とうきび畑でつかまえて~エピローグ
エピローグ
五月の十勝岳連峰は山肌に雪を残し、水を引いた田畑がそれを水鏡に映していた。
今年は雪解けが早く、札幌は三月下旬には積雪無しが発表された。桜前線は順調に北上し、ゴールデンウィークには札幌で満開の桜を楽しんだが、富良野はまだ蕾の木がちらほらと見受けられた。
自転車のペダルを踏み、息吹は通い慣れた道を走る。冬の間に嫌というほど味わった満員電車も、むやみに通行を止める信号もない。
無人販売所には旬のアスパラがたくさん並んでいた。ホイル焼きにして食べようと、南京錠のついた金庫にお金を入れる。ここまで来れば目的地はあと少し。緊張で高鳴る鼓動を感じながら、砂利を敷き詰めた坂道を登る。
自転車は駐車場に停めた。家の中に人の気配はない。窓から中を覗くと、仏間に新しい遺影が飾られているのが見えた。ふたりは隣同士寄り添うように並び、春のうららかな陽射しを浴びて微笑んでいるようだった。
トワが「おかえり」と言ってくれているような気がした。
誰もいない庭で、息吹はひとり身だしなみを整える。服装はこれでいいだろうか、髪形はおかしくないだろうか、手土産は喜んでもらえるだろうか。時計を見ると午前十時。そろそろ休憩の時間だろう。
雪どけを迎え、畑はこれから作付けが始まる。稲瀬農園にはハウス栽培と露地栽培の二種類があり、ハウスに人の姿が見えた。無人販売所で並んでいた野菜はここで一足早く収穫を迎えているようだ。
「あの、こんにちは」
入り口から声をかけると、振り向いたのは菜緒子だった。
「……息吹さん?」
「ご無沙汰してます」
頭を下げると、彼女は豊の名前を呼んだ。妻の声に気づき顔をあげた彼は、息吹を見て目をまんまるに見開く。
「あんた、どうしたんだい」
息吹は彼に手土産を渡す。勤務先だったデパートの菓子折りにした。「みなさんで召し上がってください」と伝えると、豊が好奇心で紙袋の中をのぞく。土のついた手で包装紙を開けようとする豊に、菜緒子が「仏壇にあげるのが先でしょ!」と奪い取った。
「いつこっちに来てたの? 穂高ったら何にも言わないんだから」
菜緒子が両手につけていたアームカバーを外す。長靴についた土を払い玄関に向かう彼女は、庭先で立ち尽くす息吹を手招いた。
「お茶でも飲んでいきなさい。ばあちゃんにお線香あげてくれるんでしょ?」
「はい。でも……」
玄関の扉を開くと、家の中から「ばあちゃん!」と声が聞こえる。誰もいないと思っていたが、穂乃花が中にいたらしい。
「穂乃花、息吹さんが来たわよ」
「いぶ!」
穂乃花は玄関を飛び出し、一目散に息吹へ駆け寄った。抱きつかれ、背が伸びたなと思う。子供の成長はこんなにも早いのかと、息吹はその頭を撫でた。
「穂乃花、お父さんは?」
「畑にいるよ」
舌足らずだったはずの話し方も変わった。「案内してくれる?」と聞くと、彼女は「いいよ」と息吹の手を握った。
家の裏手にある畑をトラクターが耕している。夏には様々な種類の野菜が育っていたが、一面に広がるのはむき出しの土だった。ところどころ黒く見えるのは融雪剤の炭の名残り。大地の香りが立ち昇り、息吹はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
「おとーさん!」
穂乃花がトラクターに向かって手を振る。運転席から穂積が手を振り返した。
エンジンの音が止まり、彼はトラクターを降りた。長靴で畑を歩くが、ふかふかに耕された土は歩きづらいのか足をとられている。
「息吹さん、来てたんだ」
「お久しぶりです」
ホテルで働いていたころに比べると、いくぶん表情が柔らかくなったように見える。彼は足元でまとわりつく穂乃花を軽々と抱き上げた。
「穂高のところに来てたの?」
「いいえ。ここに来たら会えるかなと思って」
自転車を停めた際、いつもの軽トラがないとは思っていた。穂高は家を出た時に新しい車を買ったらしいが、車種を聞いていない。軽トラのイメージが強すぎてほかの車を運転する姿が思い浮かばなかった。
「日曜日だし、農協の仕事はお休みだからこっちに来てると思ったんだけど……」
「さっき、ミル・フルールに野菜を届けに行ったんだ。そろそろ戻ってくると思うよ」
富良野市のホテルのフロントは、穂積のかわりに和奏が正社員になったと聞いている。彼女ももとは旅行会社のOLとして社会人経験を積んでいた。早々に主任に抜擢され、夏の繁忙期に向けてばりばり働いているらしい。
「帰ってくるまで家で待ってなよ。穂乃花も息吹さんに遊んでほしいだろうし」
「いぶ、はやく」
穂乃花が熱心に家の中へと招く。導かれるまま後ろを歩くと、庭の砂利を踏むタイヤの音が聞こえた。
「ちょうど帰ってきたな」
穂積が呟く。白い軽トラが家の前で停まり、運転席の窓が開いた。
「息吹、なにしてんの?」
穂高には何も連絡していなかった。彼は心底驚いたような表情を浮かべ、車を降りる。息吹の腕を引っ張ると、玄関ではなく畑へと向かった。
