とうきび畑でつかまえて~5,bieiでkoiする5秒前②
八月十一日に山の日が制定されて、お盆休みにはなにか変化があるのだろうか。
混みはすれど、七月の最繁忙期に比べると明らかに観光客の数が少ない。とはいえ激務には変わらず、息吹は売店ラベンダーでせっせと仕事をこなしていた。
夏休みシーズンに突入してから、ミル・フルールを訪れる観光客にも子どもの数が増えた。大人は景色を見て楽しむが、子供には遊具もなく退屈な場所らしい。親が買い物に夢中になっている間に商品を弄り破損してしまうことが多々あった。
今日は子供が芳香剤をぶちまけてしまい、商品に飛び散ったせいでそれの片づけに追われた。肝心の親は弁償もせずさっさと逃げ帰ったのだから大したものだ。いつもならイライラしながら雑巾がけをするが、今日は気持ちに余裕があった。
朝早くから活動しているが、疲れはとくに感じない。むしろ朝からしっかり食事をとり、さらにはメロンにまでありつけたため身体が軽く感じた。
「エクスキューズミ―」
声をかけられ、息吹は雑巾がけの手を止めた。
「メイアイヘルプユー?」
反射的に英語が出る。しかし、相手の発音は明らかに日本語英語だ。たまに、海外の観光客が多いことを利用してわざとアジア圏の国のふりをする人がいる。
この客もそのたぐいか? 顔をあげ、息吹は日本人の顔をまじまじと見つめる。
「……大地?」
「姉貴、なかなかサマになってんな」
そこにいたのは、東京で働いているはずの弟だった。
「帰ってきてたの? お盆休み?」
「今年は山の日のおかげでうまいこと長期休暇にできたら、宗谷岬までツーリングしようと思って」
ライダースーツに身を包む弟は、夏になると帰省のついでに道内を旅していた。いつも弾丸帰省だったはずだが、まさか身近に山の日の恩恵を受けている人がいるとは。ブーツの踵をかちかちと鳴らし、大地は興味深げに店内を見回している。
「このへんはいつも素通りしてたけど、店に寄るのも楽しいな。ラベンダーソフトもおいしかった」
夏の北海道はライダーたちの聖地だ。ミル・フルールの駐車場にもたくさんのバイクが並んでいるが、身軽な旅を好む彼らは景色とソフトクリームを堪能するとすぐにまた出発してしまう。陽ざしの強い昼間にスーツを着込む姿は暑いに違いなく、そのいでたちに売店ラベンダーのスタッフたちがちらちらと視線を送っている。
「安達さん、片付け終わりましたか? 午前休憩に入ってください」
タイミング良く話しかけてきたのは黛だった。掃除に時間がかかってしまい、午前の休憩がとれていないことを気にしているのだろう。ライダースーツの青年にも興味を示したのか、仏頂面の下にある瞳に好奇心が見え隠れしている。
「黛さん、こちらわたしの弟です」
「安達大地です。姉がいつもお世話になっております」
営業の仕事で培った人懐こさで、大地は挨拶をする。弟も大人になったなと、息吹は心の中で呟いた。
「こちらこそ、いつもお姉さまには助けていただいています」
スタッフの家族が観光がてら売店に顔を出すことはよくある。黛が慣れた様子で頭を下げると、話を聞いていた他のスタッフたちもわらわらと集まってきた。
「安達さんと弟さん、似てるね」
「うん。血を分けた姉弟って感じ」
「それってライダースーツですよね? 暑くないんですか?」
我が弟ながら、ライダースーツの姿は男前に見える。スタッフも若い女子が多く、あれこれ話しかけられて大地も戸惑っているようだ。
「安達さん、早めにお昼休憩にしますか? 午前休もとれてませんし、まとめて入ってください」
