸い込む。

 けれど、苦しくない。

「俺、どうなったんだ……?」

 なぜ自分はこうも簡単に、海の底にたどり着けるのか。息が尽きても苦しくない。そして、やたら魚たちの視線が気になるのはなぜか。

 両足の爪の先が、かつての彼女のように虹色に輝いているのはなぜか。

「なあ、人魚、聞いてるか?」

「うん?」

 彼女は、いつもの人魚だった。無口で、眠たそうで、アパートにいた頃のように、ぼんやりと海から空を見上げていた。

「これは、どういうことなんだよ」

「うん……」

 やはり、口数が少ない。タケルは海の底に降り立ち、毛布のように海藻にくるまる人魚の肩をつかんだ。

 乳房が丸出しだ。それにすこし、動揺する。

「タケルが飲み込もうとした鱗、全部かきだしたつもりだったんだけど……残ってたみたい」

「みたいって……」

「大丈夫、完全な人魚になったわけじゃないから」

 もういいでしょ。寝かせてよ。そんなそぶりで、人魚は瞳を閉じた。

「おい、寝るなよ。なんで人魚にしてくれなかったんだよ」

 あれからずっと、人魚のことを考えていた。どうして自分を連れて行ってくれなかったのか。あの時なぜ、自分から人魚になる術を奪ってしまったのか。

 どうして自分をひとりにしたのか。

「だって、タケルにはまだ早いと思ったんだもの」

「……早い?」

「タケル、口で言うわりにまだ未練があるでしょう」

 ちらりと、彼女が片目を開く。その見透かすような鋭い視線。海の中の彼女は饒舌に言葉を紡いだ。

「鱗の欠片をすぐに飲み込めなかった。タケルにはまだ、口にできていない言葉があるんでしょう?」

「そんなの……」

 否定しかけて、タケルは唇を噛む。

 あれだけ世界から消えてしまいたいと思っていたのに。いざ消えようとした瞬間、自分の心に気付いてしまったのだ。

 もう一度、家族に確かめたいと。

   自分は本当に、ひとりなのかと。

「その鱗が身体から抜けるまで、時間はたっぷりあるわ。タケルが人間でいたいと思ったらそのまま人間でいればいいと思うし、人魚になりたいと思うのなら、今度こそ本当に、私が人魚にしてあげる」

「俺は……」

「私は未練も何もなかったから」

 ふわあ、とあくびをして、彼女はタケルに手を伸ばした。

「いくらでも遊びにきて。辛いことがあったら泣きにきて。嬉しいことがあったら話しにきて。私はずっと、ここにいるから」

 その手のひらが頬を撫でる。人魚が流ちょうに話すのは、彼女たちの言葉を使っているからだろうか。人魚の鱗を身体に宿した自分は、その言葉がわかるようになったのかもしれない。

「海は、私たちふたりでも広すぎるのよ」

 タケルは表情を曇らせる。なぜ人魚は、自分をこんな身体にしたのだろう。

「こうすればタケルは、海で死のうなんて思わないでしょう?」

 人魚は、ふふ、と笑った。その表情は、あどけなさなど感じさせない、すべてを悟った笑みだった。

 彼女は本当に、生まれながらの人魚なのだろうか。

 どうして、人間を人魚にする方法を知っているのか。

「人魚は、もしかして……」

 そう尋ねようとしたタケルの唇を、彼女の指が遮る。

「その人魚って呼び方も、今日で終わり」

 彼女は、タケルの耳元に、唇を寄せた。

「私の名前は――」


              了

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