「なんで連絡しないんだよ。言ってくれたら駅まで迎えに行ったのに」
「この時期は畑で忙しいかと思って。会えなかったらまた来るし」
「今日はどこに泊まるんだ? すぐに帰るなんて言わないよな?」
突然のことに動揺するのも当然、顔を合わせたのは雪まつり以来だ。久しぶりに会えた嬉しさと、たくさん話したいという気持ちと、もっと一緒にいたいという気持ちがないまぜになって息吹の腕をつかんでいる。
「仕事は休み? 何泊して帰る予定?」
「辞めたの、デパート」
「え?」
驚きとともに、穂高が手を離した。
「契約が四月末で更新だったから、そこで終了にして今年もミル・フルールで働くことにしたの」
寮に入ったのは昨日のことだった。勤務初日までに、和奏のところに遊びに行く予定だ。
「黛さん――店長にお願いして、営業時間の短い売店に入れてもらったの。だから今年は去年より残業も少ないし、休みも多めにしてもらうつもり」
電話で仕事の相談をした際、事情を説明すると黛は快く承諾した。今年の彼は食品を扱う売店ソレイユの担当になり、息吹もそこの所属になった。あのショップは閉店時間が早いため、仕事終わりの時間を有意義に使うことができる。
富良野生活二年目。息吹にはひとつの目的があった。
「わたしも畑の仕事を手伝っちゃだめかな?」
寮に住めば、稲瀬家はすぐそこ。畑に出る日も限られているが、去年よりも深く稲瀬農園と関わることができるだろう。
「わたしも農業のことを知りたいの。今日も手伝えるように、ほら、動きやすい格好をしてきたし……」
いつもはTシャツにジーンズだったが、穂高を真似てつなぎを着ていた。ポケットに入れた軍手をはめてみせると、彼は複雑そうな表情を浮かべていた。
「穂高が畑に来れない日は、わたしが野菜のお世話をするよ」
勤め人に戻れば、穂高も畑にいる時間が減るだろう。彼の知らぬ間に成長する作物の様子を、息吹が伝えることは無意味だろうか。
「もし跡を継ぐのが穂積さんになっても、どこかに土地があればそこで新しく始めることだってできるじゃない? その時に、わたしも農家の仕事がわかっていれば役に立てるかなって思って」
「おれは別に、息吹にそこまでしてほしいと思ってないよ」
「好きな人が大切に思っていることを、わたしも大切にしたいの」
軍手を脱いで、息吹は穂高の手を握った。
男性らしい大きな手。日々の仕事で固くなった手のひら。泥の残る爪先。この手に、彼の過ごした年月が刻まれている。
この地には、彼がその身に受けた愛が色濃く残っている。
「わたしも一緒に考えちゃだめかな。これから、大変なことや辛いこともたくさんあるだろうけど、それを穂高だけで抱え込まなくていいように、一緒に抱えるのはだめかな」
息吹が苦しんだ時、悲しんだ時、彼は決まってそばにいてくれた。
それを自分も返したいと思うのは間違っているだろうか。
「重たい荷物も、ふたりで持ったらきっと軽くなるよ。楽しいこともふたりで分け合ったら倍になるよ。舟を漕ぐのも、ふたりなら、もっと遠いところまで行けるようになるよ」
暗い時は明かりを灯したい。風が強い時は盾になりたい。
楽しいことがあればふたりで分かち合いたい。ふたりでいれば、嬉しいことも二倍にも三倍に膨らむのではないだろうか。
自分も、彼を支えられる存在になりたい。
「一緒にいるって、きっと、そういうことでしょう?」
見上げる息吹に、彼はしきりに瞬きを返すだけだった。
一世一代の告白をしているのだが、はたして伝わっているだろうか。不安で口数が減り、息吹は握る手に力を込める。
「今年はたくさんこの畑に来るから。穂高に会いに行くから。だから穂高も、ここで待っていてくれる?」
お互い仕事があれば、去年より会う時間が減るかもしれない。けれど、待ち合わせの場所があればすれ違うこともないだろう。
「……だめ?」
自分ばかりが話している。それがたまらなく不安で、息吹は訊ねた。
お願い、何か言って。迷惑なら迷惑だと。
しかし穂高は、ただひらすらに息吹を見つめるだけ。
風が吹き、耕したばかりの畑を撫でる。土埃が息吹たちを茶化すように巻き上がった。
目に砂が入った。たまらず涙がにじむ。それに気づき、穂高が手を伸ばした。
言葉なく、目の中の砂をとる。何度か瞬きをすると、嘘のように痛みが引いた。
彼の顔がすぐそばにあった。
「……穂高?」
呟くよりも早く、彼の唇が塞いだ。
抱きしめられ、息がつまる。けれど苦しさより、彼の腕の中にいる安堵が勝った。
「……待ってる」
耳元で、穂高の声が聞こえる。それに息吹は小さく頷いた。
「とうきび畑で待ってるから」
「うん、会いに行く」
今年の夏もここは緑豊かな畑になるだろう。
待ち合わせは北海道のど真ん中、とうきび畑で。
あなたをつかまえにいくから、待っていて。
了
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