休憩はスタッフが順番にまわすよう決まっている。息吹が先に入ると後の順番がずれてしまうが、大地に興味を示すスタッフたちは「どうぞどうぞ、姉弟水入らずで!」と快諾してくれた。
昼休みは午前休とあわせて四五分程度であり、ミル・フルールの外にも行けずカフェ・アカシアに入った。お盆時期の昼時は混雑するのが常だが、早めに入れたことでさほど並ばずにレジにたどり着くことができる。前払い制のため、レジ前にあるメニュー表を見てふたりで悩んだ。
「軽食の提供だから、お腹にたまるものはカレーくらいしかないけど」
「十分だよ。俺、三食カレーでも平気だから」
カレーの野菜はアスパラからブロッコリーの時期になっていた。大地はカレーのほかにカップ販売のミニトマトやラベンダーサイダーを購入する。
「ここはわたしが出すよ」
「いいよ、姉貴もバイトみたいなもんじゃん」
「スタッフは社販で買えるのよ」
息吹が売店名と名前を告げると、アカシアのレジ係が社割を適用させてくれる。姉としても、わざわざ本州からフェリーでやってきた弟になにかしてあげたいと思うものだ。
席は見晴らしの良いテラス席にした。窓のそばには大きなニセアカシアの木があり、それが店名の由来になっている。ラベンダーこそ見ごろを終えてしまったが花畑は健在であり、息吹はそちらを眺める席をすすめようとしたが、大地は十勝岳連峰の見える席を選んだ。ツーリングをするたびに見るその雄大な山々が気に入っているらしく、姉弟だな、と息吹は思う。
「ひとりで帰ってきたの? 彼女……婚約者は?」
「今年のお盆は別行動にしたんだよ」
今回の彼はひとりで道内を回っているらしい。お互いに独身最後の夏を謳歌しようと決めたらしい。
「今年は北海道を縦断する予定なんだ。昨日実家に泊まって、札幌から桂沢湖(かつらざわこ)通って富良野に出たんだよ。あの山道もまた攻略するのが楽しくてさ」
息吹が富良野に来た時は高速バスを利用したが、自分で運転する足のあるひとは国道一二号線から三笠(みかさ)市内に入り、桂沢湖のある峠道を抜けて富良野に入るのが一般的だ。滅多に札幌から出ない息吹と違って、大地は道内の道路事情にも詳しいようだ。
「これから宗谷(そうや)岬に向かって北上して、また戻ってきて一三日に帯広(おびひろ)まで南下して勝毎(かちまい)花火大会見るんだ。そのあと襟裳(えりも)岬に行って、日高の競走馬見みながら苫小牧(とまこまい)に行って、フェリーに乗って帰るよ」
大まかなプランを話すが、北海道縦断に加えけっこうな距離を走るようだ。彼は自分が組んだプランをいたく気に入っているらしい。
「結婚したら今みたいにひとりで好き勝手遊べなくなるし、バイクの運転も無茶できなくなるしさ。だから長距離を走り回るのも、今年で最後かも」
その表情には、寂しさと、そしてすこしの幸せが潜んでいる。こうして彼は新しい家族をつくっていくのだろう。
弟に先を越されたと焦った時もある。しかし、自分がどんな結婚をしたいのかを考えるようになると、好いた相手とともに生きていくことを決めた彼に素直に頭が下がった。
「結婚式は来年の二月の予定だけど、そのときは姉貴も帰ってきてるんだろ?」
「まあ……そうだね」
富良野の仕事が終われば実家に帰らざるを得ない。しかし、その後のことをどうするかは、いまだなにも考えられずにいた。
「姉貴は結婚を考えてる人とかいないの?」
遠く離れたところに住む彼は、息吹が婚活をしていることを知らない。
穂高の顔がよぎる。今日は朝早くから活動していたため、彼から告白されたのがずいぶん前のように感じられた。
「いないね。大地に先越されて悔しい」
嘘はついていない。姉の言葉に、大地は気まずそうに鼻の頭をかいた。
「ま、いまは初婚の平均年齢も三十歳っていうしな。うちの会社の先輩たちも独身の人いるし、姉貴もそういうののんびりしてそうだし」
実際、息吹も苦いきっかけさえなければ、三十路を過ぎても婚活のこの字もない生活を送っていたような気がする。札幌は他の都市部のように晩婚化がすすんでいるため、三十歳を過ぎて未婚であることもさして珍しくはなかった。
「大地の彼女は二十九才だっけ? 年上の彼女ってどう?」
素直な疑問が、息吹の口から出た。
「彼女はちょっと気にしてるみたいだけど、一歳差なんてあってないようなもんじゃない? 全然気にしたことなかったな」
「もし、彼女が五歳も上だったらどうする?」
「五歳差か……」
サイダーにラベンダーシロップを溶かしただけのドリンクを飲み、大地は考える。
「自分が二十代半ばのころに、相手が二十八歳とか二十九歳とかだったら身構えない?」
いままでの経験では、二十代後半になると年下男性からのアプローチが減った。一歳二歳なら同世代として話も弾んだが、それより下になるとやはり結婚適齢期の女子に対して身構えるものがあるようだ。
「相手が明らかに結婚に焦ってる感じがあると、引く気持ちもわからないでもないけどな。でも、好きだから付き合おうって考えるやつもいると思うよ」
「それで何年かたって別れても、自分はまだ若いもんね」
しかし、そのとき別れた女性はどうだ。貴重な結婚の機会を逃し、三十一、二歳で振出しに戻る。そこからまた相手を探し、付き合って、結婚は三十五歳を超えるかもしれない。
男性なら三十歳を過ぎてもまだ年下女性から十分アプローチを受けるだろう。女性には三十歳の節目があるが、男性は三十五歳がボーダーラインであり、その五年には大きく深い溝がある。
「つまり姉貴は、五歳下に気になるやつがいるんだな」
ずばり言いあてられ、息吹は苦し紛れにミニトマトを食べた。
穂高の気持ちは素直にうれしい。あと一年でも二年でも若ければ、たとえ彼への気持ちが執着心の引き起こすものだとしても、付き合うことを決めていただろう。もし彼の通過地点になってもぎりぎり二十代、いくらでも再出発はできる。
しかし、今の自分に、それをする勇気はない。
「別にそこまで深刻に考えなくてもいいんじゃないか? 二十歳差とかひと回りとかに比べれば、五歳差のカップルなんて大したことないよ」
噛みしめるたび、トマトの青い香りと甘酸っぱさが口に広がる。ミル・フルールで販売しているミニトマトは完熟してから収穫しているため、果物のような甘さがあった。
自分はもう、青臭い恋愛ができるような年頃でも、甘酸っぱい気持ちに胸躍らせる年頃でもない。
三十歳という、その年齢が自分の足に枷をつける。
「ま、最後は姉貴が決めることだから俺は何も言えないけどさ」
残りのラベンダーソーダを飲み干し、大地は腕時計を確認する、休憩時間はまだ残っているが、本格的なランチタイムの始まったカフェはレジに長い行列ができていた。
「次会えるのは正月かな。そのときに、今日の話の続き教えてよ」
大地は食後のデザートにメロンが食べたいと言い、息吹は一日に二回もメロンを食べた贅沢な日になった。
〇
ラベンダー製品を多く販売しているミル・フルール富良野だが、売れ筋の商品は季節によって変わる。雨の降る日は傘が飛ぶように売れ、暑い日はソフトクリームが売れる。天候によっても異なるが、お盆の時期はお線香を買っていく人が増えた。
「これ、熨斗つけてもらっていいですか?」
レジに並んだ女性が、お線香とロウソクのセットを買い求めた。外の陽射しを嫌ってか、帽子を目深にかぶり表情がよくわからない。息吹は「かしこまりました」とレジ下にある棚の中を探した。
お盆の時期に限り、お線香用の熨斗を用意している。保管場所は教えてもらっていたが、プリンタについての説明はなかった。息吹は筆ペンの蓋を開け、インクの出を確認する。
「表書きと名入れはどうされますか?」
「……表書きって、なんですか?」
息吹の問いに彼女は困ったように聞き返す。
「四十九日の忌み明け法要前なら御霊前。忌み明け法要以降なら御仏前。新盆・初盆を迎えられる方なら新盆御見舞、喪中はがきなどで訃報を知った時は喪中御見舞など、いろいろありますが」
すらすらと説明する息吹に、女性は帽子のつばを手で触る。
「祖父の新盆にお供えしたくて」
「それなら、新盆御見舞ですね」
メモ用紙に軽く試し書きをし、息吹は熨斗の表書きに『新盆御見舞』と書いた。
「お名前はどうされますか? 書かずに渡されても大丈夫ですが、もし必要ならこちらにお名前を書いていただいてよろしいですか?」
息吹がボールペンとメモを差し出すと、女性はアームカバーをつけた手でペンを握った。
そこに書かれた名前を、息吹はまじまじと見つめる。
「……一穂ちゃん?」
目深にかぶった帽子でわからなかった。驚く息吹に、一穂は観念したように顔を見せる。
「だまし討ちみたいにしてごめんなさい。どうしても、働いている姿を見てみたくて」
先日会った時はお風呂上がりのすっぴんだったが、今日の彼女はお化粧をしていた。日焼け止めを厚塗りしているのか、汗でファンデーションが浮いてしまっている。
「息吹さん、いろいろ詳しいし、字も綺麗でびっくりしちゃって……」
「これは前の仕事で勉強したことだからね」
筆ペンで名入れをしながら、息吹は苦笑する。辞めたはずの仕事でも、意外なところで役に立つものだった。
お菓子の販売をしていると、さまざまな用途で買い求める客と接した。中には一穂のように表書きがわからず戸惑う人もいた。一方で地域や宗教の違いについて知識が足りず、お客様からお叱りを受けることもあった。
店では専用のプリンターで印刷をしていたが、インク切れや故障で使えなくなることがあったため自主的にペン習字を習った。熨斗の名前を書き終えると、彼女はうっとりとため息をこぼす。
「綺麗な字。あたしの名前、画数が多いから書きづらかったでしょう」
「久しぶりで緊張したけど、綺麗に書けてよかった」
インクが乾くのを待ってから袋に入れ、小分けの袋とともに差し出すと、彼女はすこし躊躇うそぶりを見せながら口を開いた。
「……あの、今日、夜に時間ありませんか?」
突然のお誘いに、息吹はぱちくりと瞬く。
「息吹さんと、ふたりでお話したくて」
富良野の生活では基本、夜に用事が入っていることはない。断る理由も見つからず、息吹は彼女の誘いを承諾した。
一穂との待ち合わせ場所はカフェ・マーレだった。
仕事終わりに息吹が寄ると、彼女はカウンター席に座っていた。穂高がいつも座っている席だが、本人は知る由もない。海が軽く目配せしながら出迎えた。
「おつかれ、息吹ちゃん。晩ご飯はまだ?」
「おなかぺこぺこ。がっつり食べたい気分」
いつもはオープンサンドだが、今日は米が食べたい。メニューを広げて悩む息吹に、海が声をかける。
「今日はカレーがおすすめだよ」
富良野ではカレーを提供する店が多い。一穂はそれに決め、息吹も同じものを頼んだ。
カフェ・マーレのカレーは無水調理にこだわり、トッピングにも夏野菜がふんだんに使われていた。素揚げのブロッコリーはつぼみが焦げ、軽い口当たりとともに芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。食べる手が止まらず、息吹はブロッコリーを続けざまに口に入れた。
「ああ、おいしい。幸せ……」
「野菜をそんなにおいしそうに食べる人、はじめて見ました」
一穂にまじまじと見つめられ、息吹は咀嚼の口元を隠す。
「息吹さん、穂高と結婚するんですか?」
「……はい?」
唐突な質問に、息吹は激しくむせる。
「農家の嫁って大変ですよ? 朝早くから畑に出て仕事をして、さらに家のことまでやって子供ができたら子育てまでこなして……あたしのお母さんなんておじいちゃんの介護までしてたんです。普通のサラリーマンの奥さんになったほうが苦労しないと思います」
「そもそも、穂高とはまだ付き合ってないから」
海は耳をそばだてて聞いている。一穂は鬼の仇のようにブロッコリーを噛んだ。
「農家の子供は強制労働なんです。休みに友達と遊びたくても畑の手伝いしろって言うし、夏は畑があるから旅行もできなくて。田舎だから人間関係も狭いし考え方も古いし」
稲瀬家の末娘である一穂は、幼いころから農家のしきたりに揉まれ、苦労する母を見て育ったのだろう。息吹を問い詰めるふりをして、その向こうに自分の将来を見ているようだった。
「一穂ちゃんはどんな人と結婚したいと思ってるの?」
「あたしは絶対、農家の嫁にはなりたくないんです。サラリーマンの奥さんになりたい。仕事だってなんでもいいわけじゃなくて、公務員とか大手企業とか安定した仕事に就いている人がいいです」
息吹が彼女くらいの年ごろの時は、将来のことなどあまり深く考えていなかった。若いのにしっかりしているなと、心の中で呟く。
「いまってみんな当たり前のように婚活してるじゃないですか。でも、いい人が見つからなくて苦労してるのも知ってるから、あたしは若いうちに相手を決めておきたくて」
苦労しているのがずばり息吹である。一穂は悪気なく言っているのだろうが、容赦ない言葉が刺さって仕方なかった。
彼女の結婚観はさして珍しいものではない。息吹がかつて働いていた職場でも、新入社員の子が似たようなことを言っていた。いまの時代、ひとりで生きていくには公的援助が乏しく、婚活をしても相手に恵まれない難しい世の中だ。それを冷静に見つめる若者たちは、早めに結婚する傾向があるらしい。
流れ弾に胸が痛むが、彼女は気づかぬままスマートフォンを取り出しだ。
「息吹さんなら札幌のこといろいろ詳しいかと思って。あたし、就活でお盆明けには帰らないといけなくて、よければ連絡先を……」
その甘え方が嫌いではない。連絡先を交換し、嬉しそうに微笑むその表情がまた、穂高によく似ている。
「穂高と喧嘩したとか、近所のおばさんに嫌味言われたとか、そういうのあったら遠慮なく相談してくださいね」
「だから穂高とは付き合ってないし、わたしも婚活中だから」
「そうだったんですか?」
リゾートバイトに来る女性が婚活に励んでいるなど思いもしなかったのだろう。一穂のまんまるな瞳がさらに輝き、無言で話を聞いていた海が口を開く。
「一穂は、息吹と穂高のことを応援したいの? それとも邪魔したいの?」
「邪魔っていうか、穂積(ほづみ)と同じ道をたどったら嫌だなって思って」
また新しい名前が登場した。はたしてそれは誰なのか、息吹が訊ねる前に、一穂のスマートフォンが着信を告げた。
「――もしもし、ばあちゃん?」
どうやらトワからの連絡らしい。
「今日は晩ご飯いらないって言ったっしょ。息吹さんと食べてるんだから」
トワは電話だと声が大きくなるのか、スマートフォンから漏れ聞こえてくる。しかし話の内容までは聞き取れず、息吹はカレーを食べながら通話が終わるのを待った。
「わかった、誘ってみる。したらね」
通話を終えると、彼女は小さなため息をついて息吹を見た。
「息吹さん、ばあちゃんとも仲良いんですね」
トワには富良野に来てからなにかと面倒を見てもらっている。素直に肯定する息吹に、彼女は苦笑まじりの表情を見せる。
「明日、晩ご飯食べに来なさいって」
「いつもご飯を頂いているばかりだから、何か買って行こうかな」
「気を遣わないで、いつもどおりの息吹さんで来てくださいね」
その言葉に含みがある。意味をはかりきれず、息吹は曖昧に頷き返すしかできなかった。
お盆は第二の繁忙期であるが、売店の営業時間を延長するほどの混雑は見られなかった。息吹は早々にタイムカードを押し、制服を脱ぎ捨て売店ソレイユへと向かった。
ソレイユでは茹でとうきびやカットメロンの販売他、お土産用の箱入り菓子など食品を取り扱っている。売店はすでに閉店時間だったが、半分閉じたシャッターの中に入るとスタッフが清算作業をしている最中だった。
「取り置きしておいたラベンダープリン、七個ですね。保冷剤も入れておきましたから」
稲瀬家にはいつも手ぶらでお邪魔していたが、今日は土産を用意した。箱の中に入っているのは何の変哲もないプリンであり、生地が紫色に染まっているわけでもない。はたしてどこにラベンダーの要素があるのか、ずっと気になっていたお菓子だった。
「取りに来るのが遅れてごめんなさい」
「今日はお盆でたくさん仕入れてたから、ちょうどよかったです。売り上げに貢献してくれてありがとうございます」
精算は昼休みのうちに終えており、退勤時間まで冷蔵庫で冷やしてもらっていた。売店ソレイユは向日葵畑の前にあり、見ごろを迎えた向日葵が観光客の目を楽しませている。ともすれば売店ラベンダーより忙しい日があるのかもしれず、スタッフは疲れで頬がこけているように見えた。
売店やカフェの営業時間が終了しても、向日葵畑を歩く観光客がいる。何気なくそれ眺めていると、その中に見知った顔があった。
「一穂ちゃん、穂乃花ちゃん!」
呼びかけると、ふたりが花畑から手を振る。仕事終わりに一穂に迎えに来てもらう予定だったが、穂乃花も一緒だった。穂乃花は「いぶ!」と小さな体で突進してくるため、プリンの箱を落としてしまいそうになる。
一穂が運転する車は普通の乗用車だった。いつもの軽トラで来ると思っていた息吹に、彼女は考えを読んだかのように笑った。
「これはお母さんの車です。どこにでも軽トラで出かけるのは穂高だけですよ」
公共交通機関の充実した札幌と違い、富良野では一人一台が普通の世界である。チャイルドシートも完備され、一穂は穂乃花を乗せると慣れた手つきで車のエンジンをかけた。
「運転上手だね。札幌でもよく乗ってるの?」
「まさか。運転するのはこっちに帰って来た時くらいですよ」
先を走るレンタカーが突然ウインカーをあげたが、彼女は動じることなくハンドルをさばいた。
「農家の子供は小さいうちから車を運転できるようになるんです。荷物の運搬にトラックも使うし、私有地なら免許がなくても大丈夫だから」
「じゃあ、教習所に通った時もすぐに合格できたでしょ?」
「むしろ逆です。自己流で変な癖がついてたから、それを矯正するので大変でした」
間もなく稲瀬家に到着したが、駐車場にはやけにたくさん車が停まっていた。
いつもの夕食だと思っていたが、庭先にバーベキューの台が設置されていた。一穂は先に買い物をしていたらしく、トランクから大量の食材や飲み物を運ぶ。息吹は穂乃花をチャイルドシートから降ろしたが、庭では見知らぬ男性陣が熱心に炭火を起こしていた。
「……穂積の嫁さんか?」
そう声をかけてきたのは、はじめて会う中年男性だった。息吹はすぐに稲瀬家の親族だと気づく。体型こそスレンダーだが、顔が豊にそっくりだ。
「いつ帰ってきたんだ? またこっちでやり直すのか?」
誰かと勘違いしているらしい。お酒を飲んでいるのか、酒臭さに気圧されていると男性陣の中から穂高が顔を出した。
「息吹、来てたんだ?」
彼は息吹が呼ばれたことを知らなかったらしい。目をまんまるに広げ、息吹の腕から穂乃花を抱き上げる。
「おじさん、穂乃花の前で余計なこと言うなよ」
注意され、男性はすごすごとバーベキューの輪に戻っていく。息吹はプリンの箱を穂高に見せた。
「これ、お土産に買って来たんだけど、数が足りないかも」
「あとで食べよう。冷蔵庫に入れてきて」
男性陣には穂高の父親ほか、知らない顔が多々ある。玄関をくぐると、お線香の香りが鼻先をくすぐった。
仏壇のそばに盆灯篭が灯っていた。一穂がラベンダーのお線香を買いに来た時、祖父の新盆だと言っていたことを思い出す。
「こんばんは。あの……手伝いますか?」
トワと菜緒子は台所にいた。忙しそうで、手土産よりも先にその言葉が出る。菜緒子は息吹が来るのを知っていたのか、顔を見るなり「お肉運んで!」と叫ぶように言った。
あれよあれよと食材を渡され、息吹はそれを運ぶ。庭では食材を焼き始めていた。采配しているのはもっぱら穂高だったが、ほかにも若い男性がいて食材を受け取った。
誰が誰やらわからず困惑する息吹に、一穂が食材を運びながら耳打ちする。先ほど息吹に話しかけてきたのが豊の弟の稲瀬穣(みのる)であり、庭にいるのは彼の娘の旦那たちらしい。
稲瀬家の家系図が増えて頭がパンクする。この輪の中で自分ひとりが部外者だ。お暇すべきかと思うが、菜緒子は次々と息吹に用事を頼んだ。
「穣さんの奥さんも娘さんも、法要が終わったら男たちだけ残して帰っちゃうんだから。息吹さん、ご飯が炊けたからおにぎり作って!」
「……はい!」
勢いに圧され、息吹も台所に立つ。十合炊きの炊飯器を開けると、中には白米がみっちりと炊きあがっていた。
「何個くらい作りますか?」
「適当!」
しゃもじや皿の場所を指示され、息吹はおっかなびっくりおにぎりを作り始める。炊きたての白米は熱く、急いで握るため形もいびつになってしまう。菜緒子はタレ漬けジンギスカンの封を開けてボウルに移した。
「お客さん扱いできなくてごめんなさいね」
「こちらこそ忙しいところお邪魔してすみません。もしかして、新盆の法要って今日だったんですか?」
仏壇の盆提灯のそばに仏花のアレンジメントが並んでいるのが見えた。お供えされた菓子の数も多く、喪服がハンガーにかけたままだった。
トワは気軽に誘ってくれたのだろうが、そんな日に部外者である自分がのこのこ訪れていいとは思えない。
「法要は昼間に終わったし、近所の人もお線香あげにくるからいいのよ。お盆なんて毎年こんなもんだわ」
彼女は朝から新盆の準備で忙しかったに違いない。疲れた表情を見るといてもたってもいられず手伝ったが、実家でもっと家事をすべきだったと思った。
おにぎりを作り終えたころ、穣の娘と孫たちが到着した。穂乃花と齢の近い子供たちが集まると庭がいっそう賑やかになる。女性陣はこれまた食材を持って来たらしく、台所に野菜や肉が次々と運ばれた。
「これ、うちの胡瓜で作った浅漬け。口がさっぱりしていいでしょ」
「お肉も買ってきたから適当に焼いちゃうね」
「子供たちのアイス、冷凍庫に入れておくから」
次男家は三人姉妹らしい。誰もがこういう場に慣れているのか、台所に声をかけては食材を運んでいく。顔と名前を覚えるのに必死だったが、ひとり見覚えのある人がいた。